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『ひばりの朝』を語る −『フェミニズムの現在』ヤマシタトモコインタビューを受けて

青土社『現代思想』の増刊号『フェミニズムの現在』に収録されていたヤマシタトモコインタビュー「私たちを締め出さない物語」を読み、主に現在連載中の『違国日記』についてのインタビューではあったものの、同じく連載中『さんかく窓の外側は夜』や過去作についても触れられており、なかでも『ひばりの朝』への言及があったことが個人的に嬉しく、また数年越しに謎が解けたような思いもあったので、一度この作品について書いてみたいと思う。

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『ひばりの朝』について

『ひばりの朝』は、私がヤマシタトモコ作品の中でいちばん好きな作品だ。

この作品は、中学2年生の主人公・手島日波里と彼女の存在によって日常を少しずつ狂わされていく同級生、そして大人たちの物語である。
ひばりは14歳にしては「大人びた」体つきをしており、それがしばしば周囲の誤解を生む。男からは「エロい」と称され女の同級生からは「調子乗ってる」と言われ物語の主要人物の一人である矢野富子はひばりのことを「オンナノコ」と呼ぶ。
ひばりは小さな頃からよく痴漢や変質者に遭っていたと言う。それもまた彼女の体型によるところが大きい。そして母をはじめとする周囲もまた、揃ってそれは彼女の体型のせいだと言う。
彼女は彼女の意思にかかわらず、過剰に「女っぽさ」を与えられた少女である。
そのひばりが、自分はもしかしたら父親から性的いたずらを受けているのかもしれないと打ち明けるところから物語が動き出す。


てかあたしあいつから相談とかされてマジうけたんだけどさーあ
あいつ父親からセーテキイタズラうけてるかもとか
自分で誘ったんでしょっつーのー


この、ひばりの「父親からの性的虐待」疑惑を通して、この問題そのものの解決が図られるのではなく、登場する人物たちの鬱屈した感情や浅はかな考えが浮き彫りにされていく構造になっている。あくまでも『ひばりの朝』において、ひばりが抱える問題は誰からも相手にされないし、解決もまた為されないのである。

この作品はひばりを主人公にしておきながら、すべてひばり抜きで話が進む。
ヤマシタトモコ氏が「『ひばりの朝』の場合は主人公が“不在“の話を描きたかった」と語る通り、この作品において「ひばり自身」の存在はあまりにも希薄なのだ。

その代わり、ひばりはある役割を果たす。
「周囲の人々が自分の欲望を映し込む鏡の役割」である。



女には等しく「選ばれ」の呪いがかけられている

この作品に登場する女性または少女たちは揃ってひばりに敵意を持つ。中には母や担任教師のようにひばりを肯定する人物もいるものの彼女たちはひばりに何もしてやらないので、周囲からの敵意を跳ね返すのに全く戦力とはならない。
なぜひばりは敵意の的になってしまうのだろう。それは上述した彼女の「外見」と、臆病ゆえにオドオドしたその「態度」による。
彼女の「外見」について、矢野富子はこう思う。

かわいいものが
よくお似合いで
小さくて丸っこい
黙っていたって
男に愛される


矢野富子はひばりとは正反対の外見で、背も高く、肉付きのない細身で、また性格についても周囲からは「男前」「クール」と評される女性だ。しかし彼女は周囲からのその評価を全く嬉しく思ってはおらず、むしろ自分を「女」と見られないことに強いコンプレックスと焦りを感じている。そして、きっと昔からの周囲のそのような評価により、彼女は女性としての自分に全く自信を持てずにいる。学生時代からの彼氏、名輪完と7年付き合っているのも「あたしはこの男が初めてで次なんかないかもしれない」からであり、完が「はじめてあたしに「かわいい」と言って女の値段をつけてくれた男」だからというところからも、彼女のその側面が読み取れる。
彼女は自分が周囲から「女」と見なされないことに強い恐怖を感じている。
ゆえに彼女の生活に不意に現れたひばりに大きく動揺することになる。「黙っていたって男に愛され」そうな外見を持つひばりは富子にとって脅威以外の何物でもない。



