見出し画像

(8)『イオーヌィチ』―すれ違う想い―

『イオーヌィチ』(1898)は、完成度の高い、まさに珠玉の短編である。
以下、少し長くなるが、本文からの引用もはさみながら、あらすじを紹介する。

舞台は地方の県庁所在地であるS市、主人公は同市の近郊の病院に郡会医として赴任してきたドミートリー・イオーヌィチ・スタールツェフである。
スタールツェフは、S市で「もっとも教養あり才能ある家庭」として評判の高いトゥールキン一家と交際するようになり、その家のピアノの得意な一人娘エカテリーナ・イワーノヴナに恋をする。

スタールツェフは繁々とトゥールキン家に通い、エカテリーナ・イワーノヴナに想いを伝えようとするが、エカテリーナは素っ気ない。
ある時、エカテリーナは言い寄るスタールツェフに「今晩十一時に墓地の記念碑においでなさい」という書付けを渡す。スタールツェフは、無駄足を覚悟しつつも、町はずれの遥か郊外にある墓地までわざわざ出向いて行って真夜中まで待つが、やはり待ち人は来ない。

エカテリーナは、最初に登場する場面で、「瘠せぎすの愛くるしい」十八になる娘と紹介される。「その表情はまだ子供子供していて、腰つきもほっそりと華奢(きゃしゃ)だったが、いかにも処女(おとめ)らしいすでにふっくらと発達した胸は、美しく健康そうで、青春を、まぎれもない青春を物語っていた。」父や母からは「猫ちゃん」と呼ばれている。

一方で、スタールツェフについては、作者の筆はなぜか簡潔を極めていて、年齢も外貌もほとんど記していない。(新任の郡会医ということなので、赴任当時の歳は、若くて三十台だろうか?)
容貌については、真夜中の墓地から帰ろうとして、暗闇の中、町はずれに停めた馬車を苦労して探し回り、ようやくたどり着いた際に『やれやれ、肥りたくはないものだ!』という感慨を漏らしているところから、すでに若くして肥満気味であることがうかがえるくらいである。

翌日スタールツェフが「えらい眼に逢いました」と相手の意地悪をなじると、エカテリーナは「たんとそんな眼にお逢いなさるがいいわ、冗談の分からないような方は」とご満悦である。
その同じ日、町の倶楽部で行われた舞踏会で、スタールツェフは、とうとうエカテリーナに結婚を申し込むが、エカテリーナは「堪忍してくださいね。あなたのお申し出は有難いし、あなたを尊敬しているが、あなたの奥さんにはなれません」と拒む。

「ねえドミートリー・イオーヌィチ、あなたもご存じのとおり、わたしは世の中で何よりも芸術を愛していますの。わたしは音楽を気ちがいのように愛して、いいえ崇拝していて、自分の一生をそれに捧げてしまいましたの。わたしは音楽家になりたいの、わたしは名声や成功や自由が欲しいんですの。それをあなたは、わたしにやっぱりこの町に住んで、このままずるずるとこの空虚で役にも立たない、もうわたしには我慢のできなくなっている生活を、つづけろと仰しゃるんですわ。妻になるなんて――おおいやだ、真平ですわ! 人間というものは、高尚な輝かしい目的に向かって進んで行かなければならないのに、家庭生活はわたしを永久に縛りつけてしまうにきまってますわ。……」(神西清訳。以下同じ)

スタールツェフは、失恋のショックでしばらく茫然自失となるが、やがてエカテリーナが音楽学校に入るためにモスクワへ出発したと聞くと、平静を取り戻し、元の生活に戻る。
ここまでが、一年間ほどの話である。

四年が経過する。
スタールツェフの仕事は繁盛し、毎日、病院と町への往診で忙しい。
「彼はでっぷり肥って来て、おまけに喘息もちになったので、歩くのが億劫でならなかった」と容貌の変化が強調される。
町の知り合いは大勢増えたが、だれひとりとも親しい交際は行わず、いつもむっつり黙り込んでいるので「高慢ちきなポーランド人」いうあだ名がついている。
彼の楽しみは、毎晩、倶楽部でヴイント(カードゲーム)をすることと、診察で稼いだ紙幣をポケットから引っ張り出して眺めることで、それがまとまった額になると信用組合の当座預金に振り込むのである。

ある日、トゥールキン家から夫人の誕生日祝いの招待の手紙を受け取り、スタールツェフが久しぶりに同家を訪問すると、エカテリーナが家に帰っている。
エカテリーナは、「前よりも瘠せて、顔の色つやが落ち、それと同時に器量も上がれば、姿もよくなっていた」が、もはや以前の新鮮さや子供子供した表情はなく、「遠慮がちなおどおどした様子」である。
スタールツェフは「いま見てもこの人が好きになれる」と思う一方で、今では彼女に「何か足りないもの、さもなければ何か余計なもの」があるように感じられて、もはや以前のような感情を抱くことができない。

