78.「いまここ」で無心になれば生きるのが楽になる
人は、無心になることができると、潜在意識や超意識との繋がりがよくなります。
人の意識は、顕在意識、潜在意識、超意識で成り立っています。
しかも、人の顕在意識は全意識の僅か10%といわれています。
普段、我々が生活で使っている意識は顕在意識であり、意識の内のほんの一部しか使っていないということになります。
潜在意識は、我々一人ひとりが持っている習慣や思い込みを自動的に処理してくれているほか、意識しなくても身体を維持してくれていたり、身体の不具合などを顕在意識に上げてくれていたりします。
超意識は、人類が誰しも持っている共通の意識(集合的無意識)であり、その一つにワンネスの意識があったりします。
実をいうと、人が普段使っている顕在意識が、潜在意識や超意識の通りを悪くしていたりします。
顕在意識の多くは判断に使われていることが多く、そういった判断はの多くは思い込みでつくられています。
例えば、「あること」がAという国ではOKなのに、Bという国ではNGということがあったりしますが、それは風習として認められているかどうかの違いであり、人間の本質といった視点で見ると、その「あること」がいいか悪いかには正解がなかったりします。
僕は、日本という国で生まれ育っているため、豚肉を食べることに抵抗はありませんが、仮に僕が豚肉を食べること禁止している国で生まれ育ったなら、豚肉を食べることに抵抗を持っているはずです。
こういった風習や幼い頃から自然に培ってきた習慣が、人の生活の中に多く根付いているものだし、それが判断を下す材料となって顕在意識の大部分を占めているといっていいでしょう。
このため、こういった顕在意識が人が持っている潜在意識や超意識に蓋をしているということができます。
もし豚肉を食べることに喜びを感じるのであれば食べればいいし、豚肉を食べることで体調を悪くするのであれば、無理をして食べる必要はありません。
物事のほとんどは、中立であって良い面と悪い面の両方を持っていたりします。
しかし、何かしらの理由で刷り込まれている思考が中立的な考えを塞いでしまい、それが結果として人を頑なにしているといっていいでしょう。
こういった頑な意識のほとんどは顕在意識に含まれているものであり、自我は、こういった顕在意識によって創られているということができます。
とはいえ、人はある瞬間にこういった自我というべき顕在意識を手放すことができたりします。
それが「いまここ」の状態になる瞬間であり、「無心」になる瞬間ということができます。
瞑想をするとき、よく思考を手放しましょうといわれたりしますが、その理由は、思考を手放すことができると、自分が生まれながらに持っている潜在意識や超意識との繋がりがよくなっていくからです。
思考とは、自我が創り出す顕在意識のことです。
つまり、我々の思考(自我・顕在意識)が、生まれながらに持っている潜在的な可能性に蓋をしてしまい、自由な発想を奪ってしまっているということができます。
しかし、たとえそれが短い瞬間であったとしても、一時的に顕在意識である思考を手放すことができると、自らの潜在意識や超意識から直観という形で氣づきを得られるようになるものであり、そういった氣づきが人の成長を促がしたりします。
こういった理由から、人が無心になると喜びや心地よさを感じられるようになると考えられます。
何かを夢中でしているときは、自我という顕在意識を外すことができるようになったりします。
今の今に集中している瞬間に、善し悪しはありません。
料理をしている最中に豚肉の善し悪しはそこには存在しません。
豚肉もじゃが芋も人参も玉葱も料理の材料の一つでしかありません。
今の今に集中するということは、料理という行為と自分が一つになることであり、料理と自分が一体となったとき、ちょっとした閃きが浮かんできたりするものです。
こういった閃きは、無心になることで自我である顕在意識の蓋を取ることができ、潜在意識や超意識からの情報を得られたという証です。
以前、ネドじゅんさんの呼吸法について記事として取り上げさせてもらいましたが、ネドじゅんは動画の中で、自分の自我はとても小さいということを話されています。
ネドじゅんさんの自我がどれくらい小さいかというと、ガンダムを人に例えると、その操縦席に座っている人くらいの大きさだと語っています。
我々は自分のことを考えたとき、自分とはからだ全体と考えるものであり、自我は身体全体にあると考えがちです。
しかし、ネドじゅんさんは自分の自我は身体全体の中のほんの僅かな大きさしかないというのです。
