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原敬・佐藤昌介、そして賢治【なぜ宮沢賢治は岩手から生まれたのか?(3)】[#18]

 岩手出身の原敬は、薩長土肥などの新政府系以外の出身者として初の総理大臣であり、総理大臣就任前年の戊辰戦争追悼の式典の祭文で、戊辰戦争の汚名に対する強く秘めた想いをにじませています。賢治が東京へ家出していた大正10年当時の総理大臣は原でした。

 佐藤昌介は花巻出身で、原敬と同い年でともに藩校である作人館で学んでいます。クラーク博士から直接教えを受けて農学校でクリスチャンとなり、クラーク博士の帰国後、82才で亡くなるまで、札幌農学校から北海道帝国大学への発展のほぼ全ての歴史に、長きにわたってリーダーの一人として関わっています。
 また、佐藤の花巻の実家には、「雨ニモマケズ」のモデルではないかとも言われる斎藤宗次郎が、内村鑑三の紹介で住んでいました。賢治の家近くに現存し、賢治作品のモデルとなったともいわれる「菊池邸」を大正15年に建てた菊池捍(まもる)は、新渡戸稲造の勧めで札幌農学校に進学し、その菊池の妻は佐藤昌介の妹でした。
 賢治自身も、1924年の修学旅行の際、北海道帝国大学で佐藤総長から出迎えを受け、この時佐藤は別の用事を遅らせてまで賢治一行を待ち歓待したと言われています。

2022(令和4)年10月10日(月)

(続く)

【写真は、北海道大学の佐藤昌介像】

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