『推し、燃ゆ』

久々に紙の本買った。
普段ハードカバーは買わない。嵩張るし、収集癖のある私にとって背の高さの揃わない本はなんともいけすかないからだ。それでもこの本を紙で買ったのは正しい判断だったと思う。

ハードカバーの本を読むのも純文学に触れるのも思い出せないくらい久しぶりだ。普段はミステリか、読んでも学術書か新書だ。けれど大体毎年の芥川賞のタイトルくらいはチェックしており、もちろん本作も受賞したときから知っていたが、どうしても手を出せなかった。
最近「推し」、「サブカル」、「オタク」等の文化が市民権を得てきて、よく知りもしない人が「こういうもんでしょ」と書いたものなんじゃないかって思っていたからだったし、実際そういう作品は多い。いつだって私は「誰か」の物差しで測られたくないのだと思う。ただ、最近ハヤカワサオリさん(@hayakawa827)の連載『推しは無名作家』を通して「推し」とは何か、なぜ「推す」のか?「推し」がいる人といない人の違い、「推されたい」とは何か等ひたすら「推し」に対して思いを馳せてきた。そして先日ハヤカワさんが『推し、燃ゆ』読了のツイート。もうこの本から逃げられないと思った。

「推しが燃えた。ファンを殴ったらしい。」
宇佐見りん(2020)『推し、燃ゆ』 河出書房新社

衝撃的な書き出しだった。いや、フレーズ自体には見覚えがあったのだけど。まさかこの一文から始まるとは思わなかった。この書き出しから、私の「推しを語るオタクのブログのような本だったら読むに耐えないな」という気持ちと、ほらやっぱり「推し」を文学にするなんてできなかったでしょうという気持ちが崩れた。最初のページを読み終えたときにはもうこの本の虜だった。目の前でその情景が浮かぶような描写に、私よりも若い子がこんな良い文章を書くんだなあと感心したし、嫉妬した。
私は文学には詳しくないけれど本はそれなりに読む方だと思う。この鬱陶しくない程度の比喩表現が絶妙だったし、評価されているのだと思う。肉体や精神を抉るような表現も、誰かを推すことのただ楽しいだけではない狂おしさや、あかりの病気の問題ともリンクして苦しかった。けれど、もしかしたら今まで読んだ本の中で一番好きかもしれない。そう思いながらページを捲る手が止まらなかった。

私ももしかしたら主人公のように「推しは背骨」状態になっていたのかもしれない。かつての自己犠牲的な生き方からは脱却しつつあって、それが私の推し方にも影響しているのではと思う。私生活の充実は身の丈にあった推し方へと変化させた。推し方は十人十色。人の数だけ推し方がある。私はあかりのように1人を強く推すことはしない。様々なジャンルの推しがいる。たとえ誰かが燃えたとしても、拠り所を残しておきたいからなのかもしれない。

読み終えたとき、最寄駅の2つ手前だった。期待をいい意味で裏切られた。ただ、「推す」ことを知らない人には、主人公の痛みも悲しみも喜びも共感できないだろう。それほどまでに「推す」ことは不思議だ。立ち上がり電車を降りた。見慣れぬホームだ。気づいたら一駅先に来ていた。
夜の静かなホームに読了後の気持ちを鎮めようと流した音楽が私を支配した。最寄駅に戻り、朝乗った電車と同じ扉から降車した。地上へ上がると小雨が降っていた。私は傘をささずに家を目指した。

普段、触れた作品について深く言語化することを避けている。感覚的な余韻に浸りたいからかもしれない。
けれど、この作品を「尊い」や「しんどい」といった言葉だけでは到底消化することができないと思った。
今まで推しを推せなくなることが怖かった。けれど3次元の推しがいつまでも自分の望む形でその世界に君臨することはあり得ない。バンドは解散するし、アイドルは卒業する。事務所の退所や留学、真幸のように、いつでも燃える可能性がある。私は自分の意思が強く、推しの言動が私の価値観に反していて、どうしても推せなくなりそうになったことがあった。「推せなくなるのが怖い」と恋人に言った。私をバカにすることなく「人は絶えず変化するものなんだから推しも貴方も変わるのは当たり前のこと。それで推せなくなったとしても悲しむことはない、仕方のないことだよ。」と答えた。
優しい人だと思う。私はそのとき推すのをやめた。

この作品はこの時代だからこそ受け入れられ評価されているのだと思う。「推し」文化が今後どうなっていくかわからないが、一人の推す側の人間として見守っていきたい。

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