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論:西粟倉の鹿肉を如何に嗜むかについて

岡山が暑くなってきた。
さすが晴れの国である。蒸し暑さに容赦がない。扇風機2つ全開でこの夏を凌ぐことになりそうだ。

序:如何に鹿肉と向き合うか

はてさて。
西粟倉の名物の1つには、鹿肉がある。この村には、この鹿肉を取り扱った料理を出している店があるのだが、どうも遠くて行く気が起きない。私には、自前の脚と細い二輪車しかない。物質的に持たざるものはそれなりの行動範囲に身を慎むしかないのか。やや虚しいかな。

しかし、物質的に持たざるものこそ、自分の知恵と学習欲を捻りだし、知的に持てるものとして、自己の存在投企の果てにある至上の鹿肉の嗜み方というものがあるのではないか。自分で頭を使い、腕を振る舞い、己の欲望に忠実に従うことで、創作せよ。そうやって、心の中の「毛(China Mao)」が囁く。

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ところが、鹿肉となると、私自身鹿肉を調理したこともないし、食べたこともない。そのうえ、残念なことに、その辺の甘えた日本的な味付けでは私の舌は震えない。

何事も初めては怖いだろう。さて、どうしようか。

ふと思い出して、本棚から取り出したのは、「随園食単」。
作者の袁枚といえば、乾隆4年(1740年)に科挙試験合格後、浙江あたりの県長を歴任した官僚であるのみならず、清朝統治下の1716年から1798年にかけて生存していた近代中国で最も舌が肥えた美食家でもあった。彼なら信頼に値するだろうという直観に従い、この約300年前を生きた秀才に鹿肉の扱い方について、聞いてみることにした。

研究:徹底解読「随園食単」

この作品の章は以下のような一言で始まる。早速読み始めると、なるほど、科挙試験をこの若さで潜り抜けた秀才だけあるなと思わせる筆の始め方だ。

学问之道,先知而后行,饮食亦然。
訳文:(学問の道は、先に知り、その後やってみることだ、それは、飲食も然りである。)

さらに、続きを読み進めると、こうある。

凡物各有先天,如人各有资禀。人性下愚,虽孔、孟教之,无益也。物性不良,虽易牙烹之,亦无味也。
訳文:(あらゆる食材には、それぞれの天性がある。それは、まるで人間各々にも天賦の本性があることのようである。もし1人の人があまりにも馬鹿ならば、例え孔子や孟子が説教したとしても、役に立たない。同じ道理で、食物の本性が良くなければ、齊恒公の専属料理人である易牙が調理したとしても、美味くはならない。)

つまり、調理を始める前に、良い食材を整え、その食材の性質や取り扱い方を知り、それを実践することが、美味いを醸し出す、ということであろう。

さて、今回私が扱うのは鹿肉だ、袁枚よ。どう調理するべきだろうか。

パラパラとページをめくると、「雑牲単」という章がある。そこには、

牛、羊、鹿三牲,非南人家常时有之之物。然制法不可不知。
訳文:(牛、羊、鹿の3つの家畜は、南方人以外の家庭によくあるものだ。そして、調理法は必ず知っていなくてはならない。)

おぉ、しかとおっしゃりますかな。どれどれ如何。

鹿肉
鹿肉不可轻得。得而制之,其嫩鲜在獐肉之上。烧食可,煨食亦可。
訳文:(鹿肉はそう簡単に得られるものではない。得てこれを調理すると、その柔らかさや美味さは小鹿以上である。「焼いて」食べるもよし、煮て食べるもよし。)