つまり、ネドじゅんさんの自我は非常に小さいため、潜在意識や超意識の繋がり非常によくなっているということができます。
ネドさんは、ご自身で生み出した呼吸法で左脳のおしゃべりである自動思考が止まったと語っています。
左脳のおしゃべりである自動思考とは、まさに自我によるおしゃべりであり、顕在意識の善し悪しを判断するある意味で偏りのある思考です。
しかし、この顕在意識である自我を小さくすることで、ほぼ無心の状態になることができ、普段使っていない90%の意識を使えるようになってるといえるでしょう。
しかも、善し悪しを判断する自我を小さくすることで、生きることそのものが非常に楽になっているともいえます。
善し悪しを決めるということは、苦しさを生む原因になります。
例えば、成功することを善しとして、「成功しなければならない」と強く思い込んだりすると、失敗することに怖れを感じたり、何かに失敗したときなどに自分を責めたりしてしまいます。
しかし、どんな物事も中立であり、本来は成功しても失敗してもどちらでもよかったりするものです。
つまり、人が持つ「ねばならない」的な思考を手放すことができると、非常に楽に生きていけるようになるものです。
「善し悪し」や「ねばならない」を決めるのは人の自我であり顕在意識です。
しかし、こういった自我や顕在意識を小さくすることができれば、人は楽に生きていけるようになります。
しかも、自我や顕在意識を小さくすることができると、潜在意識や超意識といった人が生れ持った叡智を使えるようになるため、人生そのものがスムーズに運んでいくようになっていきます。
そこで、我々が人生を楽にスムーズに運んでいけるようにするための方法として、「いまここ」の状態になって「無心」で生きるということが上げられます。
「いまここ」の状態になって「無心」で生きるということは、自我の判断を手放すということであり、潜在意識や超意識の繋がりをよくしていくという生き方です。
前回の記事でも書きましたが、「いまここ」の状態になることができれば、心地よさを感じられるようになるものであり、そういった心地よさを常時感じられて生きていけるようになると、「いまここ」になれることだけがあればいいというふうに思えるようになるため、非常に楽に生きていけるようになっていきます。
また、自分が「いまここ」になれることを優先して生きていけるようになると、必要なものや不要なもの仕分けができるようになっていくため、余計なことを考える必要がなくなっていきます。
さらに、余計なことを考える必要がなくなっていけばいくほど、自分の自我は小さくなっていくため、ますます潜在意識や顕在意識との繋がりがよくなっていくものです。
秦基博さんの「鱗」という歌の歌詞に、「鱗のように身に纏ったものはものは捨てて、泳いでいけ君のもとへ、君のもとへ」という歌詞がありますが、我々は人生の中で、無意識の内に不要な観念を鱗のように身に纏っていたりします。
しかし、無意識の内に身に纏った鱗のような不要なものを捨てていくことができるようになると、人は潜在意識や超意識とアクセスできるようになって、超意識である「君のもとへ」とたどり着くことができるようになっていきます。
こういった状態になるためにも、出来る限り「いまここ」になれる時間を生み出して、無心になれる状況を普段の生活に取り入れていくといいのではないかと思います。
人は、自らが生み出した制限を外していけばいくほど、楽に自由に生きていけるようになります。
社会は制限を生み出すものですが、それを採用するかどうかは自分で決めることができます。
もちろん、守らなければならない義務もありますが、そういった義務は自分の内に秘めた可能性に比べたら微々たるものでしかありません。
我々は無限の可能性を持っている、それを教えてくれるのが潜在意識や超意識であり、こういった潜在意識や超意識とアクセスできるようになると、生きることが非常に楽になっていくことでしょう。
そういった意味でも、普段から「いまここ」で無心になって生きる習慣を身に付けることができると、スムーズな人生を歩めるようになって、楽に楽しんで生きていけるようになるのではないかと思います。
そして、一人でも多くの人が、スムーズな人生を歩めるようになって、楽に楽しんで生きていけるようになることができれば、この世界はますます平和になっていくのではないかと思います。
「いまここ」で無心になれば生きるのが楽になる。
これからは、自分の中にある叡智と繋がって楽に生きていく時代になると思います。