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第86回:丁寧に「喜び」を創って生きる

今回は、丁寧に「喜び」を創って生きる、ということを書いていきます。

昨日、「丁寧さ」という魔法をかける、という記事を書いて、私が「丁寧さ」というフェーズに入ったんだと気づくことが出来ました。

これまでのnoteの活動は、どちらかというと勢いでやってきた感がありましたが、これからは「丁寧さ」を意識してやっていきたいと思います。

では、具体的にどのように丁寧にやっていけばいいかというと「味わう」とことだと思います。

「味わう」という言葉を、仏教用語にすると「三昧」という言葉に言い換えることができます。

「三昧」の言葉の意味をネットで引くと、次のような内容が出てきました。

心を一つの対象に集中して動揺しない状態。 雑念を去り没入することによって、対象が正しくとらえられるとする。

そこで、これからは意識して「心を一つの対象に集中して動揺しない状態」の中で、「雑念を去り没入すること」で「喜び」を創っていきたいと思います。

「エネルギー」をどう使うかで生き方が変わる

上の引用の「心を一つの対象に集中して動揺しない状態」や「雑念を去り没入すること」を、「エネルギーを集約させる」と言い換えてもいいかもしれません。

たとえば、意識が散漫な状態だと、エネルギーも散漫になってしまうものです。

エネルギーが散漫だったりすると、それは表層だけをなぞっているという状態になるため、実体験が薄くなるものであり、実体験が薄いということは「喜び」の実感も薄くなるということになります。

そこで、「喜び」の実感を得られるようにするためにも、生活のひとつ一つの作業にエネルギーを注いていきます。

私たちの生活は習慣で成り立っていることから、日常の大部分を無意識で行うことも可能です。

無意識で出来てしまうということは、生活が効率化されることでもあるため非常に便利でもありますが、効率化だけで生活していると生き方そのものが表層をなぞっているだけになってしまい、「ただしている」ということになり味わうことが出来なくなってしまいます。

「効率化」は量を生み出すことが出来るため、短い時間でたくさんのことが出来るようになるし、積み上げられた量から達成感を得ることができたりします。

しかし、「効率化」ばかりに偏ると質の部分が希薄になっていったりします。

もちろん、「効率化」を図って量を生み出すことが悪いことではありません。

なぜかというと量をこなすことで、比較的短い時間で技術を向上させることが出来るからです。

しかし、量ばかり追い求めていると「飽き」がやって来ることになります。

量は同じ事を繰り返すことで達成されるため、できるだけ同じようなことを繰り返した方が効率的です。

このため量は「違い」を嫌います。

その一方で、質は「違い」を生むものです。

量と質の違いが何かというと、エネルギーのかけ方の違いといっていいでしょう。

量はAとBとCに均一さを求めます。

質はAとBとCに違いを求めます。

AとBとCに違いがあるからこそ、面白さを感じられたりするものです。

今の社会の経済は量です。

芸術の世界は質です。

芸術は作品の一つひとつにエネルギーのかけ方が異なるものです。

人は質と量の両方の側面を持っていきています。

そして、それをどのように配分していくかは、その人その人の心持ちで変わってくるものです。

縄文式土器と弥生式土器

私は歴史に詳しいわけではないので、これから書くことは私の想像が含まれています。

縄文土器と弥生式土器をイメージすると、縄文土器は「造形美」であり弥生式土器は「機能美」だと思います。

では、どうして縄文土器の「造形美」から弥生式土器の「機能美」へと変わったかというと、社会が質より量へ変化したからだと考えます。

縄文時代の狩猟採取の生活から弥生時代の稲作中心の生活の変化が、時間的余裕を奪うことになります。

この時間的余裕のなさが、土器を「造形美」から「機能美」へと変えていったと想像させるのです。

「造形美」は装飾によって生まれます。

装飾とは、必要な機能以外のものなので、いわば「遊び」です。

そこで、縄文時代の人は装飾を施すことができるという「遊び」の時間があったと考えることができるのです。

しかし、縄文から弥生へと生活が変化することによって、時間的な余裕が奪われ、土器に装飾を付けることが出来なくなってしまったと想像するのです。

次の二つの引用は、狩猟採取と縄文時代の労働時間について検索したものです。

人類学者マーシャル・サーリンズは、狩猟採集民の労働時間は1日あたり4時間程度(狩猟採集などに2時間、道具の管理などに2時間)にすぎないことを明らかにした。あとは自由に好き勝手に生きているのである。サーリンズは、狩猟採集社会の生活は、私たちの想像以上に(精神的な意味で)豊かであることを示し、狩猟採集社会のイメージに大きな変化をもたらしたのである。

