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じゃあ、えっちしようよ😚(18,330字)

 中学二年生のとき、彼女がいました。

 そんな一文から始まる文章を、書く価値のあるものだと思い込み、インターネット上に放出してしまう。アラサーになってまでそんなことをする人生を自分で選びとった覚えはないですが、それが自分の人生であるならば、引き受けなければなりません。

 私が通っていた中学校は、隣り合った二つの学区の小学校から児童が入学してくる、公立の中学校でした。こうしたタイプの中学校の場合、入学式の日に取り交わされる定番の会話というのは、「隣の学校の子でめちゃくちゃカッコいい子がいる」「めちゃくちゃ可愛い子がいる」、そういった類のものでした。別に自分から聞かずとも、隣の小学校からやってきた新しいクラスメートが「三組に〇〇っていうめちゃくちゃイケメンがいるんだよ!」「一組に△△ちゃんっていう可愛い子がいるんだよ!」などと、自分の出自を自慢するように、頬を紅潮させながら教えてくれたのでした。

 私自身は、そういった噂を立てられるには不十分な容姿の持ち主でした。
 中学に入学したころの私は、どうやったら母親譲りのそばかすを消すことができるのか、という問題に取り組んでいる真っ最中でありました。今から考えてみれば、そばかすが消えればかっこよくなれるわけではなかったので、美男美女が騒がれるなか、私は非常に低次の問題に取り組んでいたということになります。

 「人生にはモテ期が三度ある」と言われます。そんな迷信をまともに信じるならば、私の一度目のモテ期は小学三年生のときで、二度目は小学四年生のとき、三度目は小学五年生のときでした。
 小学三年生のバレンタインデーの日。同じ学年の五人の女の子がチョコを渡しに我が家にやってきました。同じ学年の女の子は全体で二五人しかいませんでしたから、学年の二〇パーセントの女の子が我が家にやってきた計算になります。これを日本全体に換算してみると、日本には約六千万人の女性がいますから、千二百万人の女性が我が家にやってきたことになります。日本で一番人気なグループの『嵐』ですらファンクラブの会員数が三百万人と言われていますから、小三の私は少なくとも嵐の四倍はモテていた計算になります。小学三年生の私もさすがに「これはモテているな」と思いました。モテることができたのは、足が速かったことと、ドッジボールが強かったこと、それから、少しの狡猾さを持ち合わせていたからでした。
 私が通っていた小学校には「遊び係」という係がありました。遊び係とは、そのクラスの毎日の朝と昼の遊びを仕切る係でした。私はその遊び係を務め、自分が得意なドッジボールや鬼ごっこをたくさん企画し、見事に活躍しました。自分が得意なものを企画し、周りの人間を巻き込みながら、自分が活躍してゆく。これはどの世界であっても権力者が行うことですが、小学三年生のころの私は何のためらいもなく、そうした権力的な動きを自然とやってのけたのでした。
 小学四年生のバレンタインデーの日。学校から帰宅し、電気を消した二階の自室の、ブラインドの隙間から外を覗き込み、女の子が来るのを待ちました。この年はチョコを渡しに女の子が六人やってきました。前年よりも、転入生の女の子が一人増えていました。
 小学五年生のバレンタインデーの日も、電気を消した二階の自室の、ブラインドの隙間から外を覗き込み、女の子が来るのを待ちました。この年はチョコを渡しに女の子が七人やってきました。これまた前年よりも、転入生の女の子が一人増えていました。
 私は、転入生からもモテました。女の子からだけではなく、男の子の転入生からも「転校は不安だったけど、お前のおかげで一日目から楽しく過ごせた。本当にありがとう」と、卒業式の日に熱い手紙をもらうほど、転入生からの評判が良かったです。本当に私は転入生に優しい人間だな、と自分でも思っていましたが、今から考えてみると、私は継続的な人間関係が得意ではなく新しい人間関係を好んでいただけで、転入生の人柄は特に関係なく、ただただ転入生が転入生であるというだけで優しくできていたのでした。これは、決して本指名はせず新規の女の子ばかり指名する風俗客の性向と似たようなもので、私は十年後に実際にそうした風俗客となりましたが、当時は、本当に自分は転入生に優しい人間なのだと疑っておりませんでした。
 
