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それは太陽に混じった海 −『太陽と月に背いて』再考−

ああ、純潔よ、純潔よ。
俺に純潔の夢を与えたものはこの目覚めの時だ。−精神を通して、人は『神』に至る。
想えば身を裂かれるような不幸。
『不可能』


往年の名訳がついた詩集でも、時間が経てばさらなる文学者の手によってより精緻で新解釈が加えられた新訳版が発表されることがある。同じようにして、長く長く愛し心に秘め続けてきた映画も、何年もの時間を経て改めて観直すとそれまでとは全く異なる解釈を得ることがある。長く長く愛してきた、その解釈を愛してきたのであっても、時間とともに、感知の主体となる私の精神的変化とともに、愛する映画の解釈は変わっていく。一本の映画を長く深く愛するということはそういうことでもあるのかもしれない。

若きレオナルド・ディカプリオがフランス稀代の詩人アルチュール・ランボーを演じた映画『太陽と月に背いて』のDVDを成り行きでゆりさんに貸すことになり(大阪・東京を往復する壮大な貸し借りだ)、発送する前に動作確認も兼ねて久しぶりに観て、そしてちょうど夏休みを楽しんでいるゆりさんが東京で鑑賞してくれて、それぞれに、私は久しぶりに観て新たに得たものを、ゆりさんは初めて観て得たものを二人で語り合う機会があった。ゆりさんは仏文のふの字も知らぬ私よりずっと教養のある聡明な人だし、この映画を観たゆりさんと感想を語り合うのはとても楽しかった。


私は、この映画について何かを書くということは決してしまいと、ずっと思ってきた。
それというのも、ひとえに私に仏文の教養がないからだった。この映画のことを考え、語るにあたっては史実におけるランボーとヴェルレーヌ、そしてフランス詩史におけるふたりの立ち位置をしっかりと見据えることが不可避だろうと、そしてそれが私にはできないと、語るのを諦めるというよりも、私には語る資格がないと思ってきた。それでいいとも思っていた。
けれど時間を経て私がこの映画から得たものと、ゆりさんとの対話から得たものを元手に、どうにか書けるのではないかと思うようになった。10代の私が愛した、今に至るまでの私が愛するこの映画のことを語れるだけの元手が、15年の時間をかけてようやく揃ったような気がしたのだった。

だから、きっと不完全ではあるけれど書いてみようと思う。この映画のことを書くのはとても緊張する。それだけ愛しているので。



『太陽と月に背いて』の閃光

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映画『太陽と月に背いて』はフランス詩人アルチュール・ランボーとポール・ヴェルレーヌが出会い、恋に落ち、ランボーは身ひとつで、ヴェルレーヌは妻子を置いて二人でヨーロッパ各地を転々としながら愛し合い、傷つけ合い、そして別れる物語だ。こうして書いてみるとただの、詩人でなくても十分にありふれた恋愛の物語だ。詩人という特殊な職に身を置きながら、やっていることはただの人間のそれだった。
ただの人間のそれと思えないのは、やっぱり若き日のレオナルド・ディカプリオの圧倒的な美しさに目が眩んでしまうからなのだろう。この映画の中で、何度見ても彼は人間ではなかった。

人には誰しも生涯でいちばん美しい瞬間があり、その美しさが人ならざるものにまで研ぎ澄まされてゆく人が、世界に落下してくることがある。
レオナルド・ディカプリオもまたそうやって世界に落ちてきた人だった。
そして『太陽と月に背いて』は、彼がその半生の中で最もこの世ならざるもの、人ならざるものに接近した一瞬を確かに捉えた奇跡の映画、奇跡の120分だったと私は思っている。思っているし、信じている。
奇跡だったと、それ以外に言葉が見つからない。煙管を咥えて街を歩く横顔も、待ち望んだ海を目の前にして見せる笑顔も、恋人に置き去りにされて泣き崩れる姿も、その恋人の手にナイフを突き立てたときの氷のような視線も。
(『太陽と月に背いて』フリーペーパーに寄稿)