東洋経済ONLINE
https://toyokeizai.net/articles/-/464975?page=3

一説には縄文時代は1日4時間程度の労働だったといいます。現代社会では労働のために日々の日常を味わえなくなっている人もいますが、当時は今と比べたらだいぶゆったりとした時間が流れていたようです。
もっとも当時は労働という観念はおそらく希薄で、食べ物を獲りに森に行く、面白い形を思いついたから土偶を作るなど、目的と行動が直結していたのだと思います。また、祭りや通過儀礼、食べ物への感謝・死者への弔いの儀式に多くの時間を割いていたようです。

山梨の縄文遺跡から知る、縄文時代という長大安定期
https://www.yamanashibank.co.jp/fuji_note/culture/jyomon-jidai.html


次の2つの引用は、弥生時代やコメ作りについてです。

渡来した弥生文化人集団も少人数でやって来ましたので、水田の整備や灌漑(かんがい)設備工事、そしてもちろん手のかかる稲作作業を現地の縄文人に手伝わせたことでしょう。

歴史人
https://www.rekishijin.com/21499

「米」という字は「八十八」という文字からつくられたといわれています。お米ができるまでには88回もの手間がかかる、という意味です。

HIBARI
https://farmex.tokyo/907/

残念ながら弥生時代の人たちの労働時間についての記事を見つけることはできませんでしたが、稲作は手間と暇が掛かるものであり、狩猟採取の頃に比べると、労働時間が長かったと考えることができます。

いずれにせよ、造形を楽しむには時間が必要であり、ひとつ一つの「違い」という「質」を生み出すには時間が必要になるものであり、土器の違いから縄文と弥生の人の生き方の違いを感じ取ることができます。

最近、ライスワークとライフワークという言葉を見かけますが、縄文時代から弥生時代に変わるあたりから「ライフ」が「ライス」に変わったように思います。

つまり、弥生時代を期に生活が質から量へと変わっていったのです。

「喜び」が「アクセント」になる

人の心理として「量」を満喫し終えると、意識は「質」に向かって行くのかもしれません。

量の達成感が質の達成感へと変化していくのです。

個人差があるとはいえ、人が一日に仕えるエネルギーの量は決まってくるものです。

このため、質を上げようとすると量を減らさなければなりません。

また、質を上げるということは、先述した通り「違い」を生むことであるため、エネルギーの使い方もその都度変えなければならなくなるため、ひとつ一つに丁寧さという気遣いが必要になります。

こういった丁寧さという気遣いは、大変さを感じさせる反面、「喜び」を生むものであり、「量」で身に付けた技術をさらに向上させることにもなります。

「丁寧さ」と「集中力」、「技術」は同じ意味と考えてもいいかもしれない。

どんなことでも高い集中力と技術で丁寧に行われたものは、そこにエネルギーが集約されるから重力を生み出すことになる。

これは、昨日、私が書いた記事の一文ですが、エネルギーを集約させることで、「喜び」を感じることが出来たりするものなのです。

「喜び」を感じることが出来ることは、生活にアクセントをつけることになります。

アクセントの意味は「強調・重点・力点」であるため、「喜び」があると生活にアクセントをもたらすことができるようになるものです。

「重力」がある場所に、意識は自然と向かって行くものであるため、「喜び」の感情は「重力」になると考えることもできるでしょう。

「喜び」の質を「丁寧さ」で上げていく

人の根本的な欲求は「幸せ」になることです。

「幸せ」になるためには、日々、「喜び」を感じていたいと思うものです。

「喜び」の対象は、人それぞれであり千差万別です。

しかし「喜び」の対象は千差万別であったとしても、「喜び」の「質」を向上させていきたいという思いは共通するものだったりします。

そこで、この「喜び」の質を向上させるツールが「丁寧さ」といってもいいかもしれません。

「丁寧さ」は、現在がどんな生活環境であったとしても、気持ち次第で生み出すことができるものです。

そして、丁寧に生きていけばいくほど生活の質は向上していくものであり、丁寧さから新たな気づきが生まれてくるものです。

こういった「丁寧さ」から生まれてくるのが「三昧」になります。

先ほどの「三昧」の引用を再掲します

心を一つの対象に集中して動揺しない状態。 雑念を去り没入することによって、対象が正しくとらえられるとする。

この引用の「心を一つの対象に集中して動揺しない状態」が「喜び」であり、「雑念を去り没入すること」が「丁寧さ」であり、「対象が正しくとらえられる」というのが「気づき」といっていいでしょう。

私たちが、「喜び」の質を「丁寧さ」で向上させていけるようになると、「気づき」という新たな「喜び」を得られるようになっていきます。

「幸せ」はこういった「喜び」の「質」を磨き上げていくことで生まれてくるものなのかもしれません。

そういった意味でも、私たちが持っているエネルギーを上手に使えるようになると、「幸せ」の質を上げていくことが可能になるといえるでしょう。

私たちが目指す世界は、縄文の人たちのような時間的豊かさの中で、創造を「喜び」で味わっていくことです。

縄文から弥生が「ライフ」から「ライス」の分岐点であるならば、これから「令和」をひとつの分岐点にして私たちの力で「ライス」から「ライフ」へと変えていく時かもしれません。


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