 モテ期を終えたのは、小学六年生のときでした。
 小学六年生のバレンタインデーの日。急に誰も我が家に来なくなりました。ブラインドの隙間から外を数時間覗いていましたが、一人も来ませんでした。「モテ期終わってるじゃん」と、小六ながら明確に思いました。数字というのは残酷でした。母や姉から「今年は誰も来ないの?」とプレッシャーもかけられ、非常に肩身の狭い思いをしました。
 小六のころになると、女の子たちはジャニーズの誰々がカッコいいとか、誰々のお兄ちゃんがカッコいいとか、卒業して中学生になった先輩がカッコいいとか、そういった話をよくしていました。彼女たちはそれまでとは別様に色めきだっていました。情勢が変わっているのだと思いました。足が速いとか、ドッジボールが強いとか、そうしたものが醸し出すパワーはもう失われ、外見が大切になってきているのだ。私は朝の校庭にジョウロの水でドッジボールの線を引きながら、そんなことを考えていました。
 しかし、小六のころの私は、どういった外見がカッコいいと言われているのか、どこをどうすれば自分の外見がカッコよくなるのか、わかりませんでした。外見に関して客観的な認識というものを、全く持ち合わせていなかったのです。
 そこで私は、母親譲りのそばかすに焦点を当てることにしました。それまでの人生で何度かそばかすのことを友達や友達の親からバカにされたことがありましたから、そばかすを消すことは、とりあえず外見をよくするに違いないと考えました。この不要なそばかすを消して、新しい顔で中学入学を迎え、再起を果たそうと決意しました。
 その日から私は、お風呂から上がると母親の化粧水を顔になじませるようになりました。母親はよく、お風呂あがりにリビングで化粧水やフェイスパックを使用していました。「それなに?」と、小さいころの私が聞くと、これを使うとシミやそばかすが消えるのだと言って、私の顔にも化粧水を塗ったりフェイスパックをつけてきたりしました。そのときのことを思い出し、私は母親と同じようにすればそばかすが消えるのだと考えました。
 しかし当然のことですが、中学入学前までの二か月弱という短い期間で、そばかすが消えることはありませんでした。入学式を迎えた私の肌は化粧水のおかげでスベスベになっていましたが、肝心のそばかすもスベスベになっただけでした。

 中学に入学してからの数日の間、多くの人が取る行動と言えば、噂になっている他のクラスの美男美女を覗きに行くことでした。多分に漏れず私も、スベスベなそばかすと新しくできた友達を携え、休み時間に他のクラスを回りました。
 そこで驚いたことですが、美男美女と噂されていた人たちは、クラスや出身学校の垣根を越え、私が覗きに行ったときには既に仲良くなっていました。そんな光景を見て、私は既視感を覚えました。
 私は小学生のころ、地域の少年野球チームに所属していました。週末には他の学区のチームと試合をするのですが、野球が上手い人というのは、チームの垣根を越えて、他チームの野球の上手い人と仲良くなるものでした。あいつは上手いな、あいつは凄いな。お互いが試合を通してそんな風に思っていると、その二人は惹かれ合い、なんとなしに仲良くなるのです。
 きっと顔のよい人たちも、そういった意識で生きているのだと思いました。あの人はカッコいいな、あの人は可愛いな。お互いがそんな風に思っているから、顔が良い人たちは惹かれ合ってすぐに仲良くなるのだと思いました。
 しかしそんな中、すごく可愛いと噂されていた隣の小学校出身の美咲ちゃんだけは、私にも優しく接してくれました。美咲ちゃんはどんな顔面の人間にも平等に優しくしてくれる、そんな性格の女の子で、私は「こんなに綺麗な人が自分みたいな人間とも仲良くしてくれるのか」と思いました。これは、小学生のころには抱くことのなかった、新しい感情でした。
 幸運なことに、私は美咲ちゃんと仲を深めることができました。なぜなら、私の小学校のころからの親友が美咲ちゃんと仲良くなり、休み時間や放課後に一緒に談笑しているところに、それとなく合流することができたからです。入学して一週間くらいしたころには、私と私の親友と、美咲ちゃんと美咲ちゃんの友達の四人で、よく放課後の空き教室に集まって話すようになりました。
 美咲ちゃんに関する二番目に流れてきた噂は「美咲ちゃんはめちゃくちゃエロい」というものでした。その噂通り、「クンニって言葉知ってる?」など、美咲ちゃんは積極的に下ネタを口にしては笑う、そんな人でした。私たち三人は美咲ちゃんに先導されるような形で、下ネタにのめりこんでゆきました。美咲ちゃんの知識に劣らないように、学校が終わってから家に帰ると、Yahoo!Japanの検索窓に「エロ用語集 サイト」などと打ち込み、エロ用語がまとまったサイトから新しいエロ用語を仕入れるようになりました。そして再び放課後に集まった私たちは、各々が持ち寄ってきたエロ知識を披露しあうのでした。

