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規則は人を壊す、あるいはブラック校則とブランド

昨今「ブラック校則」問題が盛んに議論されている。校則を変えようと取り組む生徒たちの姿を見ると応援の念が湧く一方で、果たして私が今中学・高校生だったら、「ブラック校則」と戦えただろうかと複雑な心境を抱いている。

私は中高一貫の私立女子校、いわゆる地方の元「お嬢様学校」に通っていた。一部の教員との出会いを除き、未だにここに6年もいたことを後悔している。この手の学校の例に漏れず、この学校もかなり厳しい校則に縛られていた。

それでも「校則を変えることができるのではないか」と一瞬希望を抱いたこともあった。高校生の頃、生徒会が「目安箱」を設置して生徒からの意見を募っていたのだ。記憶の限りでは以下のような意見があった。

・学校祭でクラスTシャツを着たい、私服やコスプレがしたい(校内では絶対に制服でいなければならないと定められており、学校祭の時も同じだった。さらに学校祭の時に作るクラスタオルも人前での使用が禁止されていた。しまいにはタオル自体廃止された。)

・指定コートが動きづらく防寒性もない。上着は自由にしてほしい

・他の学校に比べてスカート丈規定が長すぎて動きづらい

・かばんや靴、髪留めの規定が厳しすぎる

しかし生徒会の返答は全て「校則なので変えられません」だった。

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厳しい校則については、「教育困難校での秩序維持に必要」「貧富の差をカバーする」点からの必要性が指摘される。しかしこの学校は私立であり、校則がなくなれば秩序が崩壊するような教育困難校だとも思われない。おそらく多くの女子校がそうであるように、厳格な校則は学校のブランドを保つために存在し、またその背後にはジェンダー規範の存在が認められるだろう。

ちなみに私の両親や親族はほとんど全員制服もなく校則もあってないような公立高校(いわゆる進学校、地域トップ校)出身であるが、自由な校風が原因のトラブルは特に見受けられなかったらしい。また彼らも人間なのでそれなりの欠点は存在するが、その欠点が自由な校風に由来するものとは考えられない。

だがそれならばなぜ私の両親は、小学生の頃から「校則が厳しい学校に6年もいたくない」と散々主張する子どもをあの学校に入れたのかという疑問が残る。彼らいわく「他により良い選択肢がなかったから」だと言うが、厳しく生徒の身を縛る校則がある学校に心の底から嫌がる子どもを6年間も入れておくのが良い選択肢だとは到底思えない。これまでは無意識のジェンダー規範など様々な理由を考えてきたが、最近になってより納得できる説を考えついた。それは「自由な校風(や大学、職場)の中でずっと生きてきた彼らには、厳しい規則が人の心を蝕み傷つけるということが全く想像もつかなかったのではないか」ということだ。

ちなみに最近になって流行りの?MBTI診断をやってみたところ、私はINTJ-Tだった。私が本当にINTJなのか否か、あるいはこの性格診断法自体の妥当性や信憑性はさておき、このタイプの人は規則、制限、伝統を嫌う傾向があるらしい。私自身はMBTI自体についてあくまでお遊び程度と考えているものの、この部分に関しては完璧に当てはまっていると感じる。人によって厳しい校則に対する受容は様々だと感じるが、特に私にとっては耐え難い苦痛であった。そして両親は私が苦痛を抱く可能性に全く気づかなかったようだ。(なぜなら両親が独自に私に対して厳しい規則や規範を押し付けることはほぼなかったからだ。日頃の言動からも、彼らは厳しい規則が望ましいと考えていたのではなく、規則が私の心に与える影響の重大さを全く認識していなかったと考える方が妥当だと思う。

※また私は「女子校」に行きたいと思ったことは一度もなく、小学校でも男子と仲良く過ごしていたと思う。ちなみに何も言わなければ世間ではほぼ100%私のことを「女性」に分類するだろうが、私自身は自分のことを100%の女性だとは思っておらず、強いて言語化するならXジェンダーやジェンダーフルイドという概念に近いのではないかと思う。この件に関しては別の機会に書こう。