次にひばりの同級生、安倍美知花はひばりについてこう喋り、思う。

あいつは絶対誘ってるよね
だいたい いっつも
調子のってて
目ざわりなんだよね

「調子のってる」とはどういうことだろうと考えてみると、やはり「男子に色目を使っている」と言う文脈で使われているようだ。
安倍美知花はクラスの中ではかなり「可愛い」女の子であり、同級生の女子たちからの信頼も厚い。彼女は教室の中ではいつも笑顔で、誰に対しても分け隔てなく接し、悪口を言うこともなく、もちろん男子からも好かれている。
しかしそんな安倍美知花ですらひばりを脅威に感じている。


まじ男子 頭弱い女好きすぎ
ブスだし


美知花もまた、ひばりが「男にモテる」と思い込んでおり、男の目を引くことに対しコンプレックスを感じているのだ。痴漢キモいマジ死んでくださいと言いながら、美知花は「痴漢のターゲットにされる」程度には自分には女としての魅力があるのだと、倒錯した自己評価もまた持っている。


富子と美知花。この二人は一見対照的であるが、「男に選ばれない女は価値が低い」という価値観と「常に男に選ばれていなければならない」という強烈なプレッシャーを抱えているという点では共通している。彼女たちにとっては、男性からの視線に満ちた世界で自分に価値を見いだすことがすべてであり、逆に、それ以外の自己肯定の方法を知らない。
これはひばりの母、愛美にも当てはまる。ひばりのことを「あたしに似た」と言い、「女の子に好かれなくても男の子に優しくしてもらえる方法は知っているはず」だと担任にあっけらかんと話す彼女もまた、男に選ばれるなら女は切り捨ててもいい価値観の中を生きている。
『ひばりの朝』に登場する女性には、等しく「男に選ばれないと死ぬ」呪いがかけられている。



「選ぶ立場」にいながら手に入らない鬱屈

しかし女性が「選ばれる立場」であることに対し男性が「選ぶ立場」であるとするなら、男性の方が強者になる。ゆえに、並木憲人も強者の立場にいるはずである。
しかし彼は学生時代から矢野富子に恋をしており、且つ実っていない。その上富子は友人の完と付き合い7年になる。しかも富子の「初体験」もまた完に奪われている。
並木憲人は常に他人を憎んでいる。


おれよりバカと おれより幸せなやつ
あとブスとデブと お高くとまった自称美人と
犯罪者とその家族と
まあとにかく だいたいむかつくやつ

全  員  しね


それは強者の立場にいながら本当に欲しいものが手に入らないというコンプレックスの表れであり、且つ彼はこの他人への憎しみが自分を歪ませていることを自覚し、他人を憎みながら「善人」への憧れを募らせる。彼の自己肯定感は他人への憎悪によってドロドロにされ、それを立て直そうと表面上は「いい人」であろうとする。ひばりが抱える「問題」への対応の仕方、あるいはなんとかしようと立ち上がりかけるのはその表れだろう。
彼の自己肯定の天秤に乗っているのは憎悪と善行であり、たいてい、それはうまくバランスしない。自分より幸せな奴は死ね、自分よりバカな奴も死ね、というレベルの憎悪を帳消しにできるほどの善行ができるチャンスは日常生活においてそうそうないからだ。
ゆえに彼はひばりの問題に過剰に反応する。
同時に、並木憲人にとってひばりは自らの憎悪の根源の中の根源とも言うべき「完と富子」の関係性に揺らぎを与えられる材料であり、彼にとってはひばりを「使わない」手はない。


少し話から外れるが、この並木憲人という人物は現在連載されている『違国日記』の笠町信吾はかなり対極な位置にいると感じる。並木憲人はおそらくこれからも自分の土俵から降りることはないだろう。