「ねぇ、フェラって知ってる?」
「フェラは知ってるよ」
「うん、さすがにフェラは知ってる」
「ちんこ舐めることでしょ」
「ちんこ舐めるとかやばいよね」
「汚ねー」
「じゃあ次は俺ねー、シックスナイン!」
「わかる~」
「シックスナインってなに?」
「知らないの?シックスナインの数字を想像してみ。わかるから」
「えー、わかんないよ」
「じゃあ帰ってから親に聞きな」
「親に聞くのはやばいって」
「やばやば」
「じゃあ次、美咲ちゃんね」
「うーん。カリ高!」
「カリ高ってなに?」
「やばい、聞いたことない」
「なに、カリ高って。ヒントは?」

三年後、美咲ちゃんが県一の進学校へ入学する未来をこのときはまだ知らなかったですが、今から振り返ればその頭脳は下ネタにも遺憾なく発揮されていて、美咲ちゃんは他の三人を圧倒する知識量を誇っていました。「カリ高」なんて言葉は美咲ちゃんの口から初めて聞きましたし、その後の人生において、他の人の口から「カリ高」なんて言葉を私は一度も聞いたことがありません。
 私たちが行っていたのは、放課後に集まってただ下ネタワードを披露し合う原始的な遊びでしたが、当時は非常に楽しいものでした。みんなの知らないエロ用語を自分は知っているぞという優越感。しかし、それを知ってしまったことの恥ずかしさ。知らない人が新しくエロ用語を知る成長を共にできること。それだけで、中学一年生の私たちは放課後の時間を楽しく過ごすことができたのでした。
 しかし、そうしたノリで遊んでいたのは入学して最初の二週間くらいまででした。二週間も経つとそれぞれ部活が本格的に始まって放課後に集まれなくなりましたし、そもそも、下ネタを言うだけの遊びは拡張性に乏しく、すぐに飽きました。
 そんな下ネタバブルが終了した後も美咲ちゃんと継続して仲良くできたのは、私も美咲ちゃんも携帯電話を所持しており、メールアドレスを交換したからでした。

 当時、私の住んでいた、特に都会でもない地方の中学一年生が携帯電話を持っているということは、非常に珍しいことでありました。携帯電話を持っている人は学年の一割にも満たない少なさで、所持している人のほとんどは、習い事の送り迎えのために持たされたという事情付きでした。かくいう私も、塾や習字に通わされていたので、小学四年生のころから送り迎えのために携帯電話を持たされていただけでした。
 今となっては想像するのも難しいことですが、携帯電話が普及していない世界線においては、学校生活とプライベートというのは今よりも厳然と分かれており、学校が終わった後もプライベートの時間でコミュニケーションを取る関係というのは、相当な仲の良さがなければ実現しないことでありました。友達と遊ぶにしても、自宅の固定電話から友達の家の固定電話に電話をし、「こんにちは。〇〇ですけど、△△君いますか」と、電話先の親族を介さなければなりませんでした。誰の親族も介さないで友達と直接一対一で連絡を取る、そういったことは子どもにとって不可能なことでした。
 まだ同級生のほとんどがそういった世界戦で生活している中、自分たちだけ携帯電話を持っていて、家に帰ってから個人間で連絡を取ることができる。携帯電話の先行所持がもたらしたそういった状況は、非常に特異なものでありました。
 カナダ出身の文明批評家であるマーシャル・マクルーハンは、著書である『メディア論―人間の拡張の諸相』の中で、「メディアはメッセージである」と記しています。やり取りするメッセージの内容よりも、そのメッセージをやり取りする際のメディア環境が私たちに与える影響のほうに焦点を当てるのが、マクルーハンのメディア論です。たとえ同様の情報が与えられたとしても、その情報をやり取りするメディアがどのようなものかによって受容者が情報に対して得る感覚が異なる。だから「メディアはメッセージである」とマクルーハンは言ったのです。
 まだ周囲に携帯電話が普及していない中、自分たちだけ携帯電話でメールをする。そうした状況において携帯電話というメディアが発していた暗黙のメッセージは「私たちはプライベートで関係しあう仲だよ」「これは私たちだけの秘密だよ」というようなもので、それはもう、ほとんど恋と見分けがつかないものでした。周囲のみんなが上半身だけでコミュニケーションをしてるのに、自分たちだけ下半身でコミュニケーションすることを許されたようなものでした。
 いや、実のところ「下半身でコミュニケーション」というのは比喩でも何でもなく、実際、私は美咲ちゃんとメールしてるときは携帯電話を自らの股間の上に置いて着信を待っていたわけでありますし、美咲ちゃんが考えて打ち込んだ文章が電波という形で私の携帯電話に届いて電気信号へと変わり、私の股間の上で携帯電話がバイブレーションを発動させながら「恋しちゃったんだ♪ たぶん、気づいてないでしょう♪」と、着うたに設定してあったYUIの『CHE.R.RY』が奏でられていたわけですから、比喩ではなく文字通り下半身でコミュニケーションしていたわけであります。

