宮沢賢治・最後の10年【宮沢賢治〜100年前に見たセカイ(6 終)】#61
○ トシの死、その11年後の賢治の死
100年前、1922(大正11)年11月27日に、宮沢賢治の妹・トシが亡くなりましたが、賢治自身もその11年後、1933(昭和8)年に、37才で亡くなりました。
トシの死後、多くの名作が生み出されたと思われることや、賢治自身もトシの死から約10年後に亡くなってしまったことなどを考えると、賢治にとって1920年前後からの亡くなるまで10数年は、とても重要な期間だったと思われます。
なお、賢治が初めて童話を書き、家族の前で朗読したのは、1918(大正7)年の8月頃と言われています。
○ 賢治の周りのセカイで起きていたこと
この時代、賢治を取り巻くセカイでは、国内・国外ともに、様々な出来事が起きています。トシの亡くなった約1週間後に、アインシュタインが仙台を訪れた出来事のように、その出来事が賢治に影響を与えたのか、与えなかったのか、よくわかっていないことも多くあります。
アインシュタインが来日した1922(大正11)年の翌年1923(大正12)年には、文字通り日本を揺るがした関東大震災がありました。岩手にも関東方面からの避難者があったようですが、賢治はあまり関東大震災について触れておらず、詩「宗教風の恋」などに、わずかに描かれているのみです。
賢治が亡くなる前の約10年は、世界的に見ても、第一次世界大戦が終わった1918(大正7)年から、第二世界大戦が始まる1939(昭和14)年へと向かう激動の時代です。この時期、ドイツではナチスが台頭し、アインシュタインもナチスから逃れてアメリカに渡りました。
○ 賢治は実はミーハーなのか??
幻想的な宮沢賢治の作品世界は、一見すると、世界の動きから距離を置いた賢治の内面的な世界を描き出したようにも見えます。しかし、賢治が生きた時代の世界や日本国内での流行などと作品を並べてみると、関係があるのではないか?と思われることも多くあります。
むしろ、あまりに多くの流行から、少しづつ影響を受けているため、何から影響を受けたのが、わかりづらくなっているのではないか、とさえ思えます。
いずれにしても、1920(大正11)年前後から、賢治が亡くなるまで10数年に、世界で何が起こり、どんな思想や文化などが流行していたのか、という事は、賢治作品の成り立ちを考える上では、とても重要ではないかと思えるのです。
2022(令和4)年12月11日(日)
(終)