ザシキワラシのパラサイト_映画『パラサイト 半地下の家族』を観て

はじめに ~半地下からの眺めのような~

映画『パラサイト 半地下の家族기생충)』を観た.
私たちが暮らす街の唯一の劇場である伊那旭座も2020年4月19日から「新型コロナウイルス」の感染拡大にともなう「緊急事態宣言」を受け,休館になるというお知らせが入った.結果的に,その前に滑り込みで鑑賞したことになる.
感染症対策というわけでもないが,このところ劇場に鑑賞において私が採用している作法にしたがい,最前列の正面の席で足を投げ出してみる.おそらく,この館のこの席で鑑賞した者は,この数年いなかったに違いない.座席シートは養生テープでその綻びが取り繕われており,鑑賞後にはテープの糊が少しだけズボンに移されベタついた.
最前列からのスクリーンの眺めは,奇しくも,半地下から地上を見上げるような仰角によってなされる.私はこの仰ぎ見る鑑賞スタイルを,公園の芝生に寝ころんで青空を見上げるような,あるいは,プラネタリウムをみるような身体技法として確立しつつある.
でかい画面,でかい音がいいに決まっている,という単純さから生まれたスタイルではある.もちろん,そうしたスタイルによっても,人間の視覚と聴覚には自ずと限界があり,その限定のうちに映画を鑑賞するしかないのではあるのだけれど.

給餌と食餌

家族はそれでも,生きていくために食事を摂らなければならない.
そうであるとして,この作品にいくつか現れる食事のシーンのうち,どの食事が私たち観客の食欲をそそっているのだろうか.
作品の中盤で,とある男が咥えるバナナも,それはそれでおいしそうでもあるし,ああよかった,と素直に安心できる場面でもある.が,ともすれば,貧乏籤を引いているほうのキム家の家族4人がその貧しい家の中で,ダイニングともキッチンともリビングともつかないような渾然としたスペースにおいて,油が飛ぼうがこぼれようがそんなことはお構いなしに,肉を焼いてつつき合うその場面に,極上の旨味を感じ,よだれを垂らすようなことはないだろうか. 
対照的な場面として,終盤に屋外で催されたガーデンパーティーでもバーベキューがメニューとして振る舞われている.中盤には,韓牛とともに「ジャージャーラーメン」と称されるB級グルメが画面に現れる.牛肉はこの貧しくはない家庭にふさわしい高級な食材のようであるが,B級のチャパゲティ(チャパグリ)も庶民的でそれなりにおいしそうではある.
しかし,このB級もバーベキューもどこか味気なくよそよそしい.その場にいるものたちがみなで分かち合う食であるというより,それぞれがおのおのに,ちょこっとつまんで楽しでいるようにも描かれている.食事や食欲への無関心が感じられ,貧しい家族であれば摂取を余儀なくされる食餌とそれに附随する欲望も無臭化され,もし食べなくて済むようであれば,それに越したことはないという,鼻につくような高級気分もうかがえる. 

バアとジイ,そしてその遺産はいずこに?