 中学二年生の春、私は美咲ちゃんと付き合うことになりました。
 学校が終わった後、いつものように美咲ちゃんとメールしていたときのことでした。美咲ちゃんから「好きな子とかいるの?」と聞かれ、「いるよ」と返事をすると、「さくらちゃん?」「ななちゃん?」「みなみちゃん?」と、一通に一人ずつ名前を挙げられていきました。どれにも「違うよ」と返してゆき、美咲ちゃんがあり得そうな女の子の名前を全て出した後に、「え、じゃあもしかして私?笑」とメールが来て、私は「そうです」と返しました。それから、付き合うことになりました。
 おそらく、美咲ちゃんが私のことを好きになってくれたのも、携帯電話というメディアのもつ魔力のためでした。三年後、高校生となった美咲ちゃんが前略プロフィールの「初めての彼氏は?」の欄のところに「あのころは本当にどうかしてた(>_<)記憶消したい(>_<)」と記載していましたので、そちらがエビデンスとなります。
 そんなことはさておき、付き合うことになってから美咲ちゃんと初めに取り決めた約束というものは、「このことは誰にも言わないようにしよう」ということでした。美咲ちゃんがなぜそうしようと言い出したのかはわかりませんが、私にとっても都合のよい約束でした。中学二年生の春ともなると、それまでとは学内情勢が大きく変化していたからです。

 校則を破って髪を染めたり、部室で隠れてタバコを吸ったり、授業をサボったり、他の学校の不良と喧嘩をする、そうしたグループの存在感が大きくなっていました。中でも、サッカー部のゴールキーパーであった深澤君率いる7~8人のグループが学内情勢を左右する存在になっていました。彼らは自分たちグループのことを『愚連隊』と呼んでいました。愚連隊は、悪いことを平然とすること、面白いことをすること、その場のノリを大切にすること、知的なことは言わないこと、そういったルールによって成り立っているグループのように思われました。
 私は、愚連隊のようなグループの人たちとも仲良くし、イケイケな学校生活を送りたいと欲望していました。私には、彼らがキラキラした輝かしい存在に見えました。いや、彼らがキラキラしていたのか、彼らが学内で占める地位がキラキラしていたのかと問われれば、後者であったかもしれません。私は、全盛期であった小学生時代の自分に憑りつかれていました。あのころに私が占めていた位置を、中学二年生になってからは愚連隊の人たちが占めている、そう感じていました。
 しかし、私は愚連隊の人たちとうまく馴染むことができませんでした。それは、いくつかの苦い記憶によって思い出されます。
 テストの結果が返ってくるときのことです。自分がどれだけテストの点数が低かったかをネタにし、愚連隊の人たちが教室中を盛り上げるのです。私は塾に通わされていてテストの結果が良かったので、そうした盛り上がりに入ることができませんでした。教室が盛り上がっているなか「何点だった?」と点数を聞かれ、テスト用紙を見せると、「あっ、そういう感じね」などと言われてしまいました。
 愚連隊の人たちと休み時間に会話をしていたときのことです。なんとなしに「それは愚の骨頂だなぁ」と私が言ったら、「愚の骨頂ってなに?」「かっこつけた言葉使うな」などと言われ、それから少しの間、私は「愚の骨頂」というあだ名になりました。
 音楽の時間に先生がベートーベンの『運命』を伴奏していたときのことです。音楽の授業では男子と女子で席が分かれていたこともあり、男子のほうの席では愚連隊メンバーを中心に、下ネタの替え歌を歌って盛り上がるムーブが発生しました。私もここはいっちょ受けを狙おうと思い、

