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ビジネスマン織田信長 その①

時は戦国。
領土拡大のみを考えた諸大名が跋扈する中、初めて天下統一という、明確なビジョンを持った天才が現れる。

織田信長である。

彼は実に優秀なビジネスマンであった。
ビジネスとは次のように定義される。

「個人または法人組織などの事業体がそれぞれの事業目的実現のために、人・物・金・情報などの諸資源を活用して行う活動全体を意味する。 」

まずはこの定義に従って、改めて信長が実行した内容を整理してみよう。

人:身分に捉われない、実力を持った人材の積極的登用。
物:鉄砲など、ハイテク兵器の大量採用。
金:楽市・楽座による画期的な経済政策。商業都市、堺の掌握。
情報:桶狭間の戦いに代表される、迅速な情報の収集。
軍事(戦国時代なので):兵農分離の促進。

これらは、ただ闇雲に行われた訳ではない。
全ては「天下布武」を掲げ、天下を統一するという目的の為に実行したものである。

信長が具体的に、天下を統一しようと志したのはいつからか。

1560年(永禄3年)、数え年26歳で桶狭間の戦いにおいて今川義元を討ち取った。
普通の戦国大名ならば、ここで今川の領地である駿河・遠江・三河に侵攻し、領地と金山を手に入れようとするのが、当時の常識だった。
しかし、信長はこれらに見向きもせず、翌年には今川の属国となっていた三河の松平元康(のちの徳川家康)と同盟を結ぶ。

この時には、信長の目は既に、京に向いていた。
松平と結べば、東側に対する守りは考えなくて済む。
同盟直後、信長は北にある美濃斎藤氏への侵攻を開始する。

1567年(永禄10年)、遂に斎藤氏を攻め滅ぼし、稲葉山城を征服した。
注目すべきは、美濃の首府であった「井の口」を「岐阜」と改名したことだ。

「岐阜」という名前には、まさに天下取りに対する信長の意志が込められている。
古代中国の周王朝は「岐山」という小さな村から起こった。
阜と山は同義語である。

更に信長はこの時から「天下布武」の公印を使い始めた。

同年、京への通り道にある近江の大名、浅井長政と、信長の妹お市との政略結婚が成立する。

翌年1568年(永禄11年)には、当時の権威の切り札とも言うべき、足利義昭を美濃へ迎え、義昭を奉じて上洛し、義昭は正式に15代将軍となった。

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つまり信長は、今川義元を討ち取った直後から、一貫して天下統一というビジョンのもと、周到に計画し、迷いなく行動したのである。

次のノートでは、既得権益の塊であり、横暴の限りを尽くしていた、当時の寺社勢力と信長の対決について書こうと思う。

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