その美しさと純真な笑顔、涙、幼さの残る声でランボーはヴェルレーヌを翻弄する。天真爛漫に、行きたいところへ行きやりたいことをやり書きたいことを書く。その姿にヴェルレーヌは夢中になる。それを、彼の「美しさ」に夢中になったと感じるのも無理はない。だってレオナルド・ディカプリオはそれほどに、ランボーは美しさでヴェルレーヌを翻弄したのだという考えに強い説得力を持たせるほどに美しかったのだから。
私も10代の頃から長らく、これは若く美しいランボーが冴えない詩人ヴェルレーヌを翻弄し、振り回す映画であり、ランボーは悪魔的人間なのだと思っていた。これもまたレオナルド・ディカプリオの呪いだ。
けれど私は30代となり、改めてこの映画を観直すとこれは全然、そういう映画ではなかった。


ランボーはただ愛しか持たない、身ひとつの孤独な少年だった。彼のその純真な愛に甘え、妻子を捨てたかと思えばすぐに妻のもとへ戻り、追いかけてきたランボーのことも忘れられず、どっちつかずのままに妻とランボーの間を行き来しているヴェルレーヌこそがランボーを振り回していた。ランボーは自分のもとにやってきてくれたかと思えばすぐに妻のもとへと戻っていくヴェルレーヌの態度に深く傷ついていく。捨ててしまえばいいものを、愛しているから追いかけてしまう。追いかけても、壊れそうな自分の矜持をどうにか保って笑顔を作る。「何をするにも君の勝手だ」と、強がっているのだ、彼は。

だって16歳だ。
まだ16歳の少年が大人であるヴェルレーヌに自分の愛を示すとき、背伸びをしないわけがない。
大人相手の恋愛に、背伸びをしない子供がどこにいるだろう。
私たちは、この映画は小悪魔ランボーが大人を振り回す物語と思っている私たちは、彼がまだ16歳の少年であるということを忘れてはいないか?
レオナルド・ディカプリオという俳優があまりに美しかったが故に、もしかすると本当は有りもしなかった悪魔性がことさらに目立ちすぎているだけなのではないのか? その可能性を、少しでも、考えたことがあるか?


いつだって、どんな関係においてだって、社会性が愛を傷つける。純真ゆえに愛しか持っていない者は、相手の社会性に傷をなすことでしか、自分の受けた愛の傷と対等に痛み悶えるところにまで引き摺り下ろせない。私の大事にしている愛を傷つけたのだから、お前の大事にしている社会性を傷つけることでしか、われわれの情愛は完成しない。そういう、傷つけ合うことでしか愛を証明しあえず、そうして傷が深まりすぎたが故に関係が破綻する、そういう話だった。
(ゆりさんの日記 7月5日)

ゆりさんが語る通り、これは純粋な愛が大人の社会性によって深く傷ついていく物語なのだと思う。
彼は精一杯背伸びをしたんだ。「君は僕に生活を与え、僕は君の詩の才能を蘇らせる」とうそぶいて、そのくせ愛の言葉もうまく使えず、いつも自分の思いは“I’m very fond of you.“で誤魔化して、彼には“Do you love me?“と直情的な愛を求める。そうやって年齢や社会性、二人の間に横たわるあらゆる不均衡を前に、自分の矜持を精一杯守ろうとした。

ただいじらしいばかりの少年じゃないか、こんなにも。



"I'm very fond of you."に秘めた愛

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„I’m very fond of you.“
「君が好きだよ」

