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日本人はなぜ「きりしたん」になったか

若桑みどり著『クアトロ・ラガッツイ』を読んでいる。

副題に「天正少年使節と世界帝国」とあるとおり、16世紀末に、極東の島国からはるかなヨーロッパのローマ教皇のもとへと派遣された4人の少年使節をめぐる物語である。

もともと日本におけるキリスト教の布教史に興味があったのだが、読み始めた直接のきっかけは、のりまきさんの記事に興味をそそられたことだ。

単行本は2003年に集英社から刊行された。私は、Amazonで集英社文庫版を購入した。上下2分冊で、合わせて1,000ページを超える大作だ。

上巻を読み終わったところで、この記事を書いている。

長い本を読んでいると、読み進めるうちに前に読んだことを忘れてしまうという、いつものパターンに陥りがちなので、ひと段落したところで、印象や感想を刻み付けておこうという思いだ。


この記事の最初に「物語」と書いた。実際、小説仕立ての本かと思って読み始めたのだが、これは、むしろ歴史文献に基づいた詳細な研究成果であり、一般読者を対象に分かりやすく書かれてはいるが、学術的な研究書とも言える内容だ。

上巻の大部分は、天正10(1582)年の4人の少年たちの出航に至る前史である。ザビエル以来の来日した宣教師たちによる九州での布教活動が描かれ、また、宣教師やキリシタン大名たちを軸として九州や畿内の政治情勢が活写される。

この時期、割拠する戦国大名の中から抜きんでて頭角を現したのが織田信長だ。尾張の地方領主として地保を築いた信長は、永禄11(1568)年、将軍・足利義輝の暗殺後に混乱を極めていた都に登場し、義昭を新将軍に擁立する。その後1570年代を通じて、信長は勢力を強めていく。
天正元(1573)年に室町幕府を滅ぼし、天正3(1575)年に長篠の合戦で強敵武田勝頼を破り、翌天正4(1576)年には近江に安土城を築城して全盛を誇った。

その安土城の城下町に、信長が建立することを許可した唯一の宗教施設がキリスト教会であったという。しかも、実際に建立された壮麗なキリスト教会には安土城と同じ青い瓦が使用された。
歴史の闇に永久に消えてたしまったその豪壮な城下町において、青い瓦の建築は安土城とキリスト教会のみであったと伝えられる。信長は、朝廷や仏教勢力に対抗する目的もあって、キリスト教会を厚く保護したのだ。まさに、信長の全盛期が、「日本におけるキリスト教教会の絶頂期」でもあった。

ちょうどその頃、イエズス会から、東インド管区巡察師として日本に派遣されたのがアレッサンドロ・ヴァリニャーノである。「巡察師」とは「イエズス会が布教している全世界の管区の布教がどのようになっているか定期的に視察して歩く、いわば監査官」であると説明されている。信長にも謁見し、長時間親しく懇談している。

まさに、このヴァリニャーノが、「教皇に日本教会の存在を知らしめ、この重要な教会への積極的な援助をカトリック教会の中枢部において勝ち得るため」キリシタン大名の名代としての少年使節を派遣することを企図したのだ。少年使節によるローマ教皇拝謁という輝かしい成果を「てこ」に、財政及び権威の両面において、日本における布教のさらなる安定と拡充のための保証を得ようとしたものと考えられる。

少年使節が派遣された戦国時代末期の日本では、フランシスコ・ザビエルによるキリスト教の伝来から、わずか数十年のうちに、キリスト教の信者は15万人、あるいは研究者によっては30万人にも上ったとされる。仮に30万とすれば、この時代の人口の3%を超える規模とも推定される。当時、布教が及んだ地域は、主として豊後や肥前など九州の一部と畿内に限られていたので、この隆盛ぶりは目をみはるものがある。
本書に引用されているある論文は、この状況を「単にわが国宗教史のみならず、広く世界宗教史または東西交渉史の上から見て注目すべきことである」と論じている。

なぜ、近世前夜の日本において、一時期とはいえ、キリスト教がそれほどまでに急速に広まったのだろうか?

若桑みどり氏は、ヴァリニャーノの記録を始めとした内外の膨大な史料、文献に依拠しつつ、その理由を詳細に検討している。

理由の一つとされるのが、当時の日本人が、すでに優れた理性や道徳を備えていたことである。

 ここで重要なことは、宣教師たちがしばしば使用した「日本人には理性がある」ということばである。前に述べたように、ヴァリニャーノも「東洋のすべての人々の中で、日本人のみが道理をわきまえ、救霊を求め、自らの自由意志によってキリスト教徒に改宗することは、従来われわれが見てきたところである」と言ってきた。
 これは人間の理性と道徳の普遍性への信頼であって、これがないと双方とも相手の思想体系が理解できない。多くの未開の国ではそれができなかった。言語と観念に互換性(互いに共有できる性質)がなかったら、いったいどうしたらよいだろう。日本には霊という言語と観念があった。死んだあとの生についての観念もあり、後生ごしょうの救いはみなの求めているものだった。
(集英社文庫, 上巻, pp.248-249)

つまり、日本人の言語と観念は西洋世界のそれらと相通ずるものであり、そのため日本人にはキリスト教の中心的な理念や教義を理解しうる知的な素地、素養が十分にあったということである。

