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恥ずかしさの奥にあるもの。

2月末の最後の月曜夜に
「プレイバックシアター研究所」の
zoomワークに出てた。
今回は「ゆりうララ」2回目。

この会が始まる前から、出しもの?は決めていたものの、
直前にキャンセルしようかしら〜(しないけど)
とか、
コレとアレしか無いもんな。。
とか、
(コレはギターの弾き語り、アレは誰にも見せていない童話。童話が書いてあるノートを何処に仕舞ったか捜索しても分からないので、弾き語りにした。そっちの方が更に恥ずかしい)

プレイバック研究所は、ファシリテーター養成講座を受講した古巣でもあり、
スタッフの方々のクォリティの高さと愛溢れる在り方は肌になじんでいて、
ここなら「恥ずかしい」を少し出してもいいや。
的なノリと、
とにかく、くだらない事して遊ぼうよ!
って感じが好きで連続参加している。


(私の中には、とても真面目過ぎるところと、とにかく変で面白いものが好き、という両極が混在していて、それは自分のホロスコープにもはっきり表れている。乖離は無いが、放っておくとうっかり真面目になり過ぎて汎用性が無くなる??ので
(無くならないケド笑)
意味のない世界へと漕ぎ出すのは、自分のバランスを保つのにとても大切だったりする。(気がする))


話戻って、
皆んなでアレコレ披露したのち、
「恥ずかしい」
って何なのだろうね?

を、話し合った。

これは意図してなかったであろう時間だったんだろうが、それがまた良かった。

↑うららさんのレポート。


わたしはアーティスト気質なので
その視点から感じるのは、
「恥ずかしい」という思いって、自分の中のとてもとても大切なところ、普段人に見せないデリケートなところを白日に晒す事なのではないかと感じている。

身体のデリケートゾーン、人に見せない部分も恥部という表現をするように、
心にもデリケートゾーンがあって、その場所は神聖で誰も土足で立ち入ってはならない世界で、傷つきやすくて純粋で敏感なエリア。

そのエリアから産まれるもの、
言葉や音楽や絵や動き、表現というものを自分以外の人に見せるのは大きなリスクを伴うからこそ、大切に仕舞っておく。
芸術家たちはそのリスクを引き受けて陽の光に当てるのではないかなあ。と。

恥という文字は、耳と心で出来てる。
耳は感覚器官👂であり、音を聴く。
さまざまな言葉、音、特に自分以外人の言葉を聴くものでもある。

その耳に、心が付くと「恥」になる。

耳で聴く心。
心の中の耳。


恥って、ネガティブなイメージあったけど、本来の意味ってどうなんだろう。

恥ずかしいって、恥ずかしい事なんだろうか?

恥ずかしい、は感情も伴うから、大切に扱った方がいい。

恥ずかしいって、本当はとっても大切な事なんじゃなかろうか。

誰にでもある「恥ずかしい気持ち」
それって、
大切だからこそ、そう思うのであって、傷つくリスクがあるから出さずに守りたいのであって、
恥ずかしいという思いの蓋を開けたとき、ベールをそっと外したとき、
光り輝くものだったりもするんじゃないかなぁ。

そして、
恥ずかしいという気持ちは、
恥ずべきものでは無くて、
アート(文章含む)として形を変えたとき、
あるいは、本心を伝えたとき、
人の心を震わすくらいの「感動」も秘めている、そういうエネルギーのあるものではないかと、

ふと、思った。

非常口の外は春。



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