家庭は苦労と思いやりのシャンデリア
「ひとつの家庭」が今日ここに存在していることが尊い。
最近そんなことばかり考えている。
年明けに自分の祖母が亡くなったと思えば、今度は夫の祖母が亡くなった。ここ三か月で喪服を着た回数は5回。
「重なるときは重なるのよ。」
母に言われて妙に納得した。
もしかしたら今年はそういう機会が多いのかもしれない。次の冬までにまた新たに何が起こるか、つい身構えてしまう。
こんな状況だからかもしれないけれど「家庭」が成り立っていることの尊さについてよく考える。
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父が泣いている姿を見ると何故だか胸が苦しくなる。たぶん後悔しているんだと思う。
父に対する反抗期はすごく遅くて大学生のときだった。会社員の父が送る日々を面白くなさそうな人生と思っていた。今考えると未熟すぎて青い若者(つまり自分)にとめどない恐怖を感じる。
どうして「あの頃の自分は若かった。反省したい。」と思うようになったかといえば、やはり自分が社会に出て、家庭を持つようになったからだ。
「ひとつの家庭」を今ここに存在させることの苦労や責任を知ったことが大きい。
父は真面目で、大学を卒業してから一度も職場を変えなかった。勤続何十年なんて正直自分には考えられないけれど、父の時代はそれが当然だったし、保守的な性格も相まってその道以外を考え付かなかったのかもしれない。
母も父と一緒になって家事や仕事を頑張ってくれたことはよく知っている。
そのおかげで家庭は崩壊することなく、赤ん坊は大人になった。
お金がないと暮らせない。かと言ってお金だけでも暮らせない。必要なのは思いやりだ。
自分たちもそう。周囲の配慮もそう。家庭を持っている人なら必ずわかる感覚だろう。微妙なバランスの絡まり合いで家庭はできている。
そして大切なのはやっぱり命。命があるから今日この日を生きられる。
ところで親になって初めて抱く感情があるらしい。
「今日この子を死なせなかった私はエライ。」
父と母とどんな気持ちで家庭を守っていたか、想像するだけで苦しくなる。
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祖母の葬儀で父はどんな気持ちでいたのか分からない。涙の具体的な正体は分からない。
もちろん祖母との別れが素直に悲しかったんだろうと思う。でも、もしかしたらそれだけじゃない気がしている。
父も、私が父へ感じているように、祖母の苦労を思い返していたのかもしれない。
明るくなったり、暗くなったり、家庭はたくさんの出来事や感情が詰まってできているんだけど、やっぱり最終的には綺麗であって欲しいと思ってて、なんだかシャンデリアみたいだなって。
そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。