10代と20代の私が、この映画においてランボーの方が精神的優位に立っていると考えたのは彼の台詞“I’m very fond of you.“が理由だった。
be fond ofはlike以上love未満の言葉だ。likeが一時的な好みを示すのに対して、be fond ofは継続的に好きだということを表し、人を指すときはその人が大好きだということで、通常はよく知っている人であったり、長い期間付き合いがある人になる、けれどloveには至らない、そういう言葉だそうだ。
ヴェルレーヌに対して決して“I love you“とは言わず“I’m very fond of you.“をランボーは繰り返す。最後まで、彼は“I’m very fond of you.“を貫く。
だから若い私は、愛の総量としてはランボーよりもヴェルレーヌの方が多くて、ランボーはその愛を弄ぶかのように思わせぶりに“I’m very fond of you.“と曖昧に答えることで、それがじれったくて、ヴェルレーヌがランボーから離れられなくなってしまったのだと思っていた。彼に“I love you.“と言わせたいヴェルレーヌなのだと思っていた。

けれど「背伸びをしたランボー」というイメージを得た私はもうそんなことは思えない。これは背伸びの愛の言葉だ。本当はなりふり構わず“I love you“と言いたい、けれど言ってしまうと自分が壊れてしまうからどうしても言えない、愛と矜持の間で引き裂かれる少年の精一杯の背伸びした愛だ。

„The only unbearable thing is that nothing is unbearable.“
「堪え難いのは何にでも堪えられるということだ」



関係性の中で変わりゆく「永遠」

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ゆりさんが言うには、ランボーの詩というのは仏語的にもかなり直接的な、詩人にしては平易と思われる文法が使われているそうだ。文法で飾りたてることのない、私たちが思っているよりずっと直情的で無垢な人の書いた詩であったのだろうと。
それは長らく岩波文庫でのランボー『地獄の季節』を確立させてきた小林秀雄訳版に、2020年中地義和による新訳版が発刊され、読み比べてみると明らかだ。私のお気に入りの小林「想えば身を裂かれるような不幸。」という美しい一文は「胸を引き裂く不幸!」というとてもシンプルな訳へ変わっている。私は長く小林訳の『地獄の季節』を読んできて、その詩たちの美しさをとても気に入っていたけれど、それは今までランボーを翻訳してきたあらゆる文学者たちが、自分の思う、自分の理想とするランボーを翻訳によって投影していたからに過ぎないのかもしれなかった。長い間ランボーは彼らにとって理想的な美しい鏡だったのだろう。


だから、ここでは今、日本で一番新しい中地義和訳のランボーの詩で考えたい。
考えるのは、映画にも登場する「永遠」の詩だ。ランボーの詩の中ではおそらく一番有名だろう、あまりにも有名で、ランボーのことをさして知らない人でも詩だけはなんとなく知っているということもあるだろう。この詩はこの映画だけでなく、様々な場面で使われる。実際、私はこの詩が使われた舞台を観に行ったことがある。
けれど私も新訳版を読むまで知らなかったのは、この詩にはふたつのパターンが存在しているということだ。一編は『地獄の一季節』に収録されたもの、もう一編はその『地獄の一季節』が発表される前の1872年に書かれたもの。
つまりは『地獄の一季節』に収録されたものは1872年版を一部改変して、引用しているものなのだった。


あれが見つかった。
何が? −<永遠>が。
それは太陽と
行ってしまった海。
(1872年 後期韻文詩)
あれが見つかった!
何が? 永遠が。
それは太陽に混じった海。
(『地獄の一季節』)