「フェーラーチーオー♪ さーせーてーよー♪」

と、『運命』の伴奏に乗せながら思い切って歌ってみたのですが、それまで盛り上がっていた場が静まりました。「面白くない」「つまらない」とか言われればまだよかったのですが、愚連隊リーダーである深澤君から「お前がそういうことを言うとは思わなかった」と、心底引いたような顔で言われ、その周りの人たちも頷いていました。
 そんな風に私は、常日頃から愚連隊の人たちから「なんか違うな」と思われていました。
 そんななか最も恐ろしかったことは、愚連隊のメンバーの人たちが校内で女子と喋ってる男子を見つけては、手首をだらんとさせた右腕を天高く突き上げ、手首から先を左右にブルブルと震わせながら「ウィン、ウィン、ウィン、ウィン、ウィーンッ!」と、小学生がランドセルに付ける防犯ブザーのような叫び声をあげるムーブメントを始めたことでした。それは金属探知機ならぬ『女ったらし探知機』とでも言うべきもののような動きで、休み時間に教室や廊下を練り歩いて女子と喋ってる男子を見つけては、手首をだらんとさせた右腕を天高く突き上げ、手首から先を左右にブルブルと震わせながら「ウィン、ウィン、ウィン、ウィン、ウィーンッ!」と叫ぶわけです。そうすると、それを見つけた遠くにいる仲間が「ウィン、ウィン、ウィン、ウィン、ウィーンッ!」と、同じように天高く突き上げた腕の手首より先を左右にブルブルと振るわせながら近づいてきて、「ウィン、ウィン、ウィン、ウィン、ウィーンッ!」と叫ぶ集団が徐々に大きくなってゆく。標的にされた男子はそれがプレッシャーとなって、女子との談笑を中断し、耳を赤く染めてその場から立ち去ってゆくのでした。
 しかもこれには微妙な政治性があり、例えば、普段から男子よりも女子と仲がよい男子という存在がいて、そういう人に対しては、この探知機は発動されないのです。つまりは、普段は女子と喋らない癖に女子と楽しそうに会話をしている男子が探知の対象だったのです。女ったらし探知機というのは、要は下心探知機であり、中二になって突然湧き上がってきたこれまでにない性欲の強さに対する、集団ヒステリーのような反応でした。
 このムーブメントは約半年くらいしたころ、愚連隊リーダーである深澤君が休み時間に女の子と仲良くUNOをおっぱじめ、愚連隊の他のメンバーが深澤君に対して何度も「ウィン、ウィン、ウィン、ウィン、ウィーンッ!」と探知機を発動したにも関わらず、深澤君は性欲に脳が乗っ取られたかのように一日のうちの全ての休み時間を女の子とUNOする時間に充て、「今まであいつは散々他人のことをバカにしてきたのに何なんだ」というメンバーの不満が爆発し、深澤くんがみんなに無視されるまで続きました。
 しかし、そうした深澤君の都落ちが起きる前はこのムーブメントがいつ終わるのかは予測がつかなかったので、美咲ちゃんから「付き合ってることは内緒にしよう」と言われたとき、助かった、と私は思ったのです。「こいつ、なんか違うな」と普段から思われている私のような存在が美咲ちゃんと付き合ったことが知られれば、性欲に関してヒステリックな愚連隊が黙っちゃいないと思ったからです。

 お付き合いを始めた後の美咲ちゃんとの関係は、それまでとあまり変化は起こりませんでした。付き合ってることを内緒にすることを意識している分、かえって学校内で美咲ちゃんと関わることは少なくなりました。中学生だったからかお互いデートをするという発想にもならず、全ての熱量が以前と同様に携帯電話での連絡に集中しただけでした。いや、そもそも恋人というのは、二人だけの時間や空間を楽しむための間柄なのですから、携帯電話での連絡に熱量が集中するのは理に適っていたのかもしれません。当時はSNSもスクリーンショットも無かったので、個々人の連絡が外に晒されるということはほとんどありえず、携帯電話を用いた連絡以上に二人きりの時間や空間と呼べるものは存在しませんでした。
 ほとんど毎日のようにメールをし、付き合い初めて二か月くらいしたころ、美咲ちゃんが電話をしたいと言い始めました。

「夜の1時から電話しようよ!私から電話しようと思うけど、もしかしたら私寝ちゃってるかもしれないから、電話来なかったらそっちから電話してね(>_<)」

夜の一時になっても電話が来なかったので、私から電話を掛けました。最近何してるのか、学校の友達のこと、勉強のこと、先生のこと、今週の『あいのり』についての感想など、楽しく会話をしました。朝の五時くらいまで電話をし、美咲ちゃんが寝ると言ったところで電話を切りました。すると、画面に六千円の通話料金が表示されました。携帯電話の料金は親が払っていましたし、私のお小遣いは月二千円に過ぎなかったので、これはまずいと思いました。
 それでも、また日が経つと美咲ちゃんが電話しようと言ってきました。

