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桜は見られなかったとしても

この数カ月間、ひたすら電卓を叩いていた。

大好きな桜を見る時間が少しも作れず、ついには一枚も写真を撮らずに終わってしまった。春らしいことは何もしていない。桜はすっかり緑の葉を付け、もう梅雨がやってこようとしている。

電卓を叩いていたのは、短期で確定申告の仕事をフルタイムで行っていたこと、そして簿記2級の勉強をしていたのが理由だ。毎日毎日見慣れたキャノンの電卓を叩きまくった。

そしてようやく先日試験に合格し、自分にも遅れて春がやってきた。

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簿記2級の勉強をしようと思ったのは、約二年前から自分で事業をやるようになり、決算書というものを目にするようになり、書類の中に書かれている言葉の意味や仕組みがイマイチ分からなかったからだ。聞いたことはあるけど分からないことにモヤモヤしたし、このままではいけないと思った。

勉強は辛くもあり、楽しくもあり、一言で言えばスリリングだった。

完全独学かつ働きながらという条件で、ストレスフルなことが多かった。おまけに試験直前に生理がやってきて、腹痛と偏頭痛が辛かった。追い打ちをかけたように試験前日に夫とケンカした。試験会場へ向かう車の中で「羊文学」の曲を流して涙が出た。

それでも全てのことが終わってしまうと、不思議なことに全てが「思い出」になった。桜を見たときの気持ちに似ていた。

今回気が付いたこととして、これまで自分は新たな学び(勉強)が割と好きな方なのだと思っていたけれど、そうではなくて「学びの過程で生まれるドラマに触れる時間」が好きなのではないかと。

忍耐、努力、我慢、不安、希望。

学びにはこれらの感情がつきものだ。こんな感情とともに生きる時間がまさにドラマであり、その時間を求めているのでは、と。そして同じような境遇の人がいると、心から共感し応援したくなる。特に試験などは合否が否応なく出るものであり、そのプレッシャーや感情は必然的に大きくなる。

今後自分がどうなっていくかは分からないし、今のところ自分の事業には関係ないけれど、将来的には「誰かの学びにおけるドラマ」をできるだけ近くで応援する何かに携わってみたい。その方法はまだ全く分からないけれど。

そして自分も死ぬまで学びのドラマを体感し続けていきたい。

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例えば何か理由があって実際の桜が見られなかったとしても、個人のタイミングで必ず桜を感じる瞬間はくると思う。人々が桜を感じている時、たとえ自分が桜を感じられなかったとしても、いつかは見られるものと信じていけたら。


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