多様性か逸脱か

ちょっと真面目に書いてみます。いや、今まで不真面目ってわけじゃないですが(笑)


ダイバージェンスって聞くと金融とか証券の用語になっちゃってますが、本質的な意味は分岐点って感じで、それは例えば自分が進むつもりだった道にある交差点であり、先はどっちが明るいかは見通せない場合が多いです。

明らかに良くない未来もダイバージェンスのひとつで、例えば前方に切り立った崖があるのにそこに向かってアクセル全開ノーブレーキで車を走らせるとか、それが自分を活かす選択ではないという場合にはそれは直感的に選択していないことが多く、その選択肢を選ばなかったからここにいるという側面も強いです。
ちょっと極端な例でしたが、飲食店でメニューを決める場面や人生をかけたバクチみたいな大事まで、それこそ様々な選択の上に今があるということだと思います。

先日知人と話をしていて、高校生の子供が引きこもっていて不登校に悩んでいるといっていました。詳しい理由までは聞きませんでしたが、高校に入るまではやる気があったのかもしれませんが、思っていたのと何か違ったのか嫌なことがあったのか、理由は本人にしかわかりません。
そこまで親しくはない知人だったので本位はそれほど伝わらなかったかもしれませんが、私は自殺するような事態でないのならばそれが一番じゃないかと話しました。養育費だとかお金の話を色々していましたが、それも本当にもっともなのですがそれはあまり私の頭に入ってこなかったです。
まぁ、私が独身で子供もいないからかもしれませんが。

知人はこのままでは社会に出られるのかとか、大学だ就職だと言っていましたが、高卒で学校法人格でない専門学校卒な上で20年以上ひとり暮らしもして社会に出ている私には何がそこまで心配なのかわかりませんでした。いや、理解したくないというか、そこまで明確じゃないんだけれど、心配しすぎだという感じで聞いていました。
ってか私の学歴は話さなかったのでどう思っていたかは不明です(笑)。

『その子には合わなかった』という、進学先高校へ通うという選択肢の適合不一致がこのダイバージェンスになったのだと思います。
本当に自分の意志でその学校に行きたかったのかな?それとも行くまでは良かったけれどその期待以上の大きさで絶望が襲ってきたのかな?など考えると、世間が作ってる大きな同調圧力とか評価システムの上に矢印をおいて強要する感じにストレスを感じました。自分もそんな線路に逸脱した人生観があるからなのでしょう。
勉強がしたくて高校に行ったのか、何か他にやりたいことがあったのか、仕方なく惰性で行ったのか、いろいろな理由があってその選択肢を選んだのは本人の意志ですが、不登校になったのも本人の意志なのでその部分はきっと大事な理由があるんです。子供は16歳なら16歳までの知識と体面、外的要因の上で生きてるわけなので、彼にとってはそれが全てです。

こういう教育の話をするとケン・ロビンソンさんの話を思い出します。ケンさんの話っていうのはTEDという分野で活躍している方の講演会のなかで話されていたことなのですが、教育が単一的な評価体系にあり評価基準を革命していかないと子供の多様性を殺してしまうというような内容なのですが、もっとちゃんと聞いてみたい方はTEDを直接見ていただければと存じます。
(Linkは最後にまとめます)

自分が何をしたかったのか?才能の芽はどこにあるのか?人は皆同じじゃないのだから、周りにいる大多数の子と違うからダメというのはマイノリティを殺す文句だし、その子をみんなと同じようにしたい親のエゴイスティックな感情であって、子供が持っている感情を抑えつけているだけなんだなと思ってます。もちろんそういう教育の中で自分がやる行動の何がどういけないのかとか、どうすると敷かれた線路から外れて圧力がかかるからそれを回避しようとか、そういういわゆる『忖度』も子供なりにあるので、知らないうちに自分を抑えることになってしまい心から望まない道を選ぶ場合も星の数ほどあるんだろうなと思います。外的要因で選べない場合も含めて。

最良と思って選んでみたものの、それは想定と違っていたというシナリオも含めて一筋縄には行きませんが、そういったギャップをストレスとして受けているのはやっぱりその年令分しか経験がなくてその中で心がどれだけ耐えられるかにかかってくるので、一回避難して考え直すことができるっていうのはやり直しが利くとても幸せなことなんだと思います。

つまりはその子が何をしたいのか向き合って話をするというのは親の役目なんだろうなと思います。
その子が何を考えて今に至ったのかを紐解いて、その子がやれることに向かうために選択肢が埋もれているのなら掘り起こして手助けしてあげること。価値観は周りと同じものもありますが、何が大事なのかは人それぞれなんだから、頭から決めつけた価値観で矢印を押し付けるのではなくて、何が自分の中で心に火がつくのかを一緒に見つけ出してあげることが大事なんだと思ってます。まぁ私子供いないんですけれどね。

なんで勉強が必要なのかは、人生を豊かにするという言葉が示す側面ももちろんありますが、私が思っているのは『やりたいことをしていって壁にぶつかった時にその壁を壊すためにするもの』だと。現時点で興味がない勉強なんて頭に入ってこないけれど、必要なことなら何時間でも調べるし学ぶ。そうする体験は結局勉強の本質でもある人生を豊かにするために効果があるって思ってます。学び方がわかると応用もききますし。

なんかもうその子の話そっちのけになってきましたが(笑)、やっぱり大事なのは本人の意志で、未熟さ故にそれが埋もれているならそこを手助けするのが親の本来のあり方なんだろうなと。もちろん社会生活をする上でのルールを教える…いわゆる『躾 (しつけ)』も親の役割。
学校は社会生活をする上でのシミュレーション的なもので、必ずしも学校で好成績を収めることが目的じゃないんだと思います。教師はそういう中で多数の子供に可能性の種と知識を植えて行く役目で躾や管理をするのは本来の目的じゃない(でもやれるなら関わったほうがきっと幸せ)、社会はその子の好奇心を受け止めて拾い上げる土壌を作ることが重要なんだと思ってます。
まぁ私子供いないんですけれどね、でも社会の一員として教育やそういう土壌のことには興味も関心も責任もあると思って生きてます。

最近の子供の多様性を見ると20年40年前とは選択肢が違ってきていて、科学や文明の発展によって選ばなくなった選択肢と選ぶことができる選択肢が増えていったわけで、旧態依然とした前例主義的な目で見がちですが、まず自分から未来を受け入れるようにしていかないと、未来を豊かにしてくれる子供という因子を導けないだろうなって、偉そうに思ってしまった一件でした。



どうでもいいですけれど『好奇心』っていい言葉ですね。
予想に反した思いもよらに事を好意的に捉える心
なんて、意外性を楽しんでるいい表現だなぁとしみじみ。


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