眠る、声
気づいたときにはもう、わたしの中に“場面緘黙”がいた。
いつ、どのように、何のために、ここへ来たのか。
“場面緘黙”とは。
自分の意に反し、声を出せなくする厄介もの。
“緘動”という身体の自由を奪う厄介ものもいる。
この二つの厄介ものはわたしが二、三歳の頃からわたしの中に住み着いている。
宿主の許可も得ず、無許可のまま、我が物顔で。
よほど住み心地が良いのかいまだに出てゆく気配はない。
厄介ものなのに、ここまで一緒に生きてきたら妙な情すら湧いてしまう。
このまま引き連れて生きてゆくのも一つの生き方かもしれない、とまで思ってしまう……。
そんな、わたしと“場面緘黙”との戦い、もしくは闘い。
奮闘記としてここに。
この歳まで“場面緘黙”を引きずるとは、正直、思っていなかった。
自分のことながら、そのうち治り話せるようになるだろう、などと考えていた。
だがしかし、現実は厳しい。
声を出せるようになるため、あれこれ試行錯誤。
挑戦と挫折を繰り返す日々。
幾つか試みた挑戦、今回はその中の一つ、はじめてバイトをしたときのお話しを。
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このままでは駄目だなあ、と思いながらも行動に移せずぐるぐる頭を悩ます日々。
努力らしい努力もせず、魔法のように突然話せるようになるわけもなく、その当たり前のことに気づき、声を出す方法としてまずはじめに思いついたのはアルバイトだった。
中学生の頃にバンギャ化したこともあり、LIVEへ行く資金を貯めたかったのもある。
それまで家族以外とまともに話せたことのない自分にはかなりの荒療治。
困難を極めるだろうとわかってはいたが、自分で決めたこと、もうやるしかない、と腹を括った。
バイトの情報、履歴書の書き方、面接での受け答え、すべてをネットから得た。
ネットのない時代にうまれていたら、自分など早々に野垂れ死ぬ運命だっただろう。
これまでに短期を含め五つほどのアルバイトを経験。
一番長く続いたものでも二年半ほど。
忍耐力が無さすぎる、と我ながら苦笑い。
最初のバイトは、仕事内容は調理補助といったところでそこまで難しいこともなく、むしろ楽しい作業。
けれどもやはり、声を出すことは難しく、周りに不審に思われないよう、できるだけ普通を装いながら声を絞り出した。
挨拶や言われたことに対しての受け答え、わからないことがあれば訊く、話すことはその程度だけれど“わからないことを訊く”のが自分にはとんでもなく難易度が高い。
話しかけやすい人とそうでない人(悪い人ではない)がおり、話しかけやすい人がお休みの日は流れる時間が地獄のように感じた。
“場面緘黙”のことは伏せていたため、「声が小さいね」「無口だね」など、声に関することを言われると心臓が止まる思い。
バイトを始めて数カ月、無理やりにでも声を出すことを続けていたら慣れてゆくのかな? と思っていたのだが、一向に慣れることはなく、それどころか反対にどんどんしんどくなってゆく。
半年が過ぎ、限界を感じ辞める決意をした。
が、辞めたいことをなかなか言い出せず、結局、伝えることができたのはそこから二年近くが経った頃。
途中、ばっくれてしまおうか、と邪な考えが過ぎることもあったが、最後、やるべきことを全うして辞めることができたのでそこは良かった。
二年経っても声を無理やり絞り出す日々は変わらず、それどころか絞り出すことさえも困難になりつつあり気持ちはすでに屍のようだった。
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もう少し早く辞めていれば良かったと後悔。
バイトを辞めた後は、また家族以外と話せない自分に戻っていた。
その後、恥ずかしながら心身共に疲れてしまい、親に頼んで病院へ連れて行ってもらうことに……。
まったく、不甲斐ない人間だ。
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通院は現在も続いている。
荒療治は主治医の判断により禁止となった。
なので、もっと自分に合った方法を模索中。
自分のことを知り、理解することも大切と学んだ。
それで見えてくるものも、きっとある。
“場面緘黙”という厄介ものは今日も素知らぬ顔でここにいる。
せめて、“自分”を“場面緘黙”に占領されぬよう、あくまで“お客さま”として扱ってゆこう。
そして、逃げ出したくなるほど居心地の悪い場所にしてあげよう。
そろそろ、この厄介ものを追い出そうか? とわたしはわたしの声に聴いてみるけれど、反応はなく。
今日もすやすや。
わたしの声は、眠っている──────。
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