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アメリカのクラシック音楽の精神と理論を作った作曲家

ウォルター・ハモール・ピストン(1894年1月20日 - 1976年11月12日)は、アメリカ合衆国メイン州ロックランド生まれ。1905年に、家族とマサチューセッツ州ボストンに引っ越した。
1912年、マサチューセッツ師範美術学校に入学し、1916年にそこを卒業したが、美術の道には行かず、ジョルジュロンジーが率いるオーケストラでバイオリンを演奏して生計を立てた。

第一次世界大戦で従軍すると、軍楽隊で活躍する他、様々な楽器の演奏を学んだ。そして、1920年にハーバード大学に入学し、本格的に作曲を勉強することにし、様々な音楽教授の助手として働き、学生オーケストラを指揮した。

ハーバードを最優秀で卒業すると、奨学金を得てフランスに留学。1926年に帰国すると、すぐに母校の音楽教授となり、1960年に引退するまで多数の学生を教えた。

彼の教え子の中には、レナード・バーンスタイン、リロイ・アンダーソン、フレデリック・ジェウスキー、ジョン・ハービソン、そして、エリオット・カーターといった、後に国際的に活躍し、アメリカを代表する作曲家がいる。

また、ピストンは『調和解析の原理』(1933年)、『和声法』(1941年)、『対位法』(1947年)、『管弦楽法』(1955年)の4種の音楽理論書を著すが、特に『対位法』と『管弦楽法』は彼の生前に版を重ねただけでなく、各国語に翻訳され、今でも重要な教科書として使われている。

■初の大舞台でやらかす

ピストンの作品が初めて一般聴衆に広く聴かれるようになったのは、1936年にCBSが6人のアメリカ人作曲家(コープランド、グリューンバーグ、ハワード・ハンソン、ロイ・ハリス、ウィリアム・グラント・スティル、ピストン)にラジオで放送する作品を書くよう依頼した、交響曲第1番によってである。交響曲は1938年4月8日、ピストンの指揮するボストン交響楽団によって初演された。

しかし、ハッキリ言って、この曲は難解だ。
最初にもお話したように、ピストンは作曲家であると同時に、大学の音楽教授だ。もちろん、ピストンの前にも大学で音楽を教える人はいたが、20世紀前半はジュリアード音楽院(1905年設立)のような音楽専門の学校も出始めたころで、本格的なカリキュラムもまだなかった。1939年になってもなお、ハワード・ハンソンの設立したイーストマン音楽学校のような、新しい音楽学校が生まれる需要さえ残っていたくらいだ。もっとも、日本でクラシック音楽を中心に教える本格的な音楽大学が出来たのは1949年(昭和24年)だから、それよりは50年進んではいたが。

だから、ピストンと同世代で名を馳せた当時の作曲家は、ピストンのようにハーバード大学、先回お話したウィリアム・シューマンはコロンビア大学、ロイ・ハリスはカリフォルニア大学、ハワード・ハンソンはノースウェスタン大学と、みな一般大学で音楽を学び、奨学金を得てフランスやドイツに留学している。1910年生まれのサミュエル・バーバーで、やっと学歴に音楽大学の名前が出始める。

つまり、ピストンはバリバリのアカデミズム作曲家だ。しかし、この交響曲第1番を聴くと、シェーンベルクの十二音技法を基礎に音楽が構築されており(最初の低音のピツィカートは十二音の半音階音のうち9つで構成されており、残りの3つの音がその上で演奏されるテーマにある)、ある意味でのアカデミズム的なわかり易さが全くない。同年代に作曲されたショスタコーヴィチの交響曲第5番とくらべても、革新的(現代的)であり、難解だ。まるで、生徒たちに「こういう曲は書いちゃダメだよ」と言っているみたいだ。

当時のラジオ受信機の性能(当然音声はモノラル)を考えると、ほとんど雑音しか聴こえなったのではなかろうか?

