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「人はどのようにして他者とつながることができるのか」についての断章

「ラスコーリニコフの孤独」(全11回)では、ひとつの仮説を『罪と罰』の世界観として提示した。

その仮説とは、「人と人との絆は、水平的な横のつながりではなく、天上の神を仲立ちとした、垂直的な縦のつながりである」というものだった。

ラスコーリニコフは、殺人を犯すことで、神との絆を自ら断ち切ったのであり、その結果として、この世界のあらゆる人間から切り離されてしまった。それが彼にとっての「罰」であった。そのように考えたのだ。

そして、いまわれわれが『罪と罰』を読む意味は、「神に対する信仰を持たない現代人がどのように他者とつながることができるのか」という「問い」に向き合うことにあるのだと、そんな風に論じてみた。

さて、論じてみたのはよいのだが、その議論を、さらにどう発展させていけばいいのか、そこから何を導くことができるのか、ずっと考えあぐねている。
ひとつの仮説を示したことは、『罪と罰』の独自の解釈として意義のあることだと自負しつつも、それで終わってしまい、そこから先に一歩も進めないのであれば、自身の人生観なり世界観は少しも深まらないばかりか、それらを深めるための糸口にすらならない。

人はどのようにして他者とつながることができるのか?

「ラスコーリニコフの孤独」の最終回(第11回)の結びで、この「問い」は、人間がこの世に存在し続ける限り、そこからのがれることのできない、終わることのない「問い」なのだ、とも書いた。だとすれば、人間は、ただ、この「問い」にむなしく向き合い続けるしかないのだろうか?

そうなのかもしれない。

しかし、たとえそうであっても、心のなかにひとつの「問い」を抱え続けることは、ささやかな「発見」のきっかけとしては役に立つものだ。


ささやかな「発見」は、最近読んだ村田沙耶香の短編『信仰』の中にもあった。

この作品から読み取れるのは、現代社会においても、人と人を結びつけるものは、やはり「信仰」であるらしい、ということだ。

それは「神」に対する信仰や、あるいは既存の宗教における信仰に限るものではない。
なにかしらの価値観を無条件に信奉すること、そのことが集団のメンバーを結束させる機能を果たす。
その価値観はなんであってもかまわない。
作中には、縄文式土器のような高級食器ブランドや、鼻の穴のホワイトニングという怪しげなエステなどの他愛のない事例が出てくるが、主人公の永岡ミキ(おそらく三十代)が参加するお茶会のメンバー(学生時代の同級生)たちは、そのようなものに対する価値観を共有することによって連帯する。

高級ブランドも人気のエステも、実体としては市場価格に釣り合いそうもない「幻想」に過ぎない。しかし、人はその「幻想」の中に積極的に「夢」や「憧れ」などの「価値」を見いだし、崇拝の対象にする。まさに「信仰」である。

同級生たちは、それが「幻想」であることを知ってか知らずか、騙されることに幸福を感じているようだ。ところが、ミキはそのような幻想を受け入れることができない。

幼いころから「現実」こそがミキの絶対的な価値判断基準であり、すべてのものを「原価」で判断する習性が身についてしまっている。
なんであれ、親しい者たちが購入しようとする高価なサービスや商品に対して、「原価」に基づいて異議を唱える。そのようなミキの極端な現実主義は、周囲を疲れさせ、うんざりさせる。そして、恋人も、親友も、妹もミキから離れていく。

これではいけないと危機感にとらわれたミキは、周囲の価値観に自分を合わせようとし始める。同級生とのお茶会に無理して参加するのも、そのためである。
そして、ミキの「人なみに騙されたい」「幻想を信じたい」という願望は、ついにカルト教団への参加という決断に至る……。


作品のタイトルである「信仰」とは、なんらかの「幻想」を無条件に、絶対的なものとして受け入れ、決してその価値を疑わない、ということを意味している。

興味深いのは、作者が、ミキの「現実主義」もひとつの「信仰」としてとらえていることだ。

 私はいつも、会う人会う人を「現実」へ勧誘していた。それが全ての人の幸福だと信じて疑っていなかった。

『信仰』文春E-BOOK, p.28.

しかし、そのような夢も希望もない「現実」に対する信仰は、共有する者のない、誰ともつながることのできない信仰である。
ミキのように、「騙される才能」から見放された人間は、ただ「不幸」というほかないのだろうか?


人はどのようにして他者とつながることができるのか? という話だった。

カルト教団の狂信的な信仰は、極端で不幸な例であるとしても、特定の政治信条なり、支持政党なり、社会的問題意識なりを共有する者どうしが、その共通項を仲立ちとして互いにつながりあう、ということは自然なことだ。
とすれば、人と人をつなぐものは「価値観の共有」なのだろうか?

しかし、そのような安易な「結論」の限界は、少し考えれば露呈してしまう。
「価値観の共有」を連帯の条件とする考え方は、異なる価値観を持つ者を理解しようとせず、排除することによって、多様性の否定や分断の正当化に容易に陥ってしまう危険性をはらむものだ。

実は、村田沙耶香の作品群は、そのような、異なる価値観どうしの衝突といった問題も視野に収めているのだが……、長くなるので、この辺で。

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