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【短編小説】船牢花葬

 懐かしい水の匂いで絢は目を覚ました。臥したまだ幼い身体が、左右にゆっくりと揺れている。そうして彼女は、自分が船の客室の寝台で眠っていたことを思い出した。彼女は身を起こし、寝台の脇にある丸い小窓から外の様子を覗き込む。蒼すぎて黒く見える海面が、彼女目に映った。波間に水飛沫が立ち、太陽の光を浴びて金色に輝いている。

 部屋の入り口近くの椅子に腰掛けていた老爺が、絢が身を起こしたのに気づいて立ち上がった。

「目が覚めましたか」

 彼は低く掠れた声でそう言った。片手で杖を突いて、彼はゆっくりと寝台の方へ歩み寄る。絢は言った。

「陸が近いのでしょうか。なんだか懐かしいような気配が」

 老爺はそれには答えずに、無言で絢の足元へ跪く。そして寝台の下に揃えてあった臙脂の革靴を取り出すと、絢の小さな足に一足ずつそれを履かせた。

 両足を揃えて、絢は寝台から立ち上がる。

「甲板に出ませんか?」

 老爺はそう言って、杖を持たない腕を彼女の方へ差し出した。絢は頷いて彼の腕を取る。白く小さな手が、しみが浮き出た皺だらけの老爺の腕に触れた。

 老爺は杖を突きながら、一歩一歩確かめるような足取りで船室を出ると、絢を先導して廊下を歩いた。階段を上がって甲板へ出ると、太陽は彼らの真上に輝いていた。

 絢は頭上を仰ぐ。彼女の見上げた空は、この船の下に広がる海と同じ色をしている。潮風が彼女の髪を揺らし、頬を撫でた。絢は老爺から手を離して、舳先へ進む。背中を追いかけるように、

「お気をつけなさい」と、老爺が言った。

 絢が舳先に立つと、彼方に陸地が見えた。帆を畳んだ幾艘もの船が海岸線を埋めるように停泊している。その上を翼を広げたウミネコが鳴きながら飛び交っている。

 港だ。

 波の弾ける音が絢の耳に絶え間なく聞こえてくる。陸地を眺めながら、その海岸の形を、その向こうに広がる丘陵線を、いつかどこかで見たように思う。

「この船は、あすこへは停泊しないのですか?」

 潮風に巻き上げられる髪を押さえながら、絢は背後に立つ老爺を振り返り訊ねた。

「覚えておいでですか?」

 風に攫われ、老爺の言葉はひどく聞き取りにくい。絢はかぶりを振った。それきり彼が黙った儘なので、彼女は再び陸地へと視線を移す。老爺は彼女の背中にそっと近づくと、耳元で静かに囁く。

「あの港のそばで……、かつて私たちは恋人同士でした」

 そう言ってから彼は絢の隣に立った。絢は遠くの陸地を見つめる老爺を見上げる。

 深い皺の刻まれた横顔。乾いた唇。彼女は祖父ほどに歳の離れた男の言うことが、上手く理解できない。

 ふと気づくと、いつの間にか甲板には水兵服を着た船員が集まっていた。彼らは皆、手に白い花の入った小さな籠を捧げ持ち、花を取っては海に投げ入れていた。波間に白い花が浮かんで揺れ、陽射しを受けた波飛沫が花弁を光り輝かせる。次第に船の周りは白く染まった。

「彼らは何をしているのです」

 甲板に目を戻し、絢は老爺に尋ねた。

「弔いです」

「弔い?」

「かつてのあなたの、弔いです」

 絢はまたもや彼の言うことが理解できない。黙っていると老爺は片腕を伸ばし、乾いた手で絢の背中をそっと撫でた。

「必要ないのです」

 彼は絢に向かって言った。

「あなたの中に今、湧き起こるその気持ちも、我々の過去のことも」

 花籠を手にした船員たちが甲板を歩き回る。白い花は彼らが籠から掴み取って海へ放り投げるよりも速く、籠から溢れ出て甲板へと零れ落ちた。次第に甲板は白い花に覆われる。それを見つめる絢の視界も白く霞んでいく。

 目の前が真っ白になるのと同時に、絢の耳に老爺の声が響いた。

「どうせすぐに、忘れ去ってしまうのですから」

<了>


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