「夜の1時から電話しようよ!この前は電話かけてもらったから私から電話しようと思うけど、もしかしたらまた寝ちゃってるかもしれないから、電話来なかったらそっちから電話してね(>_<)」

夜の一時になっても電話が来なかったので、私から電話を掛けました。その後も毎回、この繰り返しでした。私の月額の携帯料金は三万円を超えてゆきました。その金額の分だけ楽しい時間を過ごせていればまだよかったのですが、何度も長時間の電話をすると話のネタもなくなってきて、深夜でテンションがおかしかったことも加わり、美咲ちゃんがこれまでの人生で獲得してきた何十枚もの賞状を一枚ずつ読み上げて夜が明ける日もありました。あるときは、一年生のころの遠足で撮影した写真を見ながら「今、君のそばかすの数を数えている」と言われ、私の顔のそばかすの数を美咲ちゃんが数えることで夜が明ける日もありました。それで朝の五時に電話を切ると、その度に画面に六千円の通話料金が表示されるのでした。
 私は、何をしているのだろう、と思い始めました。電話の内容も楽しいものではなくなってきて、多額の通話料については親から激怒され、精神的にも経済的にも辛い状況に陥っていました。美咲ちゃんは何かと理由をつけてきますが、結局すべて私から電話を掛ける結果になっていて、私は美咲ちゃんの通話料を負担するATMような状態になっていました。多額のお金を払って喋ってもらうなんてまるでキャバクラのような状態で、本当に恋人なのかも疑わしくなってきて、もしかして,俺ってお客さんでしかないのカナ😅⁉️(笑)という気持ちすら生じていました。美咲ちゃんは定期的に「私のこと振りたくなったら、いつでも振っていいからね(>_<)」とメールを送ってきたので、そのメールがやってきたタイミングで「別れたいです」と送りました。

「おまえ地獄に落としてやるからな」

すぐに返信が来ました。メール送信エラーの通知が届いたのかと思うほど、迅速な返信でした。
 「おまえ地獄に落としてやるからな」というシンプルな言葉が非常に恐ろしく、バイブレーションが止んだ後も携帯電話を持っていた手が震え続けていましたが、とりあえずこれ以上は刺激しないようにしようと、返信はしないようにしました。

 その翌日でした。
  登校し、いつものようにクラスメートと会話をしようとしますが、どうもうまくいきません。無視されるか、相手にされるとしても遠くのほうを見ながら「はぁ」とか「へぇ」とか素っ気ない反応を一つした後、みんな私から離れて行ってしまうのです。最初は偶然かと思ってましたが、六人も七人もそういった態度を取るので、集団で無視をされているということに気づきました。
 みんなから無視されるのでその日は孤独な学校生活を送り、下校しようとしたときのことでした。愚連隊リーダーの深澤君を筆頭に、十五人くらいの男の子や女の子たちが私のことを後ろから追いかけてきたのです。愚連隊のメンバーだけでなく、名のない小さな複数のグループも交じっており、スクールカースト上位オールスターのようなメンツでした。中には家の方角が真逆の人もいたので、私のことを追いかけるのが目的なのだなと、すぐに気づきました。追いかけられていると理解した私は、自宅まで一生懸命に走りました。彼らは一定の距離を保ちながら、私の家まで走って追いかけてきました。
 自宅に到着したらすぐ玄関の鍵を閉め、電気をつけず、二階の自室のブラインドの隙間からこっそり外を覗きました。その十五人くらいの男の子や女の子たちが、私の家のすぐ近くのところで輪になって何かを話していました。よく見ると、小学生のころにバレンタインチョコを渡しに来てくれた女の子も一人交じっていました。あのころ窓から覗いていた光景との落差に、目が眩みました。しばらくすると、その内の一人の男の子が家に近づいてきて、インターフォンを押してきました。

「俺らの秘密、バラしただろ」

玄関のドアを開けると、開口一番にそう言われました。なんのことか全くわかりませんでした。そもそも、そんなにみんなと深い仲になれていたわけではなかったので、みんなの秘密というものを知りませんでした。