しかし、ピストンにとって十二音技法は自身の音楽性にマッチしていたのか、生涯にわたって取り入れた。もちろん、弟子のジェウスキーやエリオット・カーターのようなバリバリのセリー音楽ではなく、調性のある中に、モチーフの一つとして取り入れただけだが、最後の交響曲第8番(1965年)で、伝統的な音楽形式、つまり変奏曲と古典的な二部形式と十二音技法を融合させている。また、彼の8曲全ての交響曲に調性の明示がないのも、無調音楽が常に念頭にあったからだと思われる。
【戦前のピストンの十二音技法が全面に出た作品】
*ピアノ協奏曲(1937年)

*フルート・ソナタ(1930年)

*管弦楽のための協奏曲(1934年)

*バッハの名による半音階的習作(1940年)
最初の完全な十二音技法による作品とされる

■最初の成功

ウォルター・ピストンの最初の成功作とされるのは、交響曲第1番のわずか2ヶ月後、1938年5月に、作品を委嘱したアーサー・フィードラーとボストン・ポップス管弦楽団(母体はボストン交響楽団)が初演したバレエ音楽《不思議なフルート奏者》だ。

後に組曲化され、1940年11月、フリッツ・ライナー指揮ピッツバーグ交響楽団によって初演された。

十二音技法を全面に出した作品よりも、伝統的でロマンティックな色彩のある楽曲の方がウケる(当たり前だけど)と思ったのか、続くヴァイオリン協奏曲第1番(1939年)は、恐らくピストンの作品で最も聴きやすい楽曲となっている。「もしバッハがアメリカでチャイコフスキーのヴィオリン協奏曲を書いたらこうなるだろう」と評されたほどだ。

ヴァイオリン協奏曲第1番は、当時のアメリカで大変な人気を博していた女性ヴァイオリニスト、ルース・ポッセルト(1937年にルーズベルト大統領夫妻からホワイト・ハウスで演奏するよう招待され、サミュエル・バーバーの協奏曲の初演、ヒンデミットの協奏曲のニューヨーク初演などを行う)に捧げられ、彼女の独奏によって1940年3月18日、カーネギー・ホールで初演された。

■ピストンの最高傑作

そして、第二次世界大戦が始まると、ピストンはしばらく大作を書かなくなる。唯一、特筆すべき作品はフルート五重奏曲(1942年)ピアノ独奏のためのパッサカリア(1943年)だ。
戦争でアメリカが優勢になった1943年のパッサカリアの方が暗い雰囲気に包まれているのが面白いが、どちらも習作だと思う。
アメリカの作曲家が、室内楽の分野でこれほどまでに立派な作品を書いていたことは、もっと知られていいと思う。

そして、この後に、ピストンの最高傑作とも言うべき、交響曲第2番(1943年)が書かれる。
コロンビア大学のアリスM.ディットソン基金から委託され、1944年3月5日、首都ワシントンD.C.でハンス・キンドラー指揮のワシントン・ナショナル交響楽団によって初演される。初演の翌日、キンドラーは「(この交響曲は)過去10年間に書かれた、半ダースの偉大な作品の1つであることは疑いの余地がない」と宣言するメモを作曲者に送った。
その後すぐに演奏が続き、最初はボストン交響楽団、次に1945年5月12日に、ニューヨークでコロンビア大学の第1回アメリカ音楽祭でNBC交響楽団が、そして再びニューヨークでアルトゥール・ロジンスキ指揮のニューヨーク・フィルが演奏した。これらのニューヨーク公演に基づき、ピストンは1944-45シーズンの音楽批評家サークル賞を受賞する。

ピストンの弟子であるレナード・バーンスタインは、師の訃報に接し、その追悼としてこの交響曲の第2楽章「アダージョ」をニューヨーク・フィルのコンサートで演奏した。

特に、フィナーレの第3楽章は、上記のパッサカリアなど、ピストンの多くのシリアスな作品とは違い、ハワード・ハンソンの交響曲第2番《ロマンティック》終楽章のように、活発で英雄的な音楽で、まるでアメリカの勝利を予言したかのように、祝祭的な雰囲気に満ちている。

■交響曲連発~最初のピューリッツァー賞!

交響曲第2番の成功で、ピストンの交響曲に注目が集まったのか、1940年代中頃から1950年代中頃の十年間に、ピストンは委嘱作も含め、4曲(!)の交響曲を発表している。
*交響曲第3番(1947年)

交響曲第3番は、クーセヴィツキー音楽財団により委嘱された。1948年1月9日にセルジュ・クーセヴィツキー指揮ボストン交響楽団によって初演され、ピストンは指揮者の妻ナタリー・クーセヴィツキーの記憶にスコアを捧げた。
ピストンは、この交響曲により、1947年度ピューリッツァー賞を授与されている。
後の委嘱作、交響曲第4番、第6番同様、全4楽章で、フィナーレは「第二次世界大戦の勝利を祝っている」と評されることもあるが、どうだろうか?

