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白銀の眩しさ

「食わず嫌い」という言葉に象徴されるように、やっていないこと、見ていないこと、に対して負のイメージを持つことは誰でもあることだと思う。なぜ先行して負のイメージが付いてしまうのか、それは生きている中でたまたま育まれた防衛本能なのかもしれない。

苦手な環境に放り込まれたり、嫌な人に絡まれたり、そういうものを経験しながらみんなが生きている。だからこそ自分を守るために、似たような臭いを嗅いだとき「食わず嫌い」をしてしまうのだろう。ただ似ているという理由があるだけで。

ある時「食わず嫌い」していたものを強制的に食べさせられることがある。これは偶然でしかない。だって自分の意思が通用するなら、避けているはずなのだから。そんな強制力は時として新しい発見を与えてくれる。

食べてみたら意外と美味しい、むしろ感動。そんな瞬間に出会えば出会うほど、自分の輪郭が溶かされていく。新しい輪郭ができる時には、なぜかちょっと優しさが強化されている。「だからこれを美味しいと言う人がいたんだ」と、矢印のベクトルが外向きになる。

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2022年を迎えた数日後、関東地方にしては非常に珍しく大雪が降った。前日の天気予報ではそこまで大雪になる感じではなく、雪がチラチラ舞う程度だと思っていた。だから私はその日外出していて、家にいなかった。

帰宅したのは夜で、その頃にはすでに庭一面にどっさりと雪が積もっていた。長靴で歩くと、くるぶしあたりまで雪が来ていることが分かった。一歩一歩、雪の中に足が埋もれていく。雪の質感がサラサラだったこともあり、不思議と嫌な感じはしなかった。

翌朝、庭が白銀の世界へと変わっていた。

まだ誰も足跡を付けていない滑らかな雪面。朝日が当たり、辺り一面が銀色に光っている。寒さを承知して、見慣れたはずの庭を何度も行ったり来たりした。雪を踏むのがもったいなく思った。

一番驚いたのは、「白銀の眩しさ」だった。

世界が雪に包まれると、こんなにも眩しいものなのかと思った。目を覆うような派手な眩しさはなく、気分を高揚させるような、純粋に明るく心地よい眩しさだった。雪の中に身をおくと、誰かに優しくハグされているような感覚になった。

正直、私はこれまで雪を良いものと思ってこなかった。寒いのが苦手だったし、それを象徴するような雪を恐れていたのだと思う。

でも今回、白銀の世界に包まれて、雪はとても「あたたかい」ものであることが分かった。地球のことを母なる大地(マザーアース)なんて喩えたりするけれど、それをここ数年で一番感じ取ることが出来たかもしれない。だとすると今回の大雪は、自分史上上位に食い込む大事件である。

長いこと雪を「食わず嫌い」してきたけれど、なるほど素晴らしいご馳走だった。

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庭に積もった雪はまばらに溶けていっている。庭でも雪が溶けやすいところ、溶けにくいところがある。太陽光がよく当たる場所はやはり雪が無くなりやすい。なんとなくは分かっていたけれど、こうして改めて可視化されると興味深い。

広い古民家と広い庭と、これまで広い広い尽くしで大変なことも多かったけれど、この広さの庭がなければ「白銀の眩しさ」に気が付くことは出来なかったかもしれない。誰に向けてというわけでもないけれど、感謝を込めて。

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。