個人と集団の幸福の完全な一致
はじめまして。「しゃかいと」と言います。
漢字で書くと「社会人」なので「しゃかいじん」と呼ばれないようにひらがなにしました。
このnoteのテーマは「社会」です。私の仕事は教育なのですが、教育者という言葉やリアルな人たちとは、否定ではなく「ちょっと違う」なと思うことが多く、どちらかというと「社会にとって」や「社会に出たら」という視点で若者たちに携わっています。
もう少し深掘りすると、例えば教育者は「子供たちにどのような授業をしたいか」ということに関心があります。
公立の学校だと、社会性をとか、基礎学力をすべての子供につけるとか、考える力を、と言うことに関心がありますよね。
塾や、一部の私立だと数値にできる学力のみに関心が高いです。
私はどちらかというと前者の公立の学校の方が、考え方には共感するのですが(やっているのは塾)、ただ視点としては自分が教育者として何をするか?ではなく社会の一員として何をするか?をよく考えます。
スタンフォード監獄実験というのがありますが、先生役になるのが今の教育においてとても不幸なこと。その鎧を脱ぐことでとても苦労されていたり、そもそも肉体と同一になってしまって思考が硬直してしまっています。
素の自分で人と接すること、とはいえ欲望剥き出しの動物ではなく、自己実現を終えた大人の社会人として普通に接すること。
強がる必要もないし
常に正しい必要もなし
疲れている時も、怒っている時も
悲しんでいる時もある
それを若者たちに見せることができないというのは
とてももったいないなあと思います。
それができない自分をこそ、問題にすべきで
生徒の中に、問題や課題をもう見つけなくていいのではないかなと
思います。
そしてそれは先生個人の問題というよりむしろ
組織、そしてその背後にある社会の思い込みに原因があると
考えています。
さて、私が今、気になっている言葉。
それはタイトルの「個人と集団の幸せの完全な一致」。
誰か、個人のために集団が犠牲になる、
個人だけが幸せになり、集団が不幸になる、
また「良くある」と言われますが
反対に集団のために個人を犠牲にする。
どちらかが「当たり前」ではなく
「個人と集団の両方の幸せ」を目指す、という言葉。
まだつかめていなくて
でも、常に戻って考えたい言葉だなあと思っています。
偶然にもこの記事を読んでくださった方。
お考えを聞かせてください。
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