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#78 佐藤昌介とクラーク、そしてエミリィ その3【宮沢賢治とエミリィ・ディキンスン その16】

(続き)

○ 佐藤昌介とクラーク、そしてエミリィ その3

佐藤昌介の妹・淑子の夫で、札幌農学校出身の菊池捍が、宮沢賢治の家近くに、賢治が存命中だった1926年に建築し、現在でも花巻に残っている洋風の家は、賢治の童話「黒ぶだう」のモデルの家と言われています。

「黒ぶだう」は、札幌農学校時代に新渡戸稲造から大きな影響を受けた作家 有島武郎の小説「一房の葡萄」を思わせる内容であることから、札幌との繋がりが、興味深く感じられる建物です。

また、昌介の別の妹である直子は、若き日の原敬と行動を共にした後に北海道へ渡った栃内元吉の妻です。栃内は、コサック兵などの研究のためにロシアなどに渡っていますが、賢治の詩にもコサックが登場する詩があります。

昌介の父・佐藤昌蔵は、原敬がリーダーだった政友会系の岩手選出の国会議員を務めるなど花巻の名士で、クリスチャンでもありました。賢治の父・政次郎も昌蔵と同じ川口町の政友会系の有力者だったと思われ、政次郎も町会議員を務めたこともあります。

佐藤昌介や新渡戸稲造のような花巻の名家の出身者が、札幌農学校でクリスチャンとなりアメリカへ渡った後に活躍したことを考えると、同じ花巻の有力者の生まれであった賢治にとって、キリスト教やアメリカが身近な存在で、アメリカへの憧れを持つ原因となった可能性もあります。

賢治は、花巻農学校の教諭時代に、修学旅行の生徒を引率し札幌農学校を訪れ、当時校長となっていた佐藤と面会しています。佐藤は、予め入っていた予定を遅らせてまで、賢治一行を待ち、歓待したと言われています。賢治達が札幌農学校を訪問し佐藤に面会したのは、花巻農学校を2年制から3年制に昇格する念願のもと、佐藤への応援を頼む意味もあったとも言われています。

宮沢家と佐藤家が、同じ川口町(現在の花巻市)で政友会系の有力者の家であったことを考えると、2人や両家の関係は、札幌農学校長と花巻農学校の一教師以上のものがあったようにも思われ、現在では、2人の関係について触れられることはほとんどないものの、興味深い関係でもあります。

賢治は、札幌について、「修学旅行復命書」の中で「ビュウティフル サッポロ」と記録しています。そして、賢治の生涯からは、「北」へ対する憧れのような、何か特別な思い入れのようなものも感じられるのです。

(続く)

2023(令和5)年10月17日(火)

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