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原敬と岩手(3)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(3)】[#33]

〇 原敬と楢山佐渡

 原敬が育った南部藩は、戊辰戦争(1868年-1869年)に敗れましたが、1856年生まれの原敬はこの時12才-13才でした。南部藩の戊辰戦争敗戦の責任を負って処刑された楢山佐渡は、南部藩の家老を務めていましたが、原家と楢山家は近しい関係にありました。楢山佐渡が盛岡の報恩寺で処刑された時、原敬(当時の名は原健次郎)は、報恩寺の近くまで行って潜んでいたと言われています。

〇 原敬の号「一山」

 戊辰戦争の敗戦から始まった岩手の明治時代は、敗戦による多額の献上金などによる困窮の中にありましたが、それとともに「白河以北一山百文」などと、薩摩や長州に蔑視される屈辱にも耐えなければなりませんでした。
原敬は後に、自らの号を「一山」としましたが、これは「白河以北一山百文」に由来していると言われています。現在、宮城県を拠点に新聞を発行している「河北新報」の河北の文字も「白河以北一山百文」に由来していると言われるなど、戊辰戦争に敗れた岩手人や東北人の秘めたる想いが感じられます。

2022(令和4)年10月25日(火)

(続く)

【参考資料】
「原敬-「平民宰相」の虚像と実像」 清水 唯一朗 中央公論新社 2021年
「国萌ゆる 小説 原敬」平谷 美樹 実業之日本社 2021年
「本懐・宰相原敬―原敬日記をひもとく」木村 幸治 熊谷印刷出版部 2008年
「原敬と新渡戸稲造: 戊辰戦争敗北をバネにした男たち」 佐藤 竜一 現代書館 2016年

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