サクセスストーリーにのった夫へと便乗している妻(チョ・ヨジョン)は,料理が下手であることを自覚している.また,自らの性欲や性感帯にも自覚的であり,建物としての家や人間関係としての家族を「鶴翼の陣」のように統制する権力を自らに課している.しかし,料理の味や臭いまではコントロールできずにいる.インディアンの暴力,チンパンジーの野生,悪臭の浸出,犬の本能,雨降りの天候,血や結核,子ダソンの神性,センサーライトの点滅,そして夫の愛は,彼女の統制下からの逃亡をいつも企てている.彼女はヒステリーではなく愛嬌やユーモアによってそれら無計画なハプニングやノイズを受け止め,そつなく一次的な応対でかわしはするものの,彼女が掌握できない一切合切が「幽霊」となって現れ,愛する息子ダソンをいずれ虜にしてしまうだろうことも,うっすらと予感している.
貧富を体現した対比的な家族のいずれもがもたないものがある.
祖母と祖父などからなる年寄衆は,この世界からどの世界へと追いやられてしまったのだろうか.
金持ちにみえるパク家は,所詮は一代限りの成り上がりに過ぎない,韓国社会において,玉の輿さながら,たまたま境遇や強運に恵まれた結果,富裕なサイトを占めているパラサイトである.
この洒脱な家や地所も,おそらくごく最近になって,夫の成り上がりにあわせ手に入れた不動産にすぎないようにみえる.なぜか.
恭しくあるべき祖母や祖父もなく,それからさらに先へと連なる先祖もない.そうした過去がこの作品からは,おそらく意図して消去されている.過去に積み上げられた遺産や,その遺物が発する目に見えないレガシーはこの富裕な家庭に相続されたようには見受けられない.
いっぽうの貧困にあえぐキム家も,ソン・ガンホ氏が演じる父ギテクの事業失敗という巡り合わせによって地下世界にたどり着いただけであって,成り上がりのキム家とは鼻先の差で不遇をかこっているのであり,さしあたっていまのところは,という限りにおいて低迷し,低徊しているにすぎない.
そして,その父ギテクは,そうした境遇をその両親や祖母父の家柄のせいにしてはいないことは気に留めておく必要がある. 
約930カットで構成された約130分には,一代目の物語はない.一代目からはとうに巣立ったニ代目のギテク,その妻チュンスク,企業社長とその妻らの,そして三代目のギウ・ギジョン,ダヘ・ダソンらの物語がそこにある.

血脈と断絶する地点での噴出

物語は円環的でもあり,鏡像的でもある.その二代目と三代目たちの姿や運動を,ガラス窓や磨かれた床,人影を駆使しながら,ある時はスクリーンというウインドウの向こうに透かされる受難者として,ある時はそのウインドウを眺める傍観者や受像者として描いている.家族たちは家族以外のものとしてのさまざまな影を引き連れて,家の中を上下左右へと動きまわる.
都市近郊にむかって上から打ち付ける雨水は,水石の奇蹟によって下に下にと集められ,遂には下から上へと噴き出したかのようにみえる.また,透明な水としてでなく,人間の中をへ巡る血となって上下の隔てなく世界へと万遍なく溢れ出す.
家族の間で涙が流されることはない.ただただ血が,無闇に所在なく流される.血縁は結縁されることなく,次世代への継続や子孫へむけての永続は,虚しく空振ったようにもみえる.投げられたハンマーはクルクルと家族の目の前を回った後,どこか画面の外の方へとふっ飛んでいってしまう.
長回しのツーショットがある.カメラは素早くパンをして,二人の人物の距離をとらえたと思えば,建物の通路や出入口の角で折れ曲がる家族たちの直角な軌跡をなぞることもある.
キム家とパク家と,親と子と,夫と妻と,兄と妹と姉と弟と,それぞれ二つに分解されていく.二つに割かれている間に,時間差でとり残された「家族」たちもカメラは捉えている.
上へ下へとティルトするカメラによっては,地下へも地上へもゆけずに,便所コオロギのように這いつくばり,ゴキブリのように狭い隙間へと滑り込んだ家族の欠片が映される.ダソンは「家族」の間を不規則に駆け回る.オフィスのガラス越しには,何か玩具を与えられたような社長が戯れている.ハンマー投げの優秀者は,料理の手早さと最速レコードを孤独のなかで求められる.そして,ある時は,壁と稼働式家具の間で,異様なほど無様に,宙に浮いた寝姿でつっぱり奮闘する人間のユーモアがみえる.人と人との間を成すことができずに,ただただ脈を打ち続ける人と人,分断された「人間」の姿と運動がそこにはとらえられている.