なるほど。
「焼く」か、それとも煮るか。
肉を煮るとなると、私が真っ先に目についたのがこの調理法だ。

红煨肉三法
或用甜酱,或用秋油,或竟不用秋油、甜酱。每肉一斤,用盐三钱,纯酒煨之;亦有用水者,但须熬干水气。三种治法皆红如琥珀,不可加糖炒色。早起锅则黄,当可则红,过迟则红色变紫,而精肉转硬。常起锅盖则油走,而味都在油中矣。大抵割肉虽方,以烂到不见锋棱,上口而精肉俱化为妙。全以火候为主。谚云:“紧火粥,慢火肉。”至哉言乎!
訳文:(紅煨肉には、甘いタレを使うもの、秋油を使うもの、そして秋油も甘いタレも使わないものがある。 肉一斤(約600g)につき、塩三銭(約15g)と、原酒を使って煮る。水も使うが、水気が飛ぶまで煮なければならない。三種類の調理法で紅煨肉を琥珀のように赤い仕上がりにするには、砂糖を入れて色を出してはならない。 紅煨肉は、煮込みが浅いと色が黄色くなり、煮込みが丁度良いと赤くなり、煮込み過ぎると、赤色が紫色に変わってしまい、肉質が固くなってしまう。常に蓋を開けると、油が飛び、味を失ってしまう、なぜかというと、味が全て油汁に溶け込んでいるからである。肉は、四角形に切るべきであり、その角が見えなくなるまで柔らかく煮込むことで、口に運ぶと脂身が少なめの部分が一番いい感じでとろける。これらは全て火加減にかかっている。ことわざによれば、「粥は強火で素早く仕上げ、肉は弱火でじっくり仕上げよ。」なんと正確な道理であり、見識の深い言葉であろうか!

最後に興奮しているような袁枚の言葉尻がなんとも珍しく、印象深い。紅煨肉は、現代の中国では、一般的には見られない料理だ。少なくとも、最近の飲食店では見かけないだろう。代わりに、広く普及した家庭料理として紅焼肉がある。

表面上両者の違いは、一文字「煨」「焼」の違いのみだが、そこに料理法における大きな違いがある。「焼」は、何らかの方法で加熱した原料を、鍋の中に入れ、適量の水分と調味料を加える。そして、強火で沸騰させ、中弱火で火を通し、味を浸み込ませる。最後に、再度強火で水分を濃縮させる。「煨」は、何らかの方法で加熱した原料を、鍋などに入れたのち、その鍋の中に葱、生姜、料理酒などの調味料、そして水分を加える。強火で沸騰させたのち、弱火に変え、じっくり時間をかけて加熱していく。つまり、その違いは、完成までの火加減の変化とそこに費やす時間にある。

ところで、最近の中国では、そこまで厳格な調理法の分類に拘泥しない。同じような出来上がりになるようであれば、全てそれらを紅焼肉という風潮があるように見える。確かに、彼らの加熱調理法には、「煨」「焼」の他に、滷、炒、熘、燜、蒸、烤、煎、炸、燉、煮、煲、燴など、数えきれないほどある。構ってられないのも分からないではない。しかし、教養に溢れ、食事にこだわりがある中華系の方々なら誰もが一般常識として身につけているともいえるだろう。

ついでに、秋油という見慣れない調味料が出てきた。これは、古代の醤油の名称の1つらしい。秋一番に取れる最上級品醤油のことだ。また、塩の測量単位として、「銭」が出てくる。塩自体がお金そのものに値するほど重要だったということだろうか。

実行:烹調

さて、知識の準備は整った。始めよう。

①食材を整える。大蒜・大葱・生姜は、ほとんどの中華料理の下味を築く基本だ。私はこれを通称「中華の三位一体」と仮称している。しかし、今、大葱は時期ではなく、時宜を得て店頭に並んでいない。そこで、玉葱を代用することにする。

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②八角、茴香、桂皮、甘草、山査子、そして生姜も用意。主に臭み消しと風味付けに使う。これらをまとめて、「香料」と呼ぼう。

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③「中華の三位一体」と別に、付け合わせの人参を四角形に切る。

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④唐辛子と香料を袋で包む。

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⑤鹿肉の登場だ。エーゼロの自然事業部から直接購入した。左は腿部位、右は腕部位に当たる。立派だ。筋肉質で、非常に締まっている。見ていて恍惚としてしまう。

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⑥両方とも大きめに四角形に切る。袁枚の言葉に忠実になってみる。

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⑦腿の一部は、焼くことにする。ここでは、雲貴川(雲南・貴州・四川)らへんにありそうな川味烧烤風にしてみる。気を付けてほしいのは、私の手にかかれば、全ての食べ物は赤くなる傾向にあるということだ。

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⑧いわゆる「焯水」という工程に入る。鹿肉の灰汁をとると同時に、唐辛子の殺菌作用と消臭作用を期待する。20分弱の間、ゆっくり火を通す。

