映画「ハンナ・アーレント」を観て

もし神が存在せず、それゆえ個々の人間がそれぞれ自力で「世界」と対峙しなければならないのだとすれば、「私」は、私をとりまく「世界」全体と、少なくとも等価でなければならない。
言い換えれば、私の「内」は「外」に対して少なくとも等価でなければならない。
そうでなければ、「私」は「世界」に圧し潰されてしまうだろう。

前回の投稿(「ひとりで生きるということ」)で、私はこのように書いた。
書きながら、なんとなくひっかかるものを感じていた。「なにかが違う」とささやく声があった。

「人はひとりで生きることができるのか」という問いに向き合いながら綴ったその投稿の末尾で、ハンナ・アーレントの『人間の条件』に触れた最近の新聞記事から次の一節を引用した。

……著者(ハンナ・アーレント)は古代ギリシャ以降の思想家たちへの批判を足掛かりに「仕事とは何か」「不死とは何か」「永遠とは何か」などを考察し、人間は一人では存在しえないことを主張する。

小熊英二「半歩遅れの読書術」『日本経済新聞』2022.10.29(太字は引用者)

そして、(小熊によれば)きわめて難解とされる『人間の条件』を、たとえなに一つ理解できないとしても、読むだけ読んでみることを自分の宿題として、投稿を締めくくった

その後、『人間の条件』は、まだ一行も読めていない。
『人間の条件』の日本語訳は、現在、ちくま学芸文庫版(志水速雄訳)が入手可能だが、この本を未だ入手すらしていない。

西洋哲学史についての素養が皆無に等しい私のような者が、いきなり挑んでも、早々と撤退を余儀なくさせられるのが、目に見えているからだ。

先ずは、さしあたり、ハンナ・アーレントの思想に関する平易な入門書・解説書の類を読んでみようか、と考えている。
そういえば、ハンナ・アーレントについての映画があったと思い出し、事前準備の一環として、ネット配信サービスを利用して「ハンナ・アーレント」(2012年、ドイツ・ルクセンブルク・フランス合作)を観た。

今回は、この映画について書いてみたい。
(映画の内容の真偽について、厳密には検証が必要かもしれないが、おおまかに史実が描かれていることを前提として書くことをご容赦いただきたい。)

作品の内容について、オフィシャルサイトから抜粋しよう。

誰からも敬愛される高名な哲学者から一転、世界中から激しいバッシングを浴びた女性がいる。彼女の名はハンナ・アーレント、第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人。
1960年代初頭、何百万ものユダヤ人を収容所へ移送したナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが、逃亡先で逮捕された。アーレントは、イスラエルで行われた歴史的裁判に立ち会い、ザ・ニューヨーカー誌にレポートを発表、その衝撃的な内容に世論は揺れる…。

一度では理解しきれない部分があったので、二回観た。
ハンナ・アーレントの一言一言が心に刺さるような、すばらしい映画だった。特に、ラストの、大学の大教室でのアーレントの演説は圧巻だった……。

アーレントが傍聴した裁判で、アイヒマンは、自身の行為について弁明する。
「自発的に行ったことは何もない」「善悪を問わず、自分の意志は介在しなかった」「命令に従っただけなのだ」と。

この役人然とした平凡な人物と、歴史に汚点を印す残虐犯罪行為、アーレントはこの二つを結びつけられずに困惑する。
そして、考え抜いた末に、アーレントが至った結論は、「アイヒマンは思考不能であった」というものだった。アイヒマンが二十世紀最悪の犯罪者になったのは、彼が「思考不能だったから」なのだ。

ラストの演説の中で、アーレントは端的に述べている。

「世界最大の悪は平凡な人間が行う悪なのです。
そんな人間は、動機もなく、信念も邪心も悪魔的な意図もない、人間であることを拒絶した者なのです。
そしてこの現象を、私は「悪の凡庸さ」と名付けました。」

「凡庸な悪」という現象は、人間が「思考停止」に陥ったときに生じる。
ソクラテスやプラトンの時代から、「思考」とは「自分自身との静かな対話」なのだ、としたうえで、アーレントは次のようにも述べる。

「人間であることを拒否したアイヒマンは、人間の大切な質を放棄しました。それは思考する能力です。
思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走るのです。
「思考の風」がもたらすのは、知識ではありません。善悪を区別する能力であり、美醜を見分ける力です。
私が望むことは、考えることで人間が強くなることです。」

