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靴は思い出

先日新しい靴を買った。

正確には「買った」というより、溜まったポイントを「消費した」の方が近い。というのは、年始に夫婦で買った喪服一式が結構な高額だったから、靴一足分くらいのポイントが付いてしまったのだ。

「ぼくは特に欲しいものがないから何でも買っていいよ」

夫がそう言うものだから、わたしの靴を新調することになった。

大学生のとき就職活動のために買った黒のパンプスを未だに履いていた。もう古くなっていて、そろそろ変えた方がいいなと思っていたから、有難かった。

こうして黒のパンプスは新しくなった。

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家に帰って、さっそく新しい靴を取り出し、使い込んだ靴と見比べた。

古い靴はだいぶ「使った感じ」が出ていた。

それもそうだろう、その靴を買ったのは大学3年生のとき。ちょうど就職活動を始めた時だった。今からもう9年くらい前?になるのかな。

就活のときも、転職のときも、ピシッとする場面ではいつも一緒に歩いていた。この子と一体いくつの会社をめぐっただろう。まるで相棒だ。

相棒を眺めて、ふと自身のキャリアについて考えた。

昨年取得した国家資格があって、本当は今、その業界でガンガン働いているはずだった。「本当は」って言ったくらいだから、今はそれが現実となっていない。

理由は端的に言うと、これまで抱いていたキャリアという考え方を捨てつつあるからだ。

これまでは、履歴書にブランクができないように意識してきたし、いつでも会社生活に復帰できるよう勉強もしてきた。安全な(と勝手に感じていた)組織に雇われることばっかり考えてきた。

でも、こんなキャリアの考え方ってなんか違うと感じるようになった。いつまで誰かに頼って雇われることを考えているんだろう?って。そろそろ自分で生み出してもいいんじゃないか?って。

自分で生み出した結果、どこかの組織と繋がることはあるのかもしれない。でも、最初から雇われるような生き方を目指すのは、自分に合わなくなってきているのでは?と。

こう考えるようになった一番大きな原因は、「湖畔に移住したこと」が影響している。

晴れの日にする庭いじり、畑いじりはどこまでも飽きずに打ち込める。愛する家族も半径数メートルの範囲で動いている。自然(nature)と家族は共通するものを持っていて、それは治癒力だと思う。特に心に対するアプローチが明確。

だから、なるたけこの「治癒力溢れるものたち」と時間を共にしたい、削りたくない。なんなら、これらをそのまま仕事にしてしまいたい、そう思っている。

心配性で安定志向が強い自分のことだから、いろいろ慎重になるんだろうけれど、少しずつ考え方が変わってきている。

古くなった靴を見て、キャリアに対する心の変化をたどった。

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古いパンプスはもう使わないから捨ててもいいかな、と思っていた。

けれどもしばらくはとっておくことにした。

キャリアに対する考え方が変わってきたとは言え、過去の自分を否定するつもりもないし、むしろ過去のクソ真面目でお堅い自分がいたから、今の自分があると思っている。たまに以前の考え方に戻ることだってある。

一生懸命悩みながら歩いた思い出の靴。汗水をたくさん吸った思い出の靴。

それはわたしの歴史そのものだ。

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。