中地は『地獄の一季節』に引用された版の「太陽に混じった海」というフレーズについて「1872年の版「太陽と/行ってしまった海」がはらんでいた、遠ざかりのダイナミズムはここにはない」と注釈を入れている。
『地獄の一季節』はランボーがヴェルレーヌと過ごした時間なくしては完成し得なかった詩集だ。この詩集にはヴェルレーヌとの記憶が多分に織り込まれ、染み込んでいると言っても特に過言ではないだろう。
その『地獄の一季節』において、「永遠」の詩は遠ざかりのダイナミズムを失い、「太陽と行ってしまった海」は「太陽に混じった海」になる。
かつては、「行ってしまった海」を見つめていたのだろう。見送っていたのだろう。それがヴェルレーヌとの時間を経て、彼は「混じった海」を望むようになったのかもしれない。
行ってしまう海を見つめるのではなく、ただ、混じり合っていたかったのかもしれない。傷ついても傷ついても足りないくらいに二人の関係がボロボロに壊れていくさなかにあっても、彼は、混じり合っていたかったのかもしれない。遠ざかりたくなかった、ここにいたかったのかもしれない。ここで、二人で。
私はランボー研究者でもない仏文学者でもない、ただ映画を観ただけと、詩集を2冊ほど読んだ、それだけの知識しかなくて、この文章も映画の二人を思い浮かべて書いているけれど、あの映画の中にいたランボーは、ただ愛する人と混じり合うことを望んでいたのかもしれないと、今ではそう思えてならない。


おわりに:傷ひとつない形をした恋

ランボーは詩才に溢れながらも純真な愛を秘めた少年として描かれ、対するヴェルレーヌはあまりにも愛を知らなかった。ランボーがあんなに恋をした相手は、彼からの愛も、妻からの愛も理解することができず、自らの取るに足らないプライドに固執し、ランボーも妻も置き去りにした。そんなやり方しか知らなかった。ヴェルレーヌが結局のところ一番愛していたのは自分自身で、自分が一番可愛くて、ランボーはそんな彼を愛してしまったのだった。それは本当に「想えば身を裂かれるほどの不幸」だったのかもしれない。けれど彼は傷つき血を流しながらも『地獄の一季節』という傑作を完成させる。実りある創作には自分を追い込む体験だとか、苦痛を伴う経験だとかが必要なのだと言う人もいるが、必ずしもそれは創作を行う万人に当てはまらない。けれどランボーにとっては、ヴェルレーヌとの日々なくしては完成させられないものがあった。恋によって言葉を得た思春期の少年の心か、詩人としての矜持か、そのどちらもが彼に『地獄の一季節』を与えたのだろう。

ヴェルレーヌではなく誰と出会ったのであったらランボーはこんなに傷つかなかったのだろう、ということを一瞬考えたが、ランボーが出会ったのがヴェルレーヌじゃなかったら「地獄の一季節」はこの世に生まれなかった。
幸福になることだけが人生の目的ではない。私はランボーを可哀想だとは思わない。自分が自分の範囲内で幸せになること以上に見つめるべきことがある。
(ゆりさんの日記 7月7日)


こうして書いてみると、やっぱりこの映画は恋の物語であって、恋の物語でしかないのだと思う。誰かひとりを心から想うこと、背伸びなくしては成立しない恋、相手を自分の傷と同じほどに傷つけずにはいられない恋、あらゆる苦痛を引き受けずには続けられない恋、そして壊し、壊し尽くして、終わってしまった恋。最初から最後まで全てが恋で、恋の物語だ。

後にヴェルレーヌとドイツ・シュトゥットガルトで再会したランボーは、彼に『イリュミナシオン』の原稿を託し、それが彼との最後の別れになったそうだ。どんなにひたむきに心を捧げた相手でも、いずれは永遠に別れて他人となってしまう。成就しない恋こそが、傷ひとつない形をした恋だ。これは完璧な恋の物語だった。


この俺、かつてはみずから全道徳を免除された道士とも天使とも思った俺が、今、務めを捜そうと、この粗々しい現実を抱きしめようと、土に還る。百姓だ。
俺は誑かされているのだろうか。俺にとって、慈愛とは死の姉妹であろうか。
最後に、俺はみずから虚偽を食いものにしていた事を謝罪しよう。さて行くのだ。
だが、友の手などあろう筈はない、救いを何処に求めよう。
『別れ』

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冒頭と末尾の詩は小林秀雄訳版を使用しました。


スペシャルサンクス:ゆりさん



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