ハンパからの空間

この『パラサイト 半地下の家族』は,その邦題の「半地下」からくるイメージとはよそに,建築家が自らが住む住宅として設計した高級な住宅が主な舞台となっている.『パラサイト 豪邸で暮らしたい家族』ぐらいの邦題のほうが,私にはしっくりとくる.
ところで,半地下や中二階などのハンパな階層は,建築の中でどのようなプロセスを経て立ち現れるのだろうか.
二階以上の普通の建物は,階高と天井高(フロア高)にずれが生じている.そのずれは,天井裏や床下として通常は処理される.この裏や下の空間に人間が入り込んで居室とすることは日常的にはない.点検口などを設けて,人一人が管理面で出入りできるようにしておくのが普通でもある.平面的にも断面的にも階段の配置を普通ではなく工夫することによって,メンテナンスの用でもない限り普段は入らないような非日常的なずれの空間に,うまくアクセスすることができる.アクセスが容易になれば,その空間には,それなりのユーティリティが生まれてくる.日本の安い賃貸アパートなどに組み込まれた「ロフト」なる空間とそこにアクセスさせる梯子も,こうした工夫の延長線上にある窮屈なスペースでもある.
しかし,このずれを意匠として積極的に評価し,建築という価値物の前面に押し出してくると,スキップフロアなどのオシャレ感を演出することもできる.そして,やや上流の階層にある若い子育て世帯の住宅建築に近づいてくる.
映画『パラサイト 半地下の家族』のパク家が購入した豪邸も,傾斜のある地形を利用しつつ,ガレージを下層に配置し,平面的な移動をしながらも,スキップフロアを断面的に徐々にステップアップしていくような作りになっている.その平面と断面の構成には,もちろん社会的な階層の上下を象徴的に読み取ることもできる.
いっぽうの貧困層エリアの半地下住宅はどのような成因によって育まれたのであろうか.都市部や軟弱地盤の造成地では,構造上,基礎の根を深く入れる必要が生じる.そして,一階フロアの下(スラブ下)には,地中梁のせいなどに応じて,人が立てるような高さの地下空間や半地下空間が生じることがある.この構造上の必要により生じる空間は,やはり維持管理上の用に供されることが多く,設備関係の配管などが充てられて,ピットとも呼ばれる空間になりやすい.このピットを改修して無理矢理に居住空間に化したところに,キム家は住みついている.

幽霊が幽霊であるために

一般に,幽霊が現れる空間というのはほぼほぼ決まりきっている.その空間は,人間に低度利用しかなされていないことが条件となる.空き家や廃墟は,人間に使われなくなった分だけ,幽霊の出現可能性は高まる.井戸という空間においても,その周りで井戸端会議に利用されているうちは幽霊も出るに出れないが,人気(ひとけ)がなくなってくれば出てくることができる.同様に,あまり使われてなさそうな地下空間にも幽霊が頻出する地帯が形成されている.まったく人間が居住することができないアネクメネのような空間にも幽霊は寄り付かないから,幽霊を出現させるには,絶妙に加減された低利用が求められる.
その点で,幽霊は人間の居住空間に寄生しているという事も指摘できそうである.この映画『パラサイト 半地下の家族』も,人間の住まいに寄生している幽霊を登場させており,その絶妙で微妙な空間にカメラを向けている点で,この映画自身も幽霊のように人間に憑くようしてパラサイトしているという関係もうかがえる.
また,普段使われないような地下や屋根裏は非日常的な用を担わされたり,めったには持ち出されないお宝が仕舞い込まれるような内蔵空間_*01になりうる.私の聞き間違いでなければ,企業を経営する夫は,家に幽霊が棲みつくことにより家運を上昇させるというような科白を吐いていた.
日本のザシキワラシをめぐる迷信が,このパラサイトの幽霊に対応すると考えられる.幽霊という非存在あるいは半存在は,家の中の疎密を感得し,未利用あるいは低利用の空間に棲みつき,その家の家族に寄り添って,寄生するかのように同居しようとすることがある.その同居者は,寄生しながら家を興隆させることもあるし,没落させることもある_*02.

*01_中谷礼仁,『未来のコミューン 家、家族、共存のかたち』,2019,インスクリプト,がこの内蔵空間を考えるにあたっての参考になる.特に「1 化モノの家」では,日本の民家の間取りなどにみられる「ナンド」の収納以外の機能に着目し,「化モノ空間」として分析している.
*02_南方熊楠,『十二支考』,1994.岩波書店などに収められた「蛇に関する民俗と伝説」や「鼠に関する民俗と信念」は,蛇や鼠といった十二支にもランクされ人間とも近接する動物が,金銀財宝の貯えと結びついた伝説を紹介している.この伝説に現れる動物は,人間の周辺にある存在として,幽霊の半存在という在り方との連続性のうちにとらえることもできるだろう.蔵などの貯蔵空間に実際に現れることもある蛇や鼠が,家の盛衰や財産の多寡と結びつけられて古今東西語られ信じられてきた物語の背景と文脈を,この映画『パラサイト 半地下の家族』も共有している.

