さまよう若き原敬(5)【宮沢賢治の風景と、新渡戸稲造・原敬・佐藤昌介達の時代(10)】[#40]
〇 大阪の政府系新聞への入社と7カ月での退社
1882年に郵便報知新聞を退社した原敬は、退社して2カ月に、政府系新聞として大阪で創刊された「大東日報」へ入ります。この入社によって高給取りとなった原は、この時期に、盛岡の作人館時代の同級生で、後に北海道帝国大学総長となる、花巻出身の佐藤昌介のアメリカ留学を援助します。
しかし、わずか七カ月の在籍の後、意見の相違と思われる理由から退社し、再び東京へと戻って旧友たちと憂さ晴らしの宴会をしていたと言われ、再び進路が閉ざされたかのように見えます。
〇 新聞社退社3週間後の外務省入省
26歳の原敬の人生の扉が再び開かれたのは、「大東日報」退社のわずか3週間後。外務省への入省がきっかけでした。原の待遇は「大東日報」と同様の好待遇であり、役職的にも、かつて退学となった司法省法学校の同級生達とほぼ同等の待遇であり、法学校退学によってさまよっているかに見えた原のキャリアが、ここで取り戻されることとなりました。
2022(令和4)年11月1日(火)
(続く)
【参考資料】
「原敬-「平民宰相」の虚像と実像」 清水 唯一朗 中央公論新社 2021年
「国萌ゆる 小説 原敬」平谷 美樹 実業之日本社 2021年
「本懐・宰相原敬―原敬日記をひもとく」木村 幸治 熊谷印刷出版部 2008年
「原敬と新渡戸稲造: 戊辰戦争敗北をバネにした男たち」 佐藤 竜一 現代書館 2016年
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