「善人」による「善行」の行き先は自己満足しかない

『ひばりの朝』について、本インタビューでヤマシタ氏は以下のように語っている。

自分を善人だと思い込んでいる人たちは全員ビンタだ、と。


『ひばりの朝』で、ひばりの父親からの性的いたずらという問題に直面した人物たちは三者三様の反応を見せ、三者三様の行動に出る。


ひばりから話を聞いた後に富子を呼び出し、何かできることはと話そうとして逆に「何とかしようとするお前はなんなんだ」と言い返された憲人はそのまま激昂したかと思えば憑き物が落ちたかのように「相談できてよかったわ」とあっさり納得し、そのまま話題は完と富子の話に移る。要するに憲人はひばりの話を秘密にしておくことに耐えられず、富子に喋るだけ喋って肩の荷を下ろす。そして次の話題が結局のところ完と富子の関係性についてというところも、結局彼の一番の関心ごとはこれなのだ。この先憲人がひばりの問題に対し何らか行動に出ることはないだろう。


富子もまた、その場では何もしない。彼女はそもそも、コーヒーを落とした時点で自分の中で問題がすり替わっている。憲人から「同じ女だろ?」と言われたことに対し、自分とひばりの差のことで頭がいっぱいになり、ひばりが抱える問題のことは頭から消し飛んでいる。彼女はひたすら、女としての自分に自信のない自分のことばかりを考えている。
しかし富子の場合はもう一段階あり、カフェを出てから完のアパートに向かうと当のひばりと鉢合わせてしまう。彼女が恐れてやまなかった「ひばり」を目の前にして、富子は無意識に、なのか、意図的に、なのか、口を滑らせてしまう。電車の中にいた女の子たちが「ヒバリ」ちゃんて子のお父さんの話をしていたと。
これは「偶然聞いた話」を装ってはいたが、明らかにひばりへショックを与えるための発言だ。つまり富子はひばりが抱える問題と自らの防衛を一瞬で天秤にかけて、ひばりへの「攻撃」を選んだのである。


そして最も大胆な行動に出たのは完だった。父親からイタズラされてんのよ、とまくしたてる富子に表情一つ変えずそんなことあるわけねえじゃんと平然と言ってのけた彼はその後直接ひばりの家まで出向き、ちょうど学校から帰ってきたひばりと父親を対面させてしまう。そして、相川君という連れがいるにも関わらず道端でベラベラと、ひばりが一番触れられたくないことを土足で踏み荒らし、ついには「謝っちゃえって ひばり!!」でまとめてしまう。完は富子に言われたことを最後まで真面目に考えることができず、およそ考えうる限りで最悪の行動に出てしまうのだ。



このように書いてみると、大人3人の行動は段階的であり、順番にひばりを追い詰めていく構成になっていることに気づく。
そして大人は3人とも、「善人」として行動している。富子に相談して「大人が誰か助けてやらねえと」と嘯く憲人はその時確かに自分を肯定できただろう。今、自分は「善人」をやれているという満足感を味わい、そこで終わる。完のアパートでひばりと鉢合わせた富子は偶然と善意を装って電車での会話をひばりに伝え、完の無神経を詰る。詰っている時の富子にとっては自分は事情を知って動揺している「善人」であり、自分の話を理解しようとしない完は軽蔑の対象になる。そしてひばりの家の玄関先で父親とひばりを引き合わせた完は自らの行動の是非を1ミリも疑っていない。この行動は善であると心の底からそう思っているのである。


大人3人は、自らを「善人」だと思っている。そして彼らの三者三様の行動は、どれもが自己満足に帰結しひばりの何にも作用しない。
なぜなら3人とも結局は自分のことしか考えていないからだ。


自分を善人だと思い込んでいる人たちは全員ビンタだ、と。



いかなければ さもなくば 死んでしまう

……わたしは ずっと 息をとめていたので平気でした
…平気でした
………
……でも あの朝が
あの朝がきたときのことは多分一生忘れません


『ひばりの朝』は、私がヤマシタトモコ作品の中でいちばん好きな作品だ。
しかし、いちばん好きな作品でありながら、私はこの物語の向かうところがどうしても、何度読んでも、全くわからないままだった。そして今も多分、わからないままでいるのだと思う。