それでも何とか生き延びて卒業した私は、大学生になってから様々なファッションや髪色を経験した。今は地毛ではあるが(天然パーマをより扱いやすくするために)パーマをかけ、服も黒が多いものの地味とは程遠いゴス・ロック・モード調の服装が多い。思想に関しても、これ以上の束縛や規則、さらに属性主義に対して強い抵抗を覚えるようになった。「文化盗用」とか「生まれ持った〇〇人の美しさ」みたいな言説に抵抗や嫌悪を感じる要因の一つは、過度に厳格な校則に縛られ、「〇〇学校の学生らしさ」を押しつけられ続けたことにあると思う。ルーツや属性、所属はその人を形作る一要素ではあるが、その属性=その人ではない。

逆説的に、私はあのような校則のおかげで今の価値観を得て、規則や既存の価値観に対する疑問を抱くことができるようになったと言えるのかもしれない。それでも私は、厳格な校則は不要であると強く感じている。

特に私学では学校のブランド力が経営戦略として重要なことはわかる。しかし学校は営利企業ではなくあくまで教育機関であり、生徒の心を押し潰してまでブランドを重視してはならないと思う。そして中学受験では学校を選択するのは親に左右されると思うが、子どもが規則に対してどのような考えを抱いているかしっかりと考えた上で、子どもの意見を聞き学校選択をするべきだと思う。

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この話題に関連する様々な言説を読んだが、個人的に気に入った一節を紹介する。随筆家のEmiko氏が文筆家の野本響子氏の言葉を引用してブラック校則の問題点をこのように指摘している。

しかし、きつめに設定した校則をきちんと守ったからと言って、将来、子供たちが「幸せになる」とは限りません。
むしろ、校則の枠に閉じ込めることで、子どもたちの心をいびつに歪めてしまうのではないか…と思います。
我慢はいいことでもあるんだけど、問題もあって。
それは、「他人を許せなくなる」人が同時に増えていくことです。自由に生きている人を見ると、
「ズルい」「私はこんなに我慢したのに、楽して生きるなんて許せない」
と怒りが増幅していきます。
野本さんのおっしゃる通りだなぁ…と、私はうなずくしかありませんでした。

私もブラック校則や必要以上に厳格な校則・規則の問題点は究極的にはここにあるように感じる。

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この記事は以前書いたブラック校則に関する投稿の下書きに加筆したものだが、加筆したきっかけは北海道日本ハムファイターズ・伊藤大海投手のインスタライブで「どうして日本では髪型などについてこううるさく言われるのだろう。他人が髪を染めようが伸ばそうが自由だろう」という趣旨の発言を耳にしたからだ。伊藤投手は天然パーマで、現在(2022年2月上旬)男性としては長髪とされるような髪の長さをしている。氏はしばしば「髪を切れ」「髪が汚い」という趣旨の非難を受けるようで、しばしばSNS上で反論する姿が見られる。私個人は伊藤投手の髪型はかっこいいと思う。しかし確かに「野球選手(というよりむしろ男性?)は髪を切れ、長髪や染髪・パーマはみっともない」という種の言説がみられるのもまた事実だ。伊藤投手の問いに答えようとすると、様々な歴史的・思想的背景を調べる必要があるだろう。あくまで予想だが、日本のスポーツ導入史や戦前の軍との関連があるのではないか。本格的に調べると面白いこと間違いないだろうが、今回はそこまで深入りしないでおこう。

(この言説と関係あるかは定かでないが、2022年シーズンから中日ドラゴンズは茶髪・長髪・ひげ禁止になったのも記憶に新しい。この方針についての意見についてはドラゴンズに関して明るくなく、また長くなりそうなので今回は差し控える。)

伊藤投手に話を戻せば彼はあくまでスポーツ(野球)界や男性に対する風潮を念頭においてこのように発言したのだろうが、私はそれを聞いて自身の中学・高校時代を思い出したので、自分の経験を元に女子校における身だしなみ規則について文章化してみた次第である。

(伊藤投手ほどの強さではないが、私自身も特に天然パーマが強かった思春期には同様の嘲笑(や校則検査での尋問)を受けたことがある。また伊藤投手並み(それ以上?)の天然パーマの父にその話をしたところ、「じゃあ俺も汚いの?ひどすぎるし人権侵害だ」と憤っていた。そのような経験があったから、伊藤投手の言動に対して心が動いたのかもしれない。

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