もう一つの理由は、仏教が日本社会に深く浸透していたことである。布教の初期において、キリスト教の重要な概念の多くは仏教用語を用いて翻訳が可能であった。例えば「現世、後世などの仏教の用語を使って、そのままキリスト教の死後の世界を説明することができた」とされる。

とはいえ、適切な訳語が存在しないキリスト教概念も多数あり、なかでもキリスト教徒にとっての「愛=アモル」は「日本語になおすことがたいへんむずかしかった」ようだ。
最初に編さんされた日葡辞書では、ポルトガル語の「アモル」という名詞に該当する日本語はなく、「アマール(愛する)」という動詞には、「たいせつに存ずる」という訳語があてられたとのことだ。この「愛」は、男女間の性愛(エロス)ではなく、「相手のために相手を思う心」を意味するものであったためである。

……しかし、それでも愛するということばや、慈愛、慈悲ということばが、日本にあったからこそ、それをもとに、それとは異なった愛を別のことばで言い換えることもできたのである。いうなれば、キリスト教は仏教の持つ慈悲や、救いを求める心を下敷きにして、それとはちがった愛や救いがあることを教えた。いわば仏教とのちがいを示すことで自分の特徴を示すことができたのである。そうでなければ宣教師があれほど仏教を熱心に研究し、仏僧がまたあれほどしばしば教会に探索に出かけたということは説明できない。日本は原始宗教の国ではなかったのだ。
(同上, p.252)

すでに日本人の心に浸透していた仏教の世界観を土台にしつつ、その矛盾を突き、それとの対比によってキリスト教を差異化することで、キリスト教の優越性を明確に根拠づけようとしたということであろう。従って、信仰の拡充にあたってヴァリニャーノが取り組んだ問題は「いかにして仏教とキリスト教のちがいを示すのか」ということであったとされる。

そして、仏教であれキリスト教であれ、当時の日本人が来世における救いを求めて宗教に帰依しようとしたもう一つの重大な理由が、その戦国の世という時代背景にあったことが示される。

 殺戮さつりくが日常茶飯事で、命が羽のように軽い時代であったから、人びとは生命が短いこと、この世の快楽や権勢がはかないことを強く感じていて、それだけ宗教に来世の幸福と救いを強く求めていたのであり、どの宗派がその救いをいっそうたしかに約束してくれるかが重要であって、その点を比較しながら宗教を選んだのである。だから、改宗させるにはこの点を納得させればよかったことになる。キリスト教は、人間の霊魂は不滅で、動物などには生まれ変わらない、いまのままの自分が身体を脱ぎ捨て、生きていたときの行いの結果によって救われる(あるいは救われない)という教義だから、よく筋が通っていた。多くの僧侶や知識人が「理屈が通っている」といって改宗したと宣教師は書いている。
(同上, p.255)

著者は次のようにも書いている。

 いずれにしても、熱心な仏教徒は、じつは熱心なキリスト教徒になる可能性が高い。理屈で言えば、その逆も可である。現世のみを信じ、物質のみを信じ、それで満足し、霊魂の死後の救済などをそもそも考えない人びとよりは、このころの日本人は潜在的にキリスト教徒たりうる条件を備えていたということになる。
(同上, p.257)

現世のみを信じ、物質のみを信じ、それで満足し、霊魂の死後の救済などをそもそも考えない人びと」という表現は、現代の大多数の日本人に対する若桑氏の痛烈な皮肉のように読める。

自分自身のことも含めて言うのだが、確かに、現代人は、眼に見えぬもの、五感で感じとれないものに対する畏敬の念を忘れてしまっているように感じることが多い。

霊魂や死後の世界に対する想像力が久しく枯渇し、さらには、自分や家族が健康で、不治の病に侵されているような状況にならない限りは、「死」というものの不可避性を実感として感じとる能力すら失っているように思うのだ。

本来、死は日常的に生のかたわらに常に寄り添い、生と死の境は紙一重なのだ。明日、自分の身に何が起こるかは誰にも分からない。しかし、現代人の多くは、明日も明後日も今日と同じ平穏な日が訪れることが自明であると思い込み、それを前提として生きている。

若桑氏自身はキリスト教徒ではなかった。私もキリスト教徒ではないし、いまのところ、洗礼を受けようと考えているわけでもない。しかし、問題は必ずしも「信仰の有無」にあるわけではない。
問題は、現在の「生」と隣り合う「死」というものに対して、いかに想像力を鋭敏に働かせられるか、なのだ。もし、それがなければ、真に「生きる」こともできないのではないだろうか?

本書に描かれた時代を生きた日本人たちにとって、信仰とは、切迫した「死」と隣り合う日常の中で、否応なく見つめざるを得なかった「より良く生きるための選択」の問題であったのかもしれない。


最後に私事を書き添えたい。

本書の著者の若桑みどり氏は著名な美術史学者であり、2007年に71歳で逝去された。その実の兄であるロシア文学者の川端香男里氏が、今年2月に87歳で亡くなった。川端先生は、私の大学時代の指導教官であり、たいへんお世話になった。

愚かなことに、私は、本書を読むまでお二人が兄妹であったことを知らずにいた。そんな自分自身に驚き呆れ、自身の無知を恥じた。のりまきさんの記事に出会わなかったから、死ぬまで知らなかったかもしれない。

note には貴重な出会いが潜んでいる。

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