庭の貧乏性

パク家の高級感ある邸宅において,劇中の重要な仕掛けにもなっていた照明の弱電配線は,やや不思議な経路を辿っているようにもみえる.照明の明滅が幽霊のように幽かに瞬いているという演出は,前述の民俗的な観点からも興味深い.光は,映画においてさまざまないたずらを試みる.
物語の後半にさしかかり,ティピーという名称もあるインディアンのテントがあるきっかけで庭に設営され,その小さな住まいの佇まいはランプシェードのようにもみえる.寝室機能を基調としたテントという一室空間が,内側からもランタンで照らされ,庭に浮かび上がる.富裕な家にしてはゴージャスさを欠いたシンプルな仮設の家であり,貧困な家にしてはどこか優雅ですっきりとした立ち上がり方をした家でもある.庭に宙吊りされたテントという小さな仮の家は,富裕と貧困の中間に浮かんでしまう.
その張られたテントのぼんやり感とは対照的に,ある物語の展開によって,屋内ではソファが図らずも疑似二段ベッドの様になってしまい,そのとき緊張感が漂う.この場面が,本作のハイライトであると私は思う.大きなはめ殺しのガラスを挟んで,建築の階層的な陰湿と緊張が,庭の快活であっけらかんとした暴力と平面的にも対置され,あるいは調停,止揚された瞬間ではあった.
植生として,竹の姿はこの映画にはみえていないのではないだろうか.朝鮮半島の竹林の分布の中心は半島南西部とされ,乾いた雪も降り積もるような寒冷もみせるパク家の庭にも竹は映らなかったように思う.しかし,竹が庭にないのは別の事情によるところも大きいだろう.庭園の形式として,パク家の庭は,中国式というには趣味が淡白すぎる.日本庭園にならったにしては池泉築山に乏しく,禅の庭や枯山水にしては石組の省略が著しい(ギウが大事そうに抱えていた水石は,この庭に足りない水と石を補う意図があったのかもしれない).あるいは地表を被覆し,鮮やかすぎるような緑色の芝類のせいかイギリス風景式庭園への志向はみられなくもない.邸宅のロケーションはハリウッドを思わせるような丘やヒルズの高級住宅街にみえるものの,住区の密集性がアメリカ西海岸という雰囲気からはほど遠い.そのためか,パク家の庭にはそれほど敷地面積が割かれておらず,狭さのほうが目立っている.そもそも地下や二階以上の階層を有する邸宅は,建蔽率だけでなく容積率も高く,貴族や大金持ちが住み継いだ家の系統にはないせせこましさがり,モダニズムのすっきり感でそのレガシーの欠如を誤魔化している節が見受けられる.
前述したようにステップアップの階梯の途上にある成り上がりという設定が,あの坂の途中にある邸宅のロケを導いている.そして,住区の密集と傾斜地をやりくりするために,庭の外郭を樹高10m内外のマツ科の針葉樹らしき緑を配し,近隣からの視線や周囲に広がろうとするこの家からの目線を遮蔽をすることの,みみっちさや貧乏くささを指摘し,くさしてはいけないだろうか.

