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特別そうに見えても特別じゃないことがある

最近の自分は「タケノコ女」だ。

なにそれ……?

詳しく説明しよう。3月中旬頃から庭の竹やぶの中で、タケノコが勢いよく成長している。毎朝竹やぶを練り歩き、「今日はどこにツノが出ているかな」とタケノコを探す。

昨日は最高記録で、収穫量は8本。夕食はタケノコの炊き込みご飯、タケノコの煮物、チンジャオロース(中華料理)など、連日そんな感じだ。

驚いたのは夢の中でもタケノコの皮を剥いていた時だった。ガバっと起きて、隣にいた夫にそのことを話した。楽しかったの?苦しかったの?と聞かれ、どっちでもない感情だったことを思い出す。

タケノコを見ない日はない春3月。そんな意味を込めて、しばらく自分は「タケノコ女」だ。

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今書いたようなことをinstagramのストーリーにもあげた。

そうすると、「羨ましい」「庭でタケノコって憧れる」「いいなあ」などの返信が集まった。庭のタケノコ達たちは、閲覧者に羨望の感情を芽生えさせてしまったようだった。

実際自分もこの暮らしを始める前に、もし「庭でタケノコ」と聞いたら「すごい!いい!」って思ったかもしれない。

でも暮らしの中に入ってしまえば、歯磨きをすることや洗濯物をすることと同じように、タケノコ掘りもある程度ルーティーンになっていくものであり、決して特別なものではない。

いや、それどころか苦労でさえあるかもしれない。なぜならタケノコを抜く作業というのは、ある意味雑草抜きと同じだからである。

もうこれ以上竹やぶを荒らしたくないから、竹の新芽であるタケノコを掘り出してしまうワケで。採った後に食べる物が残るか残らないかの違いであり、つまりは雑草の処理なのだ。

地域を見ていると、高齢者の方ほど雑草抜きに余念がない。少しでも生やしておくとすぐに伸びてしまうことを圧倒的に理解しているのだろう。腰を曲げながら一生懸命に雑草を抜くお年寄りは多い。

それと同じだ。

タケノコ掘りは「もうこれ以上伸びませんように」といった、焦りの気持ちが多く含まれた地味で単調な作業だ。

雑草抜きは(恐らくストーリーにあげても)羨ましいと思われないのに、どうしてタケノコ掘りは羨ましいと思うのだろう?

人ってば、ほんと食べることが好きなんだなあ。

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タケノコ掘りは毎日の見回りが必要だし、単調な作業だけれど、思考を整理するのにはちょうどいい。

単純な作業はじっくり考える時間を与えてくれる。

スマートフォンやニュースを見ていても結局不必要な情報ばかりに目がいく。だったら、単調ながらもタケノコ掘りや雑草抜きをしていた方が、心は間違いなく健やかになっていくだろう。

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。