「死ぬ権利」ではなく……
今年の7月、京都市内の筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者に対する嘱託殺人容疑で医師2人が逮捕される事件が起き、マスコミで大きく取り上げられた。
女性患者(ここではYさんと呼ぶ。)は、SNSで知り合った医師らを自宅に招き、医師らから薬物の投与を受けて「安楽死」を遂げた。医師の口座には事前にYさんから150万円前後が振り込まれていたことも報じられている。
容疑者らは京都地検によって起訴され、京都地裁で公判手続きが開始されている。
患者本人からの依頼に応えたとはいえ、違法性を十分知りつつ、報酬を得てYさんの殺害に関与した2名の医師は厳罰に処すべきだ。
医師らの行為の違法性の問題にとどまらず、今回の事件に対しては、医療関係者やALSの関連団体等から強い懸念が表明されている。
Yさんがとった選択が、安楽死を肯定する意識の広がりや、難病患者を生きづらくさせる社会的圧力の形成につながるのではないか、という観点からの懸念である。
「胃ろう」による栄養補給の継続や人工呼吸器の装着が必要となっても、家族や周囲の助けを借りながら積極的に「生きよう」とするALS患者の決意を萎縮させてしまいかねない、ということなのだろう。
もっともな懸念であると思う。
「もっともだ」と思いながら、どこか引っかかる。
仮に、Yさんの行動が、他のALS患者やその家族の「生死にかかわる判断」に影響を与えるという理由で好ましくなかったとされるならば、Yさんは他の患者やその家族に「そんたく」しなければならなかったということだろうか?
そんなことはあってはならない。Yさんの人生、命は、Yさんのものであって、ほかの誰のものでもないからだ。
今回の事件をめぐっては、難病患者に「死の権利」はあるか否か、という議論もなされている。
例えば、『日本経済新聞』11月5日付特集記事は、3人の有識者の見解を掲載している。
日本尊厳死協会理事長の岩男総一郎氏によれば、同協会は、原則的に「憲法で保障している個人の尊重や、生命、自由および幸福を追求する「権利」の中に「死の権利」もある」という立場をとる。
一方、日本ALS協会相談役で自身がALS患者である橋本操氏は、「死ぬ権利はない。勝手に生まれたわけではないから。家族や友人など支えてくれる周りの人たちもいる。私たちは社会の中の一人として生きている」と言う。
しかし私は、命の最後の瞬間に関わる選択の問題に、権利とか義務といった窮屈な議論はおよそそぐわないと感じる。
同特集記事においても、3人目の識者である会田薫子氏(東京大学大学院特任教授)は、
「世界で初めて安楽死を合法化したオランダのように「死の権利」を確立すると、医師が「死なせる義務」を負うことも理解すべきだ」
と指摘する。
会田氏は次のようにも述べる。
医療は何のために行うのか。患者の幸せに貢献するためだ。逆行することが明白になったら、その医療行為の終了も選択肢になる。本人のために終了した結果、死亡するのはそもそもの身体状態の悪化によるものだ。続けるべき治療の中止や安楽死とは別だ。
想像してみたい。
私たち一人ひとりがYさんの立場に身を置いたとき、いちばん大切なことはなんだろうか?
生きることであれ死ぬことであれ、与えられた状況の中で最善の道を自ら選び取ることができる「自由」が十全に保障されることではないだろうか?
Yさんの選んだ道が間違いであったなどと、軽々しく言うことはできない。問題は、果たしてYさんにそのような自由がどこまで保障されていたか、ということであったように思う。