「ハンナ・アーレント」を観て、気づいたことがある。

「私」は、私をとりまく「世界」全体と、少なくとも等価でなければならない。すなわち、「私」の存在は「世界」全体と同じくらい重い。
そのような考えは、アイヒマンの「凡庸な悪」と、とても似通っている。

そういう時代だったのだ。総統の命令に従うしかなかったのだ。そうしなければ自分が罰せられたのだ。仕方がないことだったのだ。なぜなら「私」の存在は「世界」と同じくらい重いのだから……。

もし、そのような自己正当化が可能であるならば、人間は、あらゆる判断を停止して、自己保全にのみ努めればよいことになってしまう。
冒頭で述べた、自分自身が書いた文章に感じた違和感の正体は、まさにこのことであったように思う。

「私」すなわち「自我」が「世界」と同じくらい重いとすれば、世界中に何十億と存在する「他者」にとっての「私」、すなわち「他我」も、それぞれが「自我」と同じくらい重いはずだ。
その場合、何十億もの「他我」を包み込んだ「世界」の重さに、「私」という存在の重さが釣り合うという、到底ありえない論理矛盾が生じることとなる。

「私」がほかの誰でもない「私」の人生を生きている以上、「自我」が唯一絶対の存在であることは疑う余地がない。
しかし、あらゆる他者にとっても、その一人ひとりに唯一絶対である「他我」が存在するのだ。
「思考する」とは、そのような「他我」の存在を「自我」が可能な限り深く認識しようと努めることなのではないだろうか。
人間が「思考する」存在であるという意味は、まさにその一点にあるのではないだろうか。

そして、そのような思考の場においては、「自我」が、いかに利己心を抑制して「他我」を尊重し、「他我」と折り合いをつけ、共存しうるか、が重要な問題となるだろう。

アイヒマンの犯罪を動機づけたものは反ユダヤ的な思想でも、ユダヤ人に対する憎悪でもなく、「自己保身」という利己心に過ぎなかった。
もちろん利己心は誰にでもあるものだが、アイヒマンは、その利己心の発動に際して、無数の被迫害者の「他我」に思いを致すこともなく、上意下達のヒエラルキーの中で、ただ書類にハンコでも押すかのように、黙々と命令を遂行した。
そのような思考能力の欠如によって、アイヒマンは人間であることを放棄したのだ。
そのように、アーレントは考えたのだろう。

さて、仮に「思考すること」が「可能な限り深く他我を認識しようと努めること」を意味し、そして「思考すること」こそがまさしく「人間の条件」であるとすれば、「人間は、他者の存在なくしては人間たり得ない」ということになる。

もしかしたら、アーレントが「人間は一人では存在しえない」と主張した理由のひとつは、この点にあったのではないだろうか……。

などと、『人間の条件』を一行も読んでいない人間がほざくのは、相当に気恥ずかしく、おこがましい話で、身の程知らずもいいところだ。
いうもでもなく、これは、私の勝手な想像であり、独りよがりな思いつきに過ぎない。
ただ、難解な書物にとりかかろうとする際に、そのような個人的な仮説を立ててみることは、案外興味深いことかもしれない。

ところで、アーレントは、なぜ世界中から激しいバッシングを浴びなければならなかったのか。
それは、アーレントがニューヨーカー誌に発表したアイヒマン裁判についてのレポートの中で、「ユダヤ人居住地における指導的人物がなんらかの形でナチに協力していた」ことを告発したためである。
映画の中で、この事実はアイヒマン裁判の過程で発覚したことだとされている。

ラストの演説の中で、アーレントは、アイヒマンの仕事に関与したユダヤ人指導者の役割から見えてくるものは「モラルの完全なる崩壊」であり、ナチは、迫害者だけでなく、被迫害者のモラルをも崩壊させたのだと糾弾する。
そして、確かにユダヤ人指導者は非力ではあったが、「抵抗と協力の中間に位置する何かがあったのではないか。違う振る舞いができる指導者もいたのではないか。そのような問いを投げかけることが大事なのだ」と主張するのだ。

だが、ユダヤ人の多くは、告発の矛先を同胞にまで向けてしまったアーレントの「裏切り」を決して許そうとしなかった。
家族同然であった古くからの親しい友人たちが、アーレントから離れていった。
それほどにも、ユダヤ人コミュニティはナチへの憎しみに凝り固まっていたのだ。

「ハンナ・アーレント」は、他者を理解することがいかに困難なことか、という問題も描き出す。
真理を追究しようとする学者としての信念の厳しさ、強さと同時に、それに伴なう悲しみまでもが、ひしひしと伝わってくる映画である。

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