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ふたりの人生を言い換えたい −『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』

始まってから終わるまでの2時間のあいだに、物語の展開や俳優の演技、演出、などではなく、ただただ自分のごく個人的、私的、感情的な領域で憤りを覚えたり、悲しくて仕方がなくなったり、エンドロールに入ってようやく、わたし一体何してたんだろうと我に返るような映画がある。パンフレットを買って、ビリー・アイリッシュを聴きながらまっすぐ帰った祝日の昼。


『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』に未だ心を支配されている。
彼女たちを取り囲んでいたコミュニティの空気感、真逆の生き方を選んだふたりそれぞれの悲しみと生きづらさ、ラビであるエスティの夫の葛藤、行き着いた選択、あの映画の中にあった人の顔や為される会話や流れる涙や別れを惜しんで有り余るほどの愛を込めたキスが、私の心を支配している。


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ニューヨークでカメラマンの仕事をしているロニート(レイチェル・ワイズ)に父の死の知らせが届く。ロニートの父は厳格なユダヤ教ラビであり、故郷の街では指導者として尊敬されていた。自由を求めて故郷を飛び出したロニートは父との縁を切られており、それでも父を弔うために故郷イギリスのユダヤ・コミュニティへと帰省する。


超正統派では、掟に背いたものはたとえ親子でもその縁を切られることが多い。

「ユダヤ社会への従順と反抗」 広瀬佳司
(『ロニートとエスティ 彼女たちの選択』パンフレット内コラム)


帰省した街でロニートは幼馴染のエスティ(レイチェル・マクアダムス)と再会する。彼女は同じく幼馴染のドヴィッド(アレッサンドロ・ニヴォラ)と結婚しており、ロニートは動揺を隠せない。

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この街に暮らしていた頃、ロニートとエスティは友達以上に惹かれあっていた。けれど彼女たちのその「親密さ」をコミュニティが許しはせず、ふたりは引き離されたそうだった。それからロニートは故郷を飛び出し、エスティは自分のセクシュアリティと矛盾させながらドヴィッドと結婚する。
再会したロニートとエスティは、思い出すように再び恋をする。

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私はユダヤ教の教義には全く疎い。女性は結婚したら髪を切ったり剃ったりして、外出の時にはカツラをつけるという習慣も、既婚者は異性に触れてはならないという習慣も全く知らなかった。他にも、見落としているだけでこの映画はユダヤの掟で溢れているのだろうけれど、この映画は別にユダヤ・コミュニティの中で同性愛者が生きていくことの難しさという狭いテーマを描いているのではなく、もっと視野を広く持った、だからこそ限りなくぼんやりとした仏教徒、そして限りなくヘテロセクシュアルである、日本人の私にもものすごく「実感を伴って」やってきた映画なのだと強く感じる。



私はこの映画をごく個人的領域の中で観た。映画、ロニートとエスティ、ドヴィッドという当事者3人、そして彼らを取り巻くコミュニティの排他的空気、生活に溶け込みすぎて、それこそラビでなければいちいち教義の意味なんて顧みないような形骸化した律法、「そういうもん」という結論だけが残る日常、「同じじゃない」人を監視し、排斥することで安息を得ている日常。
それは日本の地方都市と何が違うのだろう。


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私を憤らせ、神経を切り刻んできたシーンはいくつもあるが、特に、ある晩餐会での会話の一つ一つが容赦無く私の脆い部分を、一人ずつ順番に殴っていったように感じられた。この辺りは会話の順序が曖昧になっているので、強く記憶に残っている部分から書いていく。

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「女の幸せは結婚することだ」
「結婚して子供を作ること、それも出来るだけ多く」
「ひとりで老いるのは寂しい」


どうか誰かお願いだからこれに反論する人がこの場にいてくれと祈るような気持ちで会話の成り行きを見守っていたらやはりロニートが「愛のない結婚をして10年暮らすとか自殺もの」「結婚も出産もしてないけれど私には友達がたくさんいるし十分幸せだ」と言い返してくれた。しかし長く町に暮らしてきて「そういうもん」として生活してきたおばさんたちの価値観にロニートの反論はもはや同じ言語として聞き取られていないのではないかと思うレベルでいとも簡単に受け流され、「それでも女の幸せは結婚よ」と話が堂々巡りしていく。


耳をふさぐかこの場面だけ退出したくて仕方がなかった。
なぜだ。
なぜ映画の中でまで、こんなことを言われなくてはならないのか。
なぜこんな人たちの言うことを聞かせられなくてはならないのか。
こんな話は、日本においてさえ、聞き飽きていて私は十分に傷ついてきた。