エカテリーナの方は、しきりにスタールツェフと話がしたそうなそぶりを見せ、彼を庭に誘い出す。
エカテリーナと二人きりで庭のベンチに腰を下ろすと、スタールツェフは、過ぎし日々の恋を思い出し、胸の中で小さな火が燃え始める。
彼女から「いかがお暮しですの?」とたずねられ、スタールツェフは、昼も夜も「何の感銘もなく、何の想念もなく」過ぎてゆくと、自分の人生を呪ってみせる。「昼のうちは儲け仕事、晩になると倶楽部がよい、お付き合いの相手と来たらカルタ気ちがいか、アルコール中毒か、ぜいぜい声の痰もち先生か、とにかく鼻持ちならぬ連中ばかり。何のいいことがあるもんですか?」
それに対してエカテリーナは、「あなたにはお仕事が、生活の高尚な目的がおありですわ」と応じ、一方で自分はかつて大ピアニストのつもりだったが、今ではとり立てて才能がなかったことを思い知ったと告げる。

「あの時のわたしはあなたという方が分かりませんでしたけれど、その後モスクヷへ行ってからは、よくあなたのことを考えるようになりましたの。じつはあなたのことばかり考えておりましたの。本当に何という幸福でしょう、郡会のお医者さんにになって、お気の毒な人たちを助けたり、民衆に奉仕したりするのは。まったく何という幸福でしょう!」とエカテリーナ・イヷ―ノヴナは夢中になって繰り返した。「わたしモスクヷであなたのことを考えるたびに、とてももう理想的な、けだかい方に思えて……」

明らかにエカテリーナはスタールツェフにもう一度プロポーズしてほしそうである。しかし、スタールツェフは、エカテリーナの言葉を聞きながら、自分が毎晩ポケットから引っ張り出すお札のことを思い出すと、胸の小さな火も消えてしまう。
そして、心の中で『よかったなあ、あのとき貰っちまわないで』と思うのである。

その三日後にも、スタールツェフはエカテリーナから招待の手紙を受け取るが、訪問を先延ばしにしてうやむやにし、結局二度とトゥールキン家の敷居をまたぐことがない。

それからまた数年が過ぎ去る。
「スタールツェフはますますふとって脂ぎってきたので、ふうふう息をつきながら、今では頭をぐいとうしろへ反らして歩いている。」
彼の商売はますます繁盛し、息つく暇もないほど往診先の数も増え、「領地もあれば、町には持家が二軒もあるという豪勢ぶり」である。用事が山ほどあって忙しいくせに、欲にとりつかれて郡会医の椅子も手放さない。今や彼は町の名士で、どこでも簡単に「イオーヌィチ」と呼ばれている。性格も、すっかり気難しく、癇癪もちに変わってしまった。
「彼は孤独である。来る日も来る日も退屈で、彼の興味をひくものは何ひとつない。」

そして、エカテリーナは……

さて猫ちゃんは、ピアノを毎日毎日四時間ずつも弾いている。彼女は目立って年をとって、ちょいちょい病気をするようになって、秋になるときまってクリミヤへ母親と一緒に出掛けてゆく。

そして、停車場で、涙をぬぐって二人を見送るトゥールキン家の主人の描写で、小説が終わる。

実に、非の打ちどころのない、見事な構成だ。

この作品では、スタールツェフ(イオーヌィチ)とエカテリーナ(猫ちゃん)の二人の変化に焦点が当てられている。

スタールツェフは、肥満の度合いが高まるにつれ、その偏屈さと欲の固まりもますます膨れ上がり、醜く変貌を遂げていく。
一方で、若く健康で、青春を謳歌していたエカテリーナは、しだいに生気を失い、しおれていく。
時の経過とともに二人が移ろっていく様子は、切なく、もの悲しく、滑稽で、残酷でもある。

二人の互いに対する想いも、移ろい、すれ違い、離れていく。
この作品は、読者に「人の想いは、移ろい、すれ違うのが常である」という現実を突きつけているように感じられる。

考えてみれば、もともと他人どうしの男女の間で、両方の気持ちの歯車が同時にかっちりとかみ合うなど、奇跡に近いことなのかもしれない。
仮にそのような奇跡が起こったとしても、その一瞬の幸福は、決して永続するものではない(そんな物語は、すでに、作者がいくつも書いている)。
スタールツェフにもそれが分かっている。だからこそ、彼は、「よかったなあ、あのとき貰っちまわないで」と思うのである。

しかし、たとえかりそめの幸福であるとしても、その一瞬の幸福をもし共有できたとすれば、二人の人生はこれほどにも味気なく、わびしいものではなく、より良いものとなり得たに違いない。
読者はそんな余韻にひたるのである。

この作品は、技巧的にもすばらしい。

たとえば、反復(=トゥールキン家の人びとはしだいに老いていくが、客をもてなす作法は十年一日のように変わらない。)や相似(=スタールツェフが太るにつれ、彼のお抱えの御者のパンテレイモンも同じように太っていく。)といった技巧が効果的に用いられる。

スタールツェフの年齢や容貌のディテールがことごとく捨象されていることも、肥満という特徴をより際立たせ、印象付けるための「技巧」であったのかもしれない。

何よりも、この作品にはいっさいの「作為」が感じられず、読者は描かれた世界をあるがままの現実として受け止める。作者自身が、ほぼ完全に姿を消しているのだ。

『イオーヌィチ』は、チェーホフにとって、ひとつの到達点と言えるものではないだろうか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?