*交響曲第4番(1950年)

交響曲第4番は、大学の創立100周年を記念し、ミネソタ大学からの委託を受けて作曲。1951年3月30日、アンタル・ドラティ指揮のミネアポリス交響楽団によって初演される。

第1楽章は、ヴァイオリンの流れるような2オクターブのメロディーで始まり、その中で、対象的な半音階的のテーマがクラリネットで演奏される。
第2楽章はロンド形式の「舞踏」楽章で、変拍子(3/4、7/8、5/8、2/4など)が多用されるのが特徴で、6/8のワルツと「スコットランドのフィドル奏法を彷彿とさせる」活発なテーマが交互に続く。
第3楽章「Contemplative(瞑想)」は、ほぼ完全に無調のオープニングテーマから爆発的なクライマックスへと成長する。フィナーレはソナタ形式で、第1主題はリズミカル、第2主題はオーボエの奏でるカンタービレがよいコントラストを作っている。展開部は短く、ヴァイオリンが第2主題の回想し、第1主題に基づいて構築された熱狂的な結末が導かれる。

*交響曲第5番(1954年)
ジュリアード音楽院の50周年を記念して委嘱され、1954年に完成したが、初演は1956年2月24日、ジャン・ポール=モレル指揮のジュリアード管弦楽団によって行われた。
この時のプログラムには、ピーター・メニン、ルーカス・フォス、ミルトン・バビット、アーヴィング・ファイン(ピストンの弟子)、ロス・リー・フィニー(ピストンの弟子)、ウィリアム・シューマン(当時のジュリアード音楽院の学長)の作品の初演が含まれていたことを考えると、交響曲第1番に戻ったようなやや難解な作風も頷ける。

第1楽章はソナタ・アレグロ形式で、序奏のレントがコーダとして様々な形で最後に戻ってくる。第2楽章は低音の12音音列から始まり、その構成は第1楽章の動機と関連している。「アダージョ」の主要主題も、この音列にそったものだが、その構造は和声的。また、この楽章は変奏曲形式だが、変奏はパートごとではなく連続性があり、クラリネット、分割された弦、テューバによって連続して始まる。
フィナーレはロンド形式で、3楽章の中で最も和声的な音楽だ。ピストンのいつものフィナーレのように、それは動的でリズミカル。ハ長調の主要主題は四分の二拍子の無窮動に上下し、第2主題のぎこちないシンコペーションが特徴。これらの特徴は、ジャズ、アップテンポのブロードウェイ・キャバレーソングを彷彿とさせるが、それらの扱いは機知に富み、古典的である。

*交響曲第6番(1955年)

ボストン交響楽団が創立75周年を記念してピストンに委嘱した作品。交響曲第3番同様、スコアはセルジュ・クーセヴィツキーと彼の妻ナタリーの記憶に捧げられている。初演は、交響曲第5番に先立ち、1955年11月25日にシャルル・ミュンシュ指揮のボストン交響楽団によって行われた。

第3楽章の終わり近くで、ソロ・チェロがバッハの名のモチーフであるB-A-C-Hを奏でるが、これは、第1楽章を開始した4つの音のアナグラム(順序入れ替え)となっている。

この間、ピストンは交響曲だけを書いていた訳では無いが、1948年の管弦楽のための《トッカータ》は、交響曲にひけをとらない力作だ。

■栄光の1950年代を締めくくる、もうひとつの代表作

交響曲を連発した1950年代だが、ピストンは1957年、珍しいヴィオラ協奏曲を発表する。
1947年から64年までボストン交響楽団の首席ヴィオリストを務め、1995年までオーマンディに引き抜かれてフィラデルフィア管弦楽団の首席ヴィオリストを務めた名ヴィオラ奏者ジョセフ・デ・パスクアーレのために書かれた協奏曲だ。

そして交響曲を連発した1950年代最後の年、バレエ《不思議なフルート奏者》、交響曲第2番に続き、ピストンの代表作がもう一つ完成する。

《ニューイングランドの3つの場所》だ。
この作品は、ウースター郡音楽協会から第100回年次音楽祭のために委託された。初演は1959年10月23日、ポール・パレイ指揮デトロイト交響楽団が行い、スコアはパレイに捧げられている。

3つの楽章の各部は、スコアにサブ・タイトルが添えられている。
1.水辺(アダージョ)
2.夏の夜(デリカート)
3.山(マエストーゾ;リソルト)

しかし、それらは作曲者が特定の印象を規程したものではなく、聴き手に自由な発想で受け取ってもらって構わないらしい。

■大作から再び十二音技法へ

1960年になると、ピストンはフィラデルフィア管弦楽団協会から委嘱され、交響曲第7番を作曲する。この交響曲は1961年2月10日にユージン・オーマンディ指揮フィラデルフィア管弦楽団によって初演され、1961年にこの交響曲で第3番に続き、2度めのピューリッツァー賞を受賞する。

