(9)『可愛い女』―作者から愛された主人公―
『可愛い女』(1899)は、チェーホフの短編小説の中では、三本の指に入るくらいに非常によく知られた作品である。
久しぶりに読んだ『可愛い女』は、なぜか、以前ほどの感銘をもたらさなかった。
主人公の人物像や物語のあらすじが、私も含めたチェーホフのファンにとってあまりに有名なものであるので、それらをもはや虚心に味わうことができなくなってしまったようだ。
逆に言えば、この作品に初めて接する読者は、主人公のオーレンカに対する愛着の念や強い同情の思いに導かれるように読むことで、この人物の運命の変転に大きく心を動かされることだろう。
というわけで、この文章を読まれる方で『可愛い女』を未読であり、これから読む可能性のある方もおられると思うので、ここでは物語のあらすじにはできるだけ触れないことにする。
オーレンカは「しょっちゅう誰かしら好きで堪らない人があって、それがないではいられない」女である。若い頃から、物静かで、気立てがやさしく情け深く、柔和なおだやかな眸(ひとみ)をして、はち切れんばかりに健康な、男も女も文句なく「可愛い」と思わせずにはいない娘であった。ひとたび結婚すれば、夫に対して無償の愛を捧げ、夫の意見や人生観がそのまま自分の信念と化してしまうような「尽くす女」の典型である。
その反面、愛情を捧げるべき対象を奪われると、いっさいが無に帰し、話すことも、考えるべきことも何も見えなくなってしまう。
愛する人を失い、一人ぼっちになった彼女は、「何を思うでも何を求めるでもなく唯ぼんやりしていて」、食べるのも飲むのも「厭々やっているような様子」である。
が、中でも一ばん始末の悪かったのは、彼女にもう意見というものが一つもないことであった。彼女の眼には身の回りにある物のすがたが映りもし、まわりで起ることが一々会得もできるのだったが、しかも何事につけても意見を組立てることが出来ず、なんの話をしたものやら、てんで見当がつかなかった。ところでこの何一つ意見がないというのは、なんという怖ろしいことだろう! 例えば壜(びん)の立っているところ、雨の降っているところ、または百姓が荷馬車に乗って行くところを目にしても、その壜なり雨なり百姓なりがなんのためにあるのやら、それにどんな意味があるのやら、それが言えず、仮に千ルーブリやると言われたってなんの返事もできないに違いない。……(神西清訳)
以前、チェーホフの女性観を垣間見ることができる作品として『アリアドナ』をとりあげた。
アリアドナにとっては、男は、愛の対象であるよりも、むしろ自分の「女としての価値」を測る「器」であった。
愛情深いオーレンカと軽薄なアリアドナは、一見、対極的な女性像に思えるが、実は二人は根源的な共通点を持つ。それは、男という他者に依存しなければ自分の存在意義を確認できない、自立できない女性であるという点である。
(念のために補足すれば、チェーホフが描く女性像は多様であり、それらの中には『中二階のある家』(1896年)の主人公と対立するリーダのように、男にまったく依存しない自立的な女性も存在する。)
ところで、アリアドナとオーレンカとの間で決定的に異なるのは、(当然といえば当然であるが)これらの二人のヒロインに対する読者の眼差しである。
アリアドナに対して多くの読者はおそれや軽蔑や嫌悪を感じるであろう。一方で、それらの読者は、オーレンカに対しては、最初に触れたように、温かな愛着や同情の思いを抱くに違いない。
度々で恐縮だが、以前投稿した別のエッセーで、「チェーホフにとって、読者の共感を導くに値するような肯定的な人物像を生み出すことは、困難な仕事だったであろう」と書いた。
チェーホフはオーレンカを肯定しようとしたのだろうか? 言い換えれば、オーレンカに対して読者が抱く愛着や同情は、作者がそのように意図した結果なのであろうか?
これも有名な話であるが、トルストイは、チェーホフの作品の中でもとりわけ『可愛い女』を絶賛し、自ら四回も朗読し、そのたびに感動したという逸話が知られている。
そのトルストイは、この作品について「詩の神がチェーホフの才能に反逆して、呪おうとしたものを祝福してしまった」と評したとされる(池田健太郎『チェーホフの仕事部屋』)新潮選書 1980)。
つまり、チェーホフの本来の意図は、オーレンカという存在の不完全や弱さを、嘆き、あるいはからかうものであったという解釈である。
しかし実際には、チェーホフは、自ら創造したオーレンカという人物像を、直接的には肯定も否定もせず、ましてや「呪い」も「祝福」もしていない。
前回とりあげた『イオーヌィチ』と同様に、『可愛い女』においても、物語は、あるがままの事実として淡々と展開されるにすぎず、作者自身の思想や感慨が前面に現れることはない。
にもかかわらず、多くの読者がオーレンカに対して愛着や共感を抱くとすれば、それは、物語の背後で主人公に対して穏やかな愛情を注いでいる作者の姿が厳然と存在するからではないだろうか。
「作者の愛情」を動機づけるものは、愚かさや弱さをも内包したオーレンカの「美しさ」であろう。
そして、そのような主人公の美しさは、それまでチェーホフが生み出してきた多くの作品には見られなかったものである。
はかないながらも美しいと思える人物の造形が成し遂げられたということ、まさにそこに『可愛い女』の重要な意義があるように思うのだ。
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