狭窄なシェルターへの/からの視線

パク家も,哀しいかな,キム家と同様にこの邸宅への一介のパラサイトに過ぎないわけだが,最初のオーナーでもあり,設計者でもあった建築家は,果たして死んだのだっただろうか.建築家のエピソードや死に様はこの映画に語られたかもしれないが,私はその経過を見逃してしまった.しかし,シェルターというプログラムが組み込まれた住宅には,朝鮮半島の南北の分断や統合の問題にのみ還元できない,由々しき事情が感じられる.
例えば,起こりうる事態として,宙から地球を狙って迫りくる隕石は,映画の主題_*03としてもときたま出題される問題である.建築に日常的に意識される天体は太陽である.太陽は,地球や地球にはびこる建築群に衝突しようという動きはしていないものの,光や熱として放射され,振り注がれる日光という問題は,地上にあるごまんの建築のあり方をかなり左右している.
核やミサイルの問題は,隕石と太陽の間を考えたとき,隕石よりは現実的で社会的でもあり,実際的な問題ともいえる.いっぽうで,太陽よりは非日常的で,間歇的な問題ではあるだろう.核やミサイルは,現代の映画_*04と建築の前に,雄々しく,そして禍々しく立ちはだかっている.
20世紀中葉の東西冷戦と朝鮮半島の南北分断の因果関係をここで論じることはできない.原子爆弾という暴力の行使にリアリティがあり,イデオロギーの対立も国家存立の主要な要件であった時代の産物_*05として,核からの防衛手段であるシェルター建築は産み出されていった.こうした文脈でみたとき,北の脅威に対してエリートパニックを起こしていた建築家という戯画が可能ではある.しかし,その建築家ですら,20世紀の日本の国際的な占領政策も含めた政治的な煽りを受け,核やミサイルの脅威に曝露されつつ,シェルターという安心に縋りつくパラサイトな潜在的難民であったかもしれない.
平時には何の用も足さないシェルターのような半端な空間が,有事の際には,そこに逃げ込んでこようとする避難民に向かって火を噴く攻撃性_*06をもったハンパない空間へと逆転することもある.その逆転の可能性が,シェルターの出入口の不穏さを暗示している.平時においてすら銃口のように威圧的な穴として,穏やかでない存在感を保って家にあり,日常的に家族たちにその銃口を向けていることを,ポン・ジュノの感性は鋭く描き出していた.

*03_最もよく見られているのは『アルマゲドン』(1998年公開)だろうか,ラース・フォン・トリアーも『メランコリア』(2011年公開)では隕石とその問題系を扱っている.
*04_朝鮮半島においては38度線による分断と統治へと進み始めた頃,被爆国としての道を歩み始めた日本にあって,黒澤明は『生きものの記録』(1955年公開)で原水爆の問題を扱い,シェルター建築をプロットに組み込んでいる.
*05,06_レベッカ・ソルニット,高月園子訳,『災害ユートピア』,2010,亜紀書房,にはシェルターが建築に取り込まれた経緯が語られている.そして1961年のタイム誌の記事を取り上げて,シェルターの欺瞞や暴力性について論じてもいる.その前段で1940年のロンドン空襲の際に地下鉄や森や洞窟がどのように機能したかを記しており,さまざまな示唆に富んでいる.

ザシキワラシの飛び出しに注意!

映画『パラサイト 半地下の家族』の後半では,このシェルターの銃眼ないしは銃口を目指して穴の中から飛び出てくる実弾ないしは空包のようなあるものが実際に問題となる.
北朝鮮の脅威は杞憂のままこの作品の物語は閉じられてしまう.シェルターが本来の目的で使われなくてよかったね,というハッピーさの裏には,でもこんな風にシェルターが転用されて使われて最悪だったね,というバッドエンドが用意されている.建築家がパニクって用意した空間は,別の悲劇を発効しており,皮肉がそこには残される.また,ザシキワラシの両義的なあり方は,シェルターが内包する両義的な問題にも対応してもいる.ザシキワラシは,吉兆でありつつも凶兆の前兆にもなりうる.
民俗学的で,現代においては島嶼部と半島部にも共通する人類学的な意味でのザシキワラシは,寄生した家だけでなくそのコミュニティに向かって警告を放つ働きを担っていた.そんなに貯めこんでどうするのか?貯めこめるような空間を過大に過剰に装備してどうするのか?それは無為ではないのか?というコミュニティからの敵意の表明でもありえた.周囲からの支持を失い,ザシキワラシに寄生され襲撃された旧家はかくして没落する.
この作品では,もろもろの悲劇が出来するが,どんなときでもパク家の坊ちゃんの言葉が聞こえることはほとんどない.ザシキワラシがどこか寡黙で透明な存在であるように,彼は,家じゅうを走り回り,トランシーバーを通してオーバーな声をこちらの世界に届けてくれはするが,どこか不安定な実在をもって映画のなかを寡黙に遊んでいる.彼ダソンとその周りには何事かの真意,というよりも神意が表現され,託宣や兆候が彼の家族や家に振り撒かれている.ザシキワラシの一種として,彼は映画的な運動をもって振る舞い,緊張したシェルターや硬直した家族たちの階層を軽やかに破壊し,やや小さなあの庭へ,そして家や寄生の外へと,私たちを解き放ってくれる.

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