憤りが今にも全身から噴出しそうになっているところに、次はエスティが穏やかに切り出す。
「女は名前が変わることで過去が消えるのよ」
ここで彼女の言う「名前が変わる」というのは「結婚によって名字が変わる」ことを意味している。この穏やかながらも穏やかならない一言に周囲はふと静まり返って、取りなすように「過去は消えないよ」と男が言う。それにもエスティは静かに首を振る。「消えるのよ」



余談かもしれないが、ここで私の名付けについてのいきさつを書いておきたい。
私は長男長女の長女として生まれた、れっきとした初孫だった。そして私の名前は、父方の本家のおじさんによる姓名判断に基づいている。それは「名字を含めた上での」姓名判断だった。結果、画数的にも諸々的にも意味的にも最良とされた名前に決まった。
名付けの経緯がどうあれ、私は自分の名前をとても気に入っている。他の何でもないこの名前を授けてくれた両親には心から感謝している。
けれど名付けにあたって母は正直こう思ったそうだ。
「女の子は、どうせ名前が変わるのに」と。



エスティの言う「名前が変わることで過去が消える」という考えと、当時の、30年近く前の母の考えは限りなく近似値にある。私はエスティがこの一言をつぶやいたときに、すぐさま母のことを思い出して頭が殴られたようだった。
ここは日本の地方都市、しかも四半世紀以上前の私の故郷のありようと何が違うのだろう。


ちなみにロニートも名字を変えて仕事をしている。しかし、名字が変わることを前提とした「結婚は女の幸せ」と言い切るおばさんたちは同じ舌でこんなことも言う「自分のクルシュカという名前が誇らしくないの?」。
どっちなんだ。結婚して自分の名字が変わることにはなんとも思わない。けれど自分の意思で名字を変えた人間に対しては「自分の名前が誇らしくないのか」なんて言う。
結局は、自分の意思で自らの行動を決めてきた人間は、この町では異物でしかないのだろう。周りのどこを見渡しても、他にそんな、しかも女性は、この町には存在していないのだから。

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エスティがロニートに惹かれるのは当然のことであったように思う。彼女はバイセクシュアルではなく、純レズビアンというセクシュアリティがあり、けれど神の存在と教えを疑わない敬虔な信徒でもある。町を飛び出したロニートとは対照的に町で生きて、同じく敬虔なラビと結婚し安泰な生活を慎ましく守ってきた女性だ。
ロニートとエスティは鏡に映った自分、Y字路で右と左に別れた自分同士なのだ。ロニートは思わずにはいられない、自分がもしもエスティの道を選んでいたら。エスティも思わずにはいられない、自分がもしもロニートと行き先を交換していたら。彼女たちは互いを思わずにはいられない。自分同士だからだ。
ロニートはエスティの目を通して故郷のコミュニティを見る。エスティはロニートの目を通して自由の街ニューヨークを見る。思わずにはいられない、もう片方の自分のことを。
この映画には彼女たちの情熱的なセックスシーンがあるが、それ以前に、彼女たちふたりの在り方枯らしてすでに十分官能的なのだと私は思う。
常に探し求める永遠の半身。

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だからこそ、だからこそ最後に彼女ふたりとエスティの夫ドヴィッドが手にしたそれぞれの選択は私を圧倒する。英語にはovercomeという単語があるが、まさに彼らの選択はovercome meだったのだ。
君は自由だと叫べる勇気、町に留まり母となる勇気、そしてひとりで町を去る勇気。
どうして否定できるだろうか。この、人間ひとり簡単に押し潰せそうなほどの抑圧的コミュニティで自分の声を上げること、自分の意思で決めることの推し量って余りあるほどの勇気を、誰が、どうして、軽んじることができるだろうか。

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ロニートとエスティは、道を交換することもなく、Y字路の入り口まで戻ることもなく、選んだ道を歩き続けることを選んだ。自分同士であることを捨てずに、半身であることを捨てずに、自分の道を歩いていくと決めた。
常にあなたを想う。常にあなたが今、幸せであれと願う。決して混じり合うことはない、けれどふと足を止めるとき、必ずあなたに手を振るだろう。元気でいるよ、元気でいてねと大きく手を振るだろう。


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この映画の原題は『DISOBEDIENCE(不服従)』。
けれどこの言葉は「不」+「服従」であって、「服従」という言葉がないと成立しないものだ。だから言い換えよう。服従という言葉を使わなくてもいいように、彼女たちの在り方を言い換えよう。できるはずだ、この映画を見て、自らとその故郷、あるいは苦い記憶のことも思って、何かが心に残ったなら。


「人間には反応する力があります。生き物の中で唯一、自由意志を持つのです」


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