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命のコスパ-2053年の尊厳死- 第14話(最終話)

あとがき

 今、柴田さんの遺品であるライターで、タバコに火をつけた。
 遺品整理を特殊清掃業者に依頼した際、廃棄するというので貰い受けたのだ。勝手だが、なにか一つくらい彼の人生の影響を受けたかった。
 吸うのも柴田さんと同じ銘柄にした。相変わらず吸いなれないが、存外紙巻きタバコも悪くないと思い始めている。コーヒーとよく合う。

 本稿の取材を始めたとき、半信半疑だった。本当にこんな制度を利用する人がいるのか、歳をとったからと言って自分から死んでしまうなんてことがあるだろうか。そう思いながら話を聞きに行った。
 NPO法人「トーチ」、そして代表である高須さんには本当にお世話になった。「トーチ」で出会った柴田さん、西川さんの二人を、主として記録することができた。ふたりとも現在は既に尊厳死を迎え、この世の人ではなくなっている。
 実際に制度の利用者に話を聞くことができたのは、本当にありがたいことだった。
 反面、筆者が彼らにとって何ができたのかと言われると、答えが出せない。
 一体彼らにとって、筆者との時間は、それを書き記して残すことに、意味や価値はあったのだろうか。

「トーチ」で相談を受ける側になり、後期高齢者が置かれている立場が思いの外厳しいものだとは痛切に感じた。
 生活費がない。仕事がない。体力もない。残った家族がいても、みんな一様に認知症などの問題を抱えていて、心の休まるときがない。もっといえば、認知症が治ったとしても、それは決して幸福を約束してくれない。
 彼らに通底していたのは、強く大きな「諦め」という感情だった。
 もうどうにもならない。もう終わりにしてほしい。もう続けていたくない。そういう強い、ある種決意とも言えるものだ。
 衝動的な自殺ではなく、複雑な手順が必要な尊厳死を選択する人は、それが揺らがなかった。ひょっとしたら思いとどまってくれるかもしれない、という傲慢な思いがなかったといえば嘘になる。だが、今さら無関係な人間が少し話を聞いたところで、彼らの今生きている生活という苦痛を、取り払うことはついにできなかったのだ。
 本当にとことんまで、筆者にできることはなにもなかった。記事を書くのだということだって、別に彼らが望んだことではない。西川さんに言われた「わかっていない」のは、今でも変わらないだろう。表面的にわかったふうを装っても意味がない。筆者に死を望むような思いはわからない。逆説的にそれだけはわかった。

 それでも自分で意外だったのは、今から死のうとする人たちに、ひとつも腹が立たなかったことだ。
 リストカットや自殺未遂をする人たちとは、そこが根本的に違った。そうした人にありがちな、誰かのせい、社会のせい、職場のせい、そういったことを誰ひとり口にしなかった。「トーチ」で相談を受けるとき、それははっきりと現れていた。恨み言を口にする人たちは、結局は相談に来るだけで、手続きを前に進めようとはしなかった。

 本当なら、それは死にたくないという意志の表れで、決して悪いものではないはずだ。

 だが本当に尊厳死を選んだ人たちと接するにつれ、その感覚が揺らいでいった。もっといえば、自分自身の中にあるはずの「誰も好き好んで死にたくはないはずだ」という常識が、強く揺さぶられた。
 これ以上生きていても、本当に何も起こらないとしたら。
 それが事実であるかどうかは、ある意味関係ない。柴田さんや西川さんの言うように、これから何か良いことが起きるなんてありえない、そう実感して納得してしまったなら、それは彼らにとって真実なのだ。そしてそれを覆してあげることは、きっと誰にもできなかった。今その場でどうこういう話ではなく、彼らが生きてきた人生の結果として、その答えが出たのだから。
 その答えを否定することができなくなり、それはそのまま、筆者がこれから生きていくということに、薄暗い影を落としている。

 それでも生きていくこと、生というものを肯定する情報は、世の中にあふれている。
 だが思ったのだ。
 生きていることと、尊厳を保つために死ぬということは、それほど価値が違うのだろうかと。
 決して生を軽んじ死を礼賛するわけではない。
 それでも、きっと彼らの選択には、彼らの意志には、価値があったのだと信じたい。


 このルポルタージュはフィクションである。
 ――が、30年後の未来においては、定かではない。

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