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監督の背中

これまで無縁だと思っていた世界があるとして、突然その世界に触れる機会が訪れて、想像以上に興奮したり、ハマることは誰しもあると思う。

自分にとっての無縁は何だったのか。それはエンタメ事業(テレビ、ドラマ、映画、ゲーム、イベント等)である。もちろんそれらを体験しないわけではない。ただ、作り手に回りたいと思ったことが微塵もない(というか作れる素養が自分の中に見つからない)という意味で、無縁だった。

それが先月、縁あって自宅を短編ドラマの撮影で使って頂くことになり、初めてエンタメ事業の裏側を知ることになった。

その結果、エンタメに携わるプロの人たちの空気に触れ、ユーモアに触れ、魂に触れ、気が付けばすっかりその世界にのめり込み、遊園地に行った時のような興奮を味わっていた。

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「映像制作って、作り手の時間と感性がぎっしり詰め込まれているんだな」

これが一番強く感じたことだった。

短編ドラマと聞いていたから、そんなに大勢のスタッフさんは来ないのかなとか、小規模な撮影なのかなとか、想像がつかないながらもそこまで大ごとには捉えていなかったのが正直なところ。けれども撮影当日、蓋を開けてみれば何十人ものスタッフさんがやって来て自宅はまるでお祭り騒ぎ。

一コマ一コマの撮影が丁寧に進んでいく様子を見て、映像制作ってこんなに時間がかかるものなのか……!と驚いた。

監督が俳優さんと打合せをしたり、美術部が備品を揃えたり、照明部がドタバタ走ったり、音声部が重たい機材を滑らかに動かしたり、メイクさんが本番前につどつど俳優さんの化粧を直していたり、制作部が休憩中にロケ弁を配布していたり。

これまで何気なく見ていたドラマや映画も、鑑賞する視点が変わった。何カットくらい撮ったのだろうと考えたり、エンドロールの人数の多さに驚愕したりするようになった。

要するに自分のなかに作り手側の意識が混ざり始め、制作する人々の「時間」やそれに付随する努力や労力を考えるようになったのだ。

とは言え、時間や労力がかかっても作品づくりに余念がないのがプロ。いたるところにドラマが素敵になるんだろうなと思える「感性」が見られた。

特に印象的だったのが、監督が俳優さんのユニークなアドリブや、シュールなシーンで「笑う」のを忘れていなかったこと。まるで出来上がった作品を見ているかのように、カメラの画面の前でクスクスッと静かに微笑んでいる姿が忘れられない。監督の背中が目に焼き付いた。

一方でエモい(エモーショナルな)場面では、現場がそれらしい雰囲気になるのだから切り替えがすごい。夕日に照らされた逆光のなかで人が電話するシーンなどは、エモさ抜群だった。この場面を想像したうえで現実のセットに落とし込むのだから、監督の頭の中は普段からエモいことになっているのだろうか。

映像制作には、たくさんの人の時間と、囚われない感性がたっぷりと注ぎ込まれていた。

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普段の生活のなかで得た感情や刺激を表現する手段はたくさんある。表現というのはゴールが見えないなかで、自分で自分なりのゴールを設定するもの。そこに学問とは異なる自由の楽しさと難しさを感じる。

今回のドラマ撮影では「撮る人」の表現を間近で見た気がした。そして私はその人たちを見て感じたことを「書く人」として表現してみている。表現の方法は無限大だなあ。

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。