「バラしてないよ。そもそも秘密って何のこと?俺に言った秘密なんてある?俺の知らない秘密が広まってるのなら、バラしたの俺じゃないと思うんだけど」

思ったことをそのまま口にすると、「お前がみんなの秘密をバラしてるって、美咲が言ってた」と言われました。
 全く意味がわかりませんでした。そんなに大勢の秘密をバラされたのなら、バラした人の特定などすぐにできそうなものだと思いました。それなのに、なぜ信憑性の低い話を真に受けて、集団で無視するところまで話が進んでいってしまうのか。あまりの意味のわからなさに唖然とすると同時に、美咲ちゃんは本当に私を地獄に落としたのだと、感心すらしました。善悪に関わらず、有言実行というのは、それだけで感心させられるものでした。

「許してほしかったら、私ともう一回付き合って(^^♪」

その日の夜、美咲ちゃんからメールが届きました。私はOKしました。これで友人関係が元に戻るなら、という気持ちも少しありましたし、学校で会話してくれる人がいなくなってコミュニケーションに飢えていたので、メールを交わしてくれるだけで美咲ちゃんが有難い存在にも思えていました。

「明日の朝、話したいことがあるから7時15分に教室に来て(*^^*)」

もう一度付き合い直すことを承諾すると、そう言われました。OKしました。直接会って話したいことがあるのだと思いました。
 次の日、朝の七時十五分に学校に行くと、美咲ちゃんが教室にやって来ました。

「ごめんね、別れてほしい」

私は振られました。美咲ちゃんは笑顔でした。よく意味がわかりませんでしたが、意味がわからないことが常態化していたので、そんなに驚きはありませんでした。私は「わかった」と承諾しました。
 友達から集団無視され、美咲ちゃんにも振られた私は、休み時間は机の上で寝た振りをする日々を過ごすようになりました。机の上で寝たふりをするのは、思ったより快適な過ごし方でした。視界がシャットダウンされるためでした。目を開かなければならない理科室や美術室などへの移動時間や、給食の時間のほうがよっぽど辛いものでした。給食は班ごとに机をくっつけて食べるシステムでしたが、私の机だけくっつけてもらえなかったことが、日々の辛さのピークでした。
 教室で机に突っ伏しているいじめられっ子が実はめちゃくちゃ聞き耳を立てているというのはよくあることですが、私が突っ伏しながら数日の間に収集した情報によると、美咲ちゃんがだんだんと友達からハブにされ始めたようでした。どうやら、実は美咲ちゃんがみんなの秘密をバラしていたという事実が、明るみになったようでした。そりゃそうだよな、と思いました。バレないはずがないよな、と思いました。まだこの世界に正しさがあるということに、少し安堵しました。
 それから数日経った日の休み時間のことでした。愚連隊リーダーの深澤君が「ニコニコ動画のテニプリミュージカルの空耳動画、知ってる?」と、ニヤニヤしながら私に近づいてきたのです。私はわかっていました。その笑顔は深澤君の申し訳なさからくる笑顔であり、これは深澤君なりの謝罪であり、仲直りへの一歩であることを。ここで私が笑顔で応対すれば、何事もなかったかのように深澤君や、その取り巻きの多くの人たちと友達の関係に戻れるということを。
 しかし、深澤君がそのような態度を取ってきたとき、私は悔しいとも悲しいとも言い難い、不快な感情に襲われました。私はもう、自分が世界を修復できなくなっていることに気づきました。集団無視というのは初めての経験であり、他人の目ばかり気にして生きてきた私にとっては、ショックが大きすぎるものでした。特定の一人の友達と絶縁するとかとは次元が異なり、集団無視というのは私の基礎的な世界観に変更を加えてくるものでした。世界が光と闇に完全に分かれてしまったのです。新約聖書において光と闇を作ったのは神ですが、私にとっての光と闇を作ったのは集団無視でした。昨日まで仲良くしてた人たちが、口裏を合わせて一斉に無視をしてくる。明るい世界も、一瞬の内に闇に反転する。私の中にそういった世界観が生まれました。例え謝罪されたとしても、一度壊れてしまった世界観はもはや修復することはできませんでした。実際に深澤君に歩み寄られてみて、私は関係の修復よりも、世界の修復のほうを望んでいることに気づきました。しかし世界の修復はできないので、私にできることは、目の前の深澤君に苛立ちをぶつけることくらいでした。