そして、1965年、ボストン交響楽団はピストンに交響曲第8番を委嘱し、1965年3月5日にスコアが捧げられているエーリッヒラインスドルフの指揮で初演を行なった。当初、ピストンはボストン交響楽団の首席フルート奏者ドリオ・アンソニー・ドワイヤーのためにフルート協奏曲を書くことを提案したが、ラインスドルフは「交響曲で」と言ったとされる。結局、フルート協奏曲は、1971年に作曲された。

ピストンは、早くから十二音技法を採用してきたが、交響曲第8番ではこれまで以上に積極的に採用しており、これにより熱烈で悲劇的な表現のレベルが高まっている。第1楽章は、十二音列から構成されたメロディーで始まり、C D E F A G F♯E♭D♭A♭B B♭と、同じ列の2番目と最初のヘキサコードで構成される2つの6音の和音が伴う。この音列は、マイナーセコンドとマイナーサードに重点を置いているため、音楽に暗い厳粛さを与えている。
このようなゆっくりとした前奏曲のような冒頭楽章の後、ゆっくりとした第2楽章は、やや意外で、変奏曲形式となる。主要主題は最初ファゴットで演奏され、続いてフルート、弦楽器、モデラートモッソ、さらに3つの変奏が続く。終楽章のアレグロ・マルカートは、短いコーダを持つ大きな二部形式。ほとんどのピストンの交響曲のフィナーレ同様、リズミカルで推進力がある。旋律線の反転はこの楽章の重要な特徴で、派手ななティンパニの連打をバックに、トランペットの咆哮で曲を閉じる。

ピストンは、交響曲第8番を書いた後、交響曲を始め、管弦楽の大作は書かなくなる。唯一、1967年の《管弦楽のためのリチェルカーレ》があるが、それまでの才気は備わっていない。

*《管弦楽のためのリチェルカーレ》

ピストンはそれまでの大作よりも、十二音技法を極める方向にシフトしていく。すなわち、チェロと管弦楽のための変奏曲(1966)、クラリネット協奏曲(1967)、ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲(1970)、フルート協奏曲(1971)である。

*チェロと管弦楽のための変奏曲(1966)

*クラリネット協奏曲(1967)

クラリネット協奏曲は、ダートマス大学のホプキンスセンター芸術会の音楽監督であるマリオ・ディ・ボナヴェンチュラによって委託され、1967年8月6日にコングリゲーション・オブ・アーツ・フェスティバルでクラリネット奏者のドナルド・ウェンドラント、マリオ・ディ・ボナヴェンチュラ指揮ダートマス交響楽団で初演された。

協奏曲の構成は、テーマなしの4つの変奏曲による単一楽章で、

バリエーションI:コンモト-
バリエーションII:ポコ・ピウ・モッソ-
バリエーションIII:アッサイ・レント-
変奏曲 IV:アレグロ - ヴィーヴォ
という珍しい構造となっている。
これは、1966年のチェロと管弦楽のための変奏曲の成功に触発され、その構成をさらに推し進めたものとなっており、一貫性と形式的なバランスが特徴で、満足のいく統一感を生み出している。

もう一つの顕著な特徴は、ピストンの音楽に典型的な、シンコペーションのエネルギッシュなリズムだ。これは、ピストンに典型的な繊細なパーカッションの打撃によるスケルツォで特に顕著となっている。3つの速い部分はそれぞれA-B-Aの三部形式で、より叙情的なBセクションが、より活発な両端の部分とのよいコントラストとなっている。
最後の変奏は、二拍子の堂々としたアレグロの導入で始まり、変拍子のヴィーヴォ(7/8、5/8、3/4など)へと続く。また、カデンツァの代わりに、各変奏の連結部として機能する、短い無伴奏ソロが置かれている。

*ヴァイオリンと管弦楽のための幻想曲(1970)

1970年、ダートマス大学のホプキンスセンター芸術会の音楽監督であるマリオ・ディ・ボナヴェンチュラによって委託され、1973年3月11日にサルヴァトーレ・アッカルドをソリストとしてマリオの指揮するダートマス交響楽団によって初演された。

作品は5つのセクションに細分された単一楽章で構成される。

レント・セレノ、8分音符= 48(5/8)
アレグロ、四分音符= 120(3/4)
アダージョ、四分音符= 50(6/4)
アレグロ・エネルジコ、四分音符= 84(5/8、6/8、3/4)
レント、8分音符= 48(5/8)

*フルート協奏曲(1971年)


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