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狭さの心地よさ

先日、訳あって一人で二泊三日のホテル暮らしをした。旅行ではなく、ビジネスホテルに滞在しながら日常生活を送った感じだ。なぜそんなことになったのかはさておき、この生活が思いのほか快適で素晴らしかった。

特に空間の「狭さ」がとても心地よく感じたのである。普段、平屋のだだっぴろい古民家で暮らしていることもあり、狭いことの心地よさをすっかり忘れていた。二泊のホテル暮らしをして、東京のアパートで一人暮らしをしていた時のことを思い出した。

決して古民家暮らしが嫌いな訳ではないしむしろ好きだけれど、あまりにもホテルという狭い空間の居心地が良くて、将来のことを考えずにはいられなかった。私は数年後、数十年後、一体どんな場所で暮らしているだろうか。

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朝目覚めて蜘蛛の巣のないホテルの天井を見上げる。「天井に灰色のふわふわした物体がないってスッキリしてていいなあ」そんなことを考えながら、自宅の天井で蜘蛛の子が散らばっている様子を思い出す。

天井から目を離し、徒歩約五歩でトイレに行った。トイレは徒歩すぐでアクセス可能だ。そんな些細な事実でさえ喜ぶことが出来た。素晴らしい。

狭いところにいると、不思議と本を読みたくなった。ホテル近くの本屋で読みたい本を数冊買い漁り、一気読みした。久しぶりに心静かに腹の底まで集中して読書ができた。

夏の古民家暮らしは、永遠と生え続ける雑草(と近所の目)との戦いだ。人と植物が繰り広げる力比べをお楽しみください……なんて呑気なことは口が裂けても言えない。これは嘘でも誇張でもなく、夢でも鎌を持って草を刈っていることがしばしばある。一日が終わり布団に入り目をつむると、瞼にはよく伸びた草の残影がうつし出されるのだ。

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「狭い」ことの心地よさの根本には何があるのだろう。

すべての人に当てはまるとは限らないけれど、少なくとも自分は「責任感からの解放」と捉えることができた。それはまるで子供が事あるごとに親に泣きつくような、責任の所在を自分以外の何かに転嫁できる感覚に似ていた。

生命力という綺麗ごとでは済まない雑草、近所の目、メシ求ム家畜、そして虫。狭いホテル滞在は、例えばこれらからの解放を意味していた。すなわち自由、フリーダムである。

「今は楽しいんだけど、老後のことを考えると悩んじゃうよねえ」

こう語るのは同じく地方で田舎暮らしをしているお姉さん。まだ40代だから体力もあってガーデンや日々の暮らしが楽しいけれど、老後のことを考えると土地の売却なども頭をよぎるという。

お姉さんに共感できるのは、楽しい!とツライ!が共存しているということだ。

確かに田舎暮らしでしか経験できないことはあるし、ここ数年でワイルドな環境で生き残るスキルやメンタルは格段にアップしたと思う。自然環境の面白さに触れて、楽しい!と思うこともたくさんある。

一方で久しぶりに私を見た友人たちは口を揃えて「しっかりしたね」と言う。その「しっかり」の背景には、何重ものツライ!が存在している。

束の間のホテル暮らし。私はあらゆる責任感から解放されて、体重までもが軽くなった気がした。サラサラした真っ白なシーツがかかったベットの上で、体をくねらせて喜びを堪能した。

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二泊三日のホテル暮らしに満足した私は再び古民家へと帰っていった。そこには変わらず厄介で面倒で豊かな自然があった。

長靴を履いて軍手をつけて草を刈り、ヤギさんにご飯を与える日々がまた始まろうとしている。体には蚊の跡がいっぱい。今年の蚊取線香は金鳥か、フマキラーか、アースか、どれにしようかな。

そのとき必要なことに必要な分だけ、ありがたく使わせていただきます。