端的に言えば、私は最終回のひばりの行動全てがわからなかった。
卒業式はいつかと母に尋ねられ、明日のところを「あさって」と答え、卒業式当日はいつもと変わらぬ様子で家を出て、そのまま帰ってこなかったひばり。
正直なところ、私はひばりはクラスメイトに卒業式の日程を騙されていたんじゃないかとまで思った。(普通に考えて、不可能なことなのだが)


私はあの朝、ひばりは学校に行き、卒業式の立て看板を見て踵を返し、自殺したのだと思っていたのだ。


それが本書のインタビューでヤマシタ氏が以下の通り語っていて、私はとても驚いたのだった。

これは彼女が逃げ出すまでの話なので。この先の人生がどう転ぶかはわからないけれど、少なくともあの状況からは抜け出すことができた。


そうなのだ、彼女は自殺ではなく逃げ出したのだ。こう語られてみると、今までなぜ単純に「逃げ出した」という考えに至らなかったのか自分でも不思議に思うくらいストンと腑に落ちた。

けれど、あの夜お寿司でも取る?なんて言いながらひばりの帰宅を待っていた母と完の二人からしたら「失踪」も「自殺」も同じことのように思える。


私はこの最終回を忘れることができない。ヤマシタ氏によればこれは「希望ある終わり」とのことだが、私は、後味の悪さしか残らなかった。ひばりは周囲から身勝手な善意や悪意を押し付けられ、おそらくもう二度と帰ってこない。帰ってこられなくしたのは誰だ、ひばり以外の全ての人間だ。



『ひばりの朝』は、多数の人間がひとりの人間の尊厳を徹底的に踏みにじった時に起こり得る最悪の結末が描かれた作品だと思っていた。
けれど、ひばりにとっては高校の卒業式の日に脱出を果たすまでの物語でもあったのだ。
彼女の決意を後押ししたのは、言うまでもなくシェイクスピア『ロミオとジュリエット』のロミオの台詞だったのだろう。

I must be gone and live, or stay and die.
いかなければ さもなくば 死んでしまう


ヤマシタ氏のインタビューを読んだ時、数年越しに、私は『ひばりの朝』に救われたような気がした。
それまで私の憂鬱と怒りに寄り添ってくれる存在であった『ひばりの朝』は、このインタビューによって私を救う存在に変わった。ひばりは、飛んだのだ。ようやく自分の羽根で飛んだのだ。



鏡はそこにいて、あなたを見ている

『ひばりの朝』は、読みにくい作品だと思う。


と言うのも、結局ひばりのことを主体的に考える人物が一人もおらず、主人公のはずなのにひばりがどんな子であるのかが見えづらいからだ。ひばりのことは、その時々の話題や誰かの心配事になりながらも、結局はそれぞれの大人たちの感情がそれを上書きしてしまう。
そしてひばり本人もまた、自分を開示しようとしない。それは作中で同級生の相川君も指摘している。(「勝手に浮いて 閉じてんのはそっちじゃん」)


しかし、ではひばりはどこにもいないのかと言えばそういうことでもない。


ひばりは「周囲の人々が自分の欲望を映し込む鏡」としてそこにいる。
ひばりの姿を見て、完は大人びた体つきの親戚の少女に好かれているという自分の妄想を満たす。
ひばりの姿を見て、憲人は自分も「善人」になれるかもしれない期待を抱く。
ひばりの姿を見て、富子は自分とあまりに違う体つきや雰囲気に、自らの劣等感を再認識する。


ひばりがいなくては、ひばり以外の人間たちの醜さは可視化されることはなかった。


ヤマシタ氏が「主人公が“不在“の話を描きたかった」と語る通り、『ひばりの朝』はひばり以外の人間が目立つ構造になっている。
けれど、ひばりは不在でありながら、ずっとそこにいた。
そこにいて、ずっと、あなたを写し、あなたを見ていた。


『ひばりの朝』は、「不在」に見つめられる体験なのだ。


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