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さまよう若き原敬(4)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(9)】[#39]

〇 「岩手山のきこり」原敬

 法学校を退学となった原敬は、中江兆民の仏学塾に通います。そして、山梨の新聞へ「峡中新報」へ寄稿することとなり、ペンネームを「鷲山樵夫」と名乗ります。故郷・盛岡の岩手山は、別名「岩鷲山」と呼ばれており、「鷲山樵夫」は、「岩手山のきこり」といった名前です。

〇 郵便放置新聞社入社と退社

 その後1879年、原は23才で郵便報知新聞社へ入り定職へつくことができました。そこでの原は地方分権を主張しますが、地方についての理解をより深めるため、渡辺洪基という官僚の地方巡回に同行します。東北・北海道を回った原ですが、そこで原は、地方の行政や政治家、産業などの現状に失望を覚えます。
犬養毅や尾崎行雄などの政府のエリート達が、郵便報知新聞で原稿を書くなど、原の居場所が失われつつあった状況の中で、1882年に、原は郵便報知新聞を退社します。

2022(令和4)年10月31日(月)

(続く)

【参考資料】
「原敬-「平民宰相」の虚像と実像」 清水 唯一朗 中央公論新社 2021年
「国萌ゆる 小説 原敬」平谷 美樹 実業之日本社 2021年
「本懐・宰相原敬―原敬日記をひもとく」木村 幸治 熊谷印刷出版部 2008年
「原敬と新渡戸稲造: 戊辰戦争敗北をバネにした男たち」 佐藤 竜一 現代書館 2016年
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