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表現することの怖さと好奇心を超えて、自分史上最高の写真を撮ってもらえた話

先日41歳になった。歳もとったし、2回出産してだいぶ太って全然戻らない。もう戻すことも諦めている。ずいぶん白髪も増えたし、手もゴツゴツしてる。

子どもの頃からずっと無意識に憧れていた「アート」という言葉。でもそんな特別な才能はないから、自分を表現することなんて諦めてきた。そのくせ、いつまでも「アート」という言葉に憧れて嫉妬して、ずっと固執している。

アートな人でありたい。

そんなわたしのあきらめを願いに変えた写真をみてほしい。

どうだろう。この写真を見て、あなたはどんな気持ちが湧いてきただろう?

何カッコつけてんだよ
いい歳して恥ずかしいやつだな

あなたがそんなふうに思っているんじゃないか?って、わたしはとても怖れながら、それでも見てほしくて掲載した。

たくさんの人に見てもらうことは、誇らしさや恥ずかしさ、恐ろしさがあるけれど、ウエディングドレスより気に入っている自分史上最高のお気に入り「作品」を撮ってもらえて感動している。

どう思われるのか怖いという気持ちと、最高に気に入っているから見て!という2つの感情をもちながらこのnoteを書いている。

この作品が生まれた話をしたい。

「才能を持った人だけの特別なもの」から「わたしだってなれる」に変えたい

わたしは、コーチング、プロデュース、彫金、研修講師、ワークショップのファシリテーターといろんな仕事をしている。これまでに、法人営業、ジュエリー作家、食品バイヤーに店舗管理など、いろんな肩書きをつくってきた。

でもずっと憧れていて叶わないと思い続けている肩書きは、曖昧で魅惑的な「アーティスト」という表現だ。

公務員の父と専業主婦の母の間に次女として生まれ”普通"に育ち、一般企業に就職した。そして、なぜかはずっと説明できないでいるけど、子どものころから美術や芸術、アートに強烈な憧れを持っている。

そんなことを傍に置きながら、1年ほどかけて、これからの10年どう生きるのか?を、友人でありブランディングデザイナーの清水麻奈美さんと対話を重ねて探究してきた。 

わたしはどんなメッセージを社会に発信したいのか?

大きな問いを真ん中に置いて対話を重ね、内側に矢印を向けると、気づきたくなかった「諦め」を見つけてしまった。

アーティストなんて、生まれたときから特別な才能を持った特別な人しか言ったらいけない言葉で、わたしには恐れ多い言葉だ。わたしにアートはできないし、そもそもアートを語ってはいけない。

特別な才能がないから無理だよって、当たり前すぎてそれを諦めているなんて思わないほど、当然のようにずっと亡きものにしていた「アート」という言葉。そしてそれを無意識に諦めてきたこと。

この気持ちに気づくと、己の無力さを直視する痛みが襲う。気づかなければ感じなかったのに、気づいてしまうと、無自覚に諦めていたことに気づいて心が揺れる。まだそんなこと言ってるのかと恥ずかしさも同時に襲ってくる。

そこに気づくと、ずっと奥に奥に押し込んでいた願いが胸に湧いてきた。

芸術作品を作っていなくても、アートな生き方ができると伝えたい。美しくありたいし、唯一無二の輝きを放ちたい。痛みや恥ずかしさ、憧れを抱えながら、諦めている人間の弱さや悲しみと美しさを表現したい。

奥深くに沈めていたこんな感情に気がついてしまった。

葛藤を言葉にしていたら「ありたい姿」を引き出して撮ることになった

願いと諦めの往来を何ヶ月も繰り返し、わたしは誰なのかという問いに向き合ってきた。まるで宝石が眠る鉱山を探索するように探求を続け、やっぱり表現したいものがあって諦められないこの気持ちを受け入れてきたとき

私のそのままを、ただ美しく撮ってもらいたい。

いつものみんな知っている顔ではなくて、まだ切り取られたことがない「美しい女性」として撮ってもらうというのだ。

それで何が起こるか分からなかったけれど、ただ美しく撮ってもらいたい。作品になりたい。

着飾ったり、厚化粧をしたり、作り込まれたスタジオで撮影するのではなく、わたしの良さが引き出される衣装をまとい、多様な背景を持つ人々が行き交う街で、一瞬の表情を切り抜いてほしい。

そんな願いが溢れてきた。

青と黒の美しさに一目惚れして撮ってもらったら自分史上最高に出会えた

わたし一人では絶対に辿り着けなかった勇気をもらって、誰に撮ってもらいたいだろう?と探した時、一枚のアヒルの写真に出会った。

photographer:鈴木茂樹さん

黒とも青ともいえない絶妙な色に惹かれ、このアヒルのように凛とした美しさを撮ってほしい。まさに一目惚れだった。

わたしの陽より陰を切り取ってほしい

黒と青を美しく表現してくれるカメラマンの鈴木さんに、「わたしのありのままの姿」ではなく、「わたしのありたい姿」を引き出して撮ってもらうことになった。

東京に台風がのらりくらりと接近していた8月末。都内で最もたくさんの人が行き交い、歴史を積み重ね、芸術家と職人が作った場所で撮ってもらったのがこの写真だ。

陽に撮らずに陰に撮る

だれだ?これは誰だ?