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⑨茹で上がると同時に、茹で汁を取っておく。鹿肉出汁というものは、今まで聞いたことがないため、どう仕上げるかは後ほど考えよう。

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⑩「中華の三位一体」を炒める。基本中の基本だ。

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⑪そこに、茹で上がった鹿肉を加える。

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⑫「紅煨」あるいは「紅焼」に欠かせないのが、老抽、生抽、そして料理酒。私の場合、老抽・生抽は、通常決まって珠江橋牌のものを使う。しかし、今回は、シンガポールの廣祥泰のものに浮気をしてしまった。また、袁枚によれば、砂糖は着色に使ってはいけないということであった。この生抽には砂糖が添加されているため、追加で少し加えるだけにしておこう。

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⑬「中華の三位一体」と鹿肉がうまく炒め合わさったところで、調味料を投入。いい色が食欲を引き出す。やや老抽を入れすぎてしまったかもしれない。反省している。

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⑭水を加える。同時に、再度唐辛子と香料を加え、煮込み始める。袁枚の言うとおりに、最初は、強火、沸騰したら弱火で1時間弱煮込む。まずは、肉に味を浸み込ませることを優先させるとしよう。そして、煮込んでいる最中、蓋を開けるのは禁物だ。

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⑮再度水を少しずつ加えたのち、今度は、人参を加える。そしてこのまま、強火から弱火へと移行し、1時間強煮込む。辛抱強く、蓋は開けない。袁枚の言うことは、絶対だ。

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⑯ここまで水分が飛び、肉が姿を現すぐらいになれば、丁度いいのではないかという直観に従い、鍋を引き上げる。緊張の瞬間だ。角が見えないくらいには煮込めているはずだ。

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⑰すくい上げてみれば、そこには琥珀のように輝く赤色の鹿肉があった。袁枚、これは合格だろうか。

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『紅焼鹿肉』の完成である。

内省:頂戴

記念すべき食卓の様子は以下のようになった。

・紅焼鹿肉蓋飯(紅焼鹿肉飯) with 荷包蛋(未成形目玉焼き)

・川味鹿肉焼烤(四川風鹿肉ステーキ)

・老虎菜風味凉拌菜(東北名物冷菜風サラダ)

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素晴らしい。鹿肉の本性を上手く引き立てることができた。これも、清代の大美食家袁枚の進言のおかげである。しかし、本場の中華については、私も研究が足りない。彼に付いて引き続き、勉強である。

そして、この環境にいるからこそありつけた一食でもある。感謝。

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気晴らしの烹調随筆、完。

追記:再考「紅焼」

私自身、今まで数回「紅焼肉」を色々な肉で試してきた。常々思うのは、「紅煨」あるい「紅焼」は、中華の知恵が生んだ絶対的な魔法だと思っている。「紅焼」は私を裏切らない。「紅焼」は偉大である。

付録:様々な「紅焼」の在り方

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湖南省名物の毛氏紅焼肉。大量の大蒜と唐辛子。豚肉を使用。

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港式紅焼羊肉麺。羊肉を使用。

参考文献

・塩野谷祐一『エッセー 正・徳・善― 経済を「投企」する』、ミネルヴァ書房 / 2009年

・袁枚『随园食单』、陕西新华出版传媒集团三秦出版社 / 2018年      

・崔岱远『吃货辞典』、商务印书馆 / 2014年                        

・大极禅宗师『鹿肉不可轻得,烧食可,煨食亦可』、bilibili / 2020年
(http://www.360doc.com/content/20/0122/10/48706480_887429181.shtml) 

・长得像美食博主的女人『巨好吃的红烧肉教程来啦!新手不败菜谱,好吃到停不下来,香糯无敌色泽超诱人』、bilibili / 2019年    (https://www.bilibili.com/video/BV1MJ411t7pT)              

・日食记『最近吃不下饭,我怕是命里缺红烧肉了( ̄O ̄;) 』、bilibili / 2017年 (https://www.bilibili.com/video/BV1qx411s7gz?from=search&seid=14107142882565612116)              

・日食记『冬天最暖的事:有人陪你吃上一碗【红烧羊肉煨面】』、bilibili / 2019年 (https://www.bilibili.com/video/BV1KJ411i75U)






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