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本屋の空気

本が整然と並ぶ棚は、心を落ち着かせてくれる。

大量の本が並ぶ空間には、人間の脆弱なところを包むような、純粋な知的好奇心を守ってくれるような、そんな安心感がある。

どれだけわけのわからないことが起きたり、自分が失われそうな感情が生まれたりしたとしても、きちんと人間であることを肯定してくれる気がするのだ。

時間をつぶすのに困れば、外の空気を吸うか、本屋に駆け込む。

本屋なら、店内の客が、それぞれの世界に没頭しているのも良い。同じ空間にいながら、個別の世界が保証されているような感覚がある。

それは、列車町の隣人の存在について、見て見ぬふりをするのとは全然違う。別のものを見ていながら、それぞれ何かを求めてやってきているのだという、ちょっとした連帯感のようなもの。

先日行った本屋では、津村記久子さんの音声アナウンスが流れていた。初めて話しているのを聞いたものだから、自分と同じ関西弁であることに驚いた。

津村記久子さんについては、大学の講義で取り上げられたことがきっかけで何冊かを読み、過去の文芸誌に掲載されていた『第三の悪癖』を最近読み直したところだったので、何だか嬉しく思った。

しかし、自分の欲が顕著になるのも本屋である。本の表紙や帯、紹介文を見て、こんなことを知りたい、こんな気持ちを晴らしたい、こんな気持ちを摂取したい、こんなことをしてみたい、そう思う場所でもある。

本を前に、抑圧や忙しさの中で死んでいた自分の心をよみがえらせる。心のときめきがよみがえるといえば聞こえはいいが、夢を見ているともいえる。アクションを起こしてもいないのに、その夢に近づいた気がしてしまう。

あれも、これも、知識もスキルも、受容も、そしてあらゆる答えを、本の中に求めてしまう。心もとなさから装備ばかりを増やしているように思うことすらある。

そんな風に考えると、なんだか気持ちがぐちゃっとしてきて、気づけば本を3冊抱えてレジに持ち込んでいた。バッグはパンパンになった。

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