納品された写真を見たとき、心拍がドクドクと早くなるのを感じた。何十年も鏡で見ているはずなのに、初めて見る自分に身体中の毛穴が開くような感覚だった。

誰だこれ?!すごく好きだ!かっこいい!こんなわたしがいたなんて。

多くの人が知っている表情でもないけれど、確実に私の一面が引き出された。厚化粧した偽りの自分ではなく、存在する姿。

笑顔ではなく、真面目でシックな色合いの写真が気に入っている。陽と陰の両面を持つ私が真剣な姿で写っていることが嬉しい。

ウエディングドレスの非日常の写真も記念として好きだけれど、それとは違う日常だけど芯を射抜いたような姿に、見るたびにわたし自身に期待したくなる写真だった。


みんなに見られることの恐怖と怖さ

何度もニヤニヤ眺めるほどこの写真に喜んでいるのに、公開することに怖さがある。

批判や非難を受けるのではないかと不安になる。誰が言うわけでもないのに「調子乗ってんじゃないよ、大したことないくせに」とバカにする声が聞こえてくる。

怖さや恥ずかしさがあることを分かった上で、それでもわたしが好きだと思った自分の姿を表現することが「諦めとアートを体現する」ことだと勇気を出して公開することに決めた。それがこのnoteだ。

ありたい自分の姿から、挑戦したいことが見えてくる

写真を撮ってもらって気づいたことがある。

「ありのまま」を撮ってもらうと、自分をそのまま受け入れる感覚になる。一方、「ありたい姿」で撮ってもらうと、今とのギャップを埋めたくなり、「この写真の人は何をするだろう?」と考え始める。

この写真の中にいる人は、どんな選択をし、何を手放すだろう?

そんな問いがたって写真の中の自分に強く引き寄せられる感覚だ。

アーティストという言葉にずっと憧れてきたことを受け入れ、音楽やジュエリー、絵で表現はできないけれど、「諦めに気づき、願いに生きること」を体現したいともがくこの生き方がアートだと言ってもいいのではないかと思う。

アーティストではなくても、アートな生き方をしていると言っていいのではないか。

嬉しくて怖かったから友人に見せて勇気をもらって安心してる

初めて出会ったわたしは嬉しいけど、偽物で作り物のフィクションだと捉えられたら悲しくて、どう思われるか不安になって、出来上がってすぐに仲の良い友人5人に写真を見せた。

誰だこれ?と驚かれるかと思っていたら、

・これよこれ!!!これぞぐっちだよ!!
・意外とそんなギャップ感じないかも。この顔知ってる。
・真剣に何かやってる時のぐっちは、今回の写真みたいな表情してるよ
・わたしが話を聴いてもらっている時はいつもこの顔ですよ。

こんなコメントをいただいた。よく知る人はこの表情を知っていた。近しい人が知っている姿は、実は全然違うのかもしれない。そして誰より自分が自分のことを一番知っているというのは幻想だということ。


そしてこれも問いたい。

あなたは何に諦めていますか?
そしてそれはどんな願いがあるからですか?

これをみたあなたが、無自覚な諦めに気づいて、その裏にある願いに焦点を当てて、恐れや悲しみを超えて一歩前に踏み出すきっかけになってくれたら… こんなに嬉しいことはない。

謝辞

新しいわたしを引き出してくれたブランドデザイナーの清水麻奈美さん。
3000枚以上の中から美しい青と黒で表現してくれたカメラマンの鈴木茂樹さん。このお二人のプロフェッショナルな仕事ぶりには感謝しきれない。ありがとう。

この写真に映る人は、どんな仕事を作るだろう?そんな問いを立ててみたい。この写真がわたしを新しいステージに連れて行ってくれる気がしてならない。

だれかが言っている「こうだよ」という正解を探す人生より、自ら問いを立てて探究する人生を描く方がおもしろいと思う。ここにうつる自分自身を旗印にして、探究テーマである「諦める」という感情を「アート」として表現できたことがとても嬉しい。


編集後記
このnoteには書ききれなかったエピソード0を話したので、合わせて聞いてもらえると嬉しいです。


数字で見える応援が、日々の励みとなります。一瞬でも、あなたの人生に何かハッピーをお届けできたらこれほど嬉しいことはありません。