銀食器でガーリックの効いた晩餐にありつく私たちが口に運ぶべき良薬
デビルマンクライベイビーを見た。ネタバレしかない。
大衝撃。そして、あまりにもリアル。生々しい。だからこその過激さ。パブリックな場所で見るのが憚られる内容。大好きだ。救いはどこにもない。全ての顛末が、神の手だけに委ねられている。地上波じゃありない邪智暴虐、七つの大罪のあらん限りがまぶさていてそれは美味であった。きっと、初めてチョコレートを口にした幼子と同じ顔をして、このアニメを見ていた。
私は、昔からハッピーエンドは全て御伽噺であると思っていた。人はこれを胸糞展開というのだろうが、人生ではそれがデフォである。滅多に救われたりしない。だからこそ、人生では何度解けても自分で靴紐を結び走り出せるだけの強さが必要なんだろう。そして明にはそれがあった。
以下ネタバレ
世界観:アメリカ的価値観
思ったのは貧富の差、明らかな社会レベルの違いを感じる。日本的な街の様子の中に、アメリカ的な「末端」が見えた。もちろん、日本にもそういったピラミッドが存在しているが、白人的善良の暴力。黒人的街の片隅の鬱屈。金のないジャーナリスト。簡素な絵作りの中に込められた、細かな細かなリアル。ティーンの部屋の壁にはポップな自己表現。法律を守っていては身が守れない世界。甘やかな声で子を呼び娘のプライベートを一人の人として尊重する母。がなり声で子を呼び、娘を支配物としてごくわずかな芽を摘む母。父親が働けなくなって、ゴミを集める少年。未来の閉じられた少年たちの叫び。どこか、日本よりも少しスケールの違う社会構造を感じてならない。中でも、アッパーとそうでない場所で、居住形態が異になった街の構成も、少々アメリカ的だ。アッパーはアッパーな場所で自警的に生活を営んでいる様子が多々見てとれた。両親が医者である二人は、東京タワーが望める高層階に、一方、公営住宅のような場所に住む彼らや、バラック小屋一歩手前のジャーナリストの家は、川下に存在している。
アパレルショップで起きた騒ぎも、銃規制の問題もシビアに溶け込んでいる。そしてそこでボイレコを持った男の子、気管切開というか、挿管の傷跡があるのは私の気のせいだろうか。少し顔が浅く色素沈着し、人よりも厚着をし、背が低い姿。彼は何を背負ってビートを刻んでいるのだろうか。私自身ものすごく、気になる男の子だ。
この作品が描く世界は、「どこ」なのだろうか。
悪魔とは天使とは何か:キリスト教的価値観。
聖書に目を通したことがある人間ならわかるだろう。天使は天使ではないことを。悪魔の方がよっぽど人間的だということ。天使は神の使いであって、善性や悪性があるものではない。無機の存在であって、行動には全て単純な原理だけが反映されている。了の様子はまるでその天使のようではないか、序盤の悪魔集会のシーンで思い至った。真っ白な姿で何か別の理のために真っ直ぐ動き続ける姿。一段高次の存在。了はよく「人間は」「その女は」と共感性を全く持たない言い回しが多い、殺人や性衝動にフラストレーションを覚える明に対して札束を投げた了は人の心のメカニズムを説明し切ったあと、「それが人間の習慣だ、覚えておけ」と女を買わせるシーンでは特にそれを感じた。徐々に明への愛情を無くしていく了の姿はどんどん天へ向けて高次の存在へと流離われる幼子のように無垢だった。
そして、そのあと明が足を向けたのは花街だ。売春を廃れたストリートではなく花街で書き換えるだけで、その悪どさや問題が、文化という覆い布の後ろで息を顰める。花街を彷徨う明の姿にも驚いたが、一方思い返してみれば衝動をみきにはぶつけないように歯を食い縛った明もいた訳で、そんな人間性も美しい。花街も美しい。あのしょうもない場所で、なぜか店の前に立つ女が凛と美しい花に見えたのか。もしかしたら、その場所で咲くことを選んだ強さが私には美しさに見えたのかもしれない。
煌びやかで艶やかで、暖色滲む花街という美しい場所にあるぶつけるだけの性愛の反対側。シレーヌとカイムが暗い暗い場所で互いに与え合う姿を目の当たりにした時、それが私にも「愛にみえた」
もしかしたら、光のある場所に本当の愛なんてものはないのかもしれない。
そして、了はいった。悪魔に心はあっても、共感や思いやりがないのだ、と。人間には、心も共感性もある。悪魔には単純な心がある。でも、了には心そのものが存在していない。ただ一人、ミキの善性だけが悪を跳ね返していた。
ミーコと4Kのタイムを競おうと言われた時に、ミキは「何を賭ける?」と聞いた、そしてミーコは「名前だ」と答えた。そこで、ミキは何を答えようとしたかはわからないが、そこで是と言ってしまったら、それは悪魔との契約になってしまうのではないかと思ったが、彼女が純真に生きてきたライフヒストリーが手繰り寄せた「インタビューいいですか」の声に悪魔の手は払われたのだと思った。
そして、スーパー高校生、もゆる君。神に叛いて愛を抱きしめた彼が、悪魔を封じ飼い慣らし、共存している。愛の種類を限り、主義に反するものを殺してきた神はよっぽど「悪魔」だと思える現代に生を受けてよかった。七つの大罪を犯し続ける彼らを見てとても人間で、とても清く思えたのは私にも同じく、しょうもない人間の心が存在しているからなのだろう。
思い返せば、十字軍の侵攻も、魔女狩りも、アウシュビッツも、元寇も、アイルランド侵攻も、KKKも、そして南京でも、スペイン内戦でも、あの凄惨の限りを尽くしたようなかつての血祭りは悪魔の仕業ではない。神や主義の名の下繰り広げられた人間の正義の結果である。むしろ、悪魔がいて説明をつけてくれたらむしろ納得ができるというものだ。全ては人の仕業である。ある種の危機が降りかかった時、ナショナリズムの高揚という言葉でまとめてしまうと単純化しているような感じだが、人は、異質なものを排除するように出来上がっているのだ。インクルーシブ?多様性?それはまやかしではないのか。私たちは、「多様性を認めようとしている自分たち」という存在が心地いい人たち、というグループの中で安心して息をしようとしているだけではないか。
何も思い通りにならない、正義は勝たない。正義が勝つということがあるのなら、その片側面は人が巻き起こす野蛮な悪行である。だからなんの正義も勝つことなくただ、高次の存在の前に膝をつくしかないという結末が、冷酷な現実が、いやに腹落ちする。救いはない。バイブルも、心に刻まれた福音も、すべてゴミクズになってしまう。神なんていない。それが我々のいる世界だと、強く肩を揺すって目を開くような作品だ。
その中で一つ。自分が握れるだけの、手のひら大でいいから、誰かを助けられなくても、いい人じゃなくても、なんでもいいから。その中で、たった一握り、自分が靴紐をまた結び直して、走り出せるだけの。愛と強さが自分に欲しい。多分人間ができるのはそれくらいのことなんだろう。その素朴な自分のための力が、どんな聖典より、どんな愛よりも、必要で、且つ強いものなのかもしれない。