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どんどん一人になれる銭湯

結婚する前の会社員時代、私は銭湯に惹かれて東京の下町で一人暮らしをしていた。

今思えば若気の至りとしか言いようがないのだけど、その頃母とうまく折り合いがつかず、とにかく実家を早々に出ることを考えていた。現在は実家が大好きであるし、家を継ぐ気持ちもあるし、母ともすっかり仲良くなり関係良好だ。若さの棘とは恐ろしい。

一人暮らしを検討したとき、当時勤めていた会社から近い場所がいいと考えた。付き合っていた彼(いまの夫)が暮らす地域とのアクセスがよいこともまた重要だった。

しかし、それと同じくらい重要視したのが「徒歩圏内に銭湯があるかないか」だった。

銭湯は自分にとって誰にも邪魔されず思考できる場だ。まさに神域。湯に浸かりながら、日頃脳内に蓄積された雑念が一気に浄化されていく。BGMは水の音と、たまに空間全体に響き渡るコンッというケロリンの桶の音。

湯気に包まれていくごとに、どんどん一人になれた。湯の中で一人になればなるほど、なぜか寂しさは消えていった。これこそが銭湯だった。

スーパー銭湯のように人が多すぎるでもなく、観光客で賑わうわけでもなく、ただ町の人を静かに潤す秘密の場所。

夜道を一人で歩く不安感よりも、銭湯に行けることの高揚感の方が圧倒的に優っていた。シャンプーやら石けんやらを詰め込んだ銭湯バッグを引っ提げて、私は何度も夜の町へ出かけていった。

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しばらくして町を離れるときが来た。

一軒の銭湯のご主人と親しくなっていた私は、お別れのタイミングで大きなわがままをひとつ聞いてもらえることになった。それは、銭湯でフォトウェディングをさせてもらうという内容だった。

もう5、6年前のことで記憶が曖昧になってきているが、とても暑い夏の日で、湯気のなか汗かきながら正装し撮影したのを覚えている。足元は裸足であたたかく、歩き慣れた銭湯のざらざらしたタイルの床を感じた。

また、先日観た映画『湯を沸かすほどの熱い愛』という作品のなかでは、銭湯が葬式に使われている場面があった。湯船にたくさんの花を浮かべて、そのうえに棺と遺影写真を設置して、訪れた人が銭湯でご焼香できるようになっていた。

映画とはいえとてもリアルだった。そして綺麗だった。亡くなったのが銭湯の女将さんだったということもあっただろうけれど、よく銭湯で葬式をやろうと監督は考え付いたなと思う。

こんな様々な使い方ができる銭湯の包容力みたいなものを感じた。

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本来銭湯は人が体を洗ったり、静かに心を落ち着けたり、人々が風呂ついでにささやかに交流を持つ場所だ。

けれども必ずしも銭湯は、第一の目的だけで使われるわけではないのだろう。結婚式場に代わり、葬式場に代わり、写真展会場や演奏会場に代わることだってある。変幻自在だ。

それでもやっぱり一番好きなのは、本来の銭湯であるなと思う。

多くは語らない町の人々に囲まれて湯に浸かり、湯気に包まれ、サラサラと流れる水の音が聞こえる。そんな空間で自分の本音が導かれる場所。これこそがやはり一番のお姿であろう。

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。