「今さら何?無視してきたのに急に話しかけられたりしても困るんだけど」

そう返すと、深澤君はムスッとし、立ち去ってゆきました。結局そこで突っ張ってしまったので、私はその後、明確にいじめられるようになりました。その皮切りとなったのは数日後のことで、登校すると、私の机の上に「光龍卍闇龍」と白いチョークで書かれていました。「光龍卍闇龍」とは、友達がいなくなってオンラインゲームへと逃亡した私が、メイプルストーリーで使用していたアカウント名でした。とりあえず名前に「光」と「闇」がつくのはめちゃくちゃカッコいいし、「龍」をつけるのもめちゃくちゃカッコいいし、「卍」という記号を中央に添えるのもめちゃくちゃカッコいいと思ってつけた、特に意味はないけどめちゃくちゃカッコいいアカウント名でした。メモ帳にアカウント名とログインIDとパスワードをメモしていたのですが、私の机の中や鞄の中は席を外している間によく荒らされていましたから、それが流出してアカウント名がバレてしまったようでした。
 「光龍卍闇龍」というアカウント名は今から振り返ると中二臭くてめちゃくちゃダサいわけですが、集団無視によって光と闇に分裂してしまった世界への対峙を、無意識の内にメイプルストーリーのキャラクターに託し、モンスターを討伐することでそのキャラのレベルをアップさせていたからこそ、当時の私にとっては「光龍卍闇龍」という名前がめちゃくちゃカッコいいように思えたのかもしれません。

「私に振られて悲しかった?(>_<)」

美咲ちゃんがみんなにハブにされてから数日経ったころ、そんなメールが美咲ちゃんから届きました。しかし、私の心は以前よりも平静でした。美咲ちゃんも私と同じ様に集団無視を食らうところまで堕ちていたからです。一番気を遣う必要のない相手でした。唯一の対等でした。

「そっちも友達いなくなっちゃったみたいだね(>_<)」

そう返信しました。

「うるさいな、お前のせいだよ。もういい。私、キス魔になっちゃう!😚いろんな男の人にキスするの!😚」

美咲ちゃんから返ってきたメールは、意外なものでした。入学して二週間は下ネタバブルを楽しみましたが、実際に仲良くなってからは性的なことや下ネタを美咲ちゃんと交わすことは無くなっていたからです。
 それなのに急に「キス魔になっちゃう!😚」と言い出したのは、今から思えば、美咲ちゃんも友達を失って精神的なダメージを受けており、半ばやけになっていたからかもしれません。しかし、当時の私はそんな想像もできず、次のような返信をしてしまいました。

「じゃあ、えっちしようよ😚」


今思えば、当時は私も精神的なダメージを受けており、半ばやけになっていたのかもしれません。美咲ちゃんからの返事は「いいよ😚フェラもしてあげる✨」というものでした。

「ありがとう✨」

私は心の底からそう返信しました。「フェラもしてあげる」という文言の後に「✨」という絵文字をつけてくれる。そんな綺麗な文章を打てる人がいるのだと、驚きました。国語の教科書で扱われているどんな小説よりも綺麗でした。私も思わず同じ絵文字を使って感謝の念を送りました。

 一度えっちすることが決まると、それまでの争いが嘘のように消え、どこでえっちするのか、という話を粛々と進めてゆく協力体制を取ることになりました。
 まず、どちらかの家でえっちできるかを検討しました。が、親には絶対にバレたくないという意見で一致したので、お互いの家は無理だという話になりました。

「カラオケにする?」

美咲ちゃんからそうした提案のメールが来ると、私はすかさず「中学生がカラオケでえっちをしても大丈夫でしょうか」と、Yahoo!知恵袋で意見を求めました。

「カラオケには監視カメラがついているのでバレバレです。カラオケでバイトしてる時、客がセックスしてるところをバイト仲間と監視カメラで眺めて楽しみ、一番盛り上がってるところで注意しに行きました」

そうしたアンサーが得られたので、「カラオケには監視カメラがあるから無理だ」と、私は美咲ちゃんにすぐに返信をしました。
 結局、監視カメラの有無や二人の家からの距離を検討し、えっちをする場所は西友のトイレに決定しました。これが当時のインターネット民主主義の一つの成果でした。翌日である土曜日の午後二時、西友に集合することにしました。
 その日の夜は興奮してなかなか寝付けず、Yahoo!知恵袋がサジェストしてくるえっちに関する質問を読みながら夜ふかしをしました。中でも「ディープキスってなんですか?」という質問が気になりました。ディープキスとは何かよくわかりませんでしたし、もしかしたら明日することなのかもしれないと思ったので、そのページを開きました。

「まずは相手の下の右奥歯から左奥歯まで舌を這わせ、その次に上の左奥歯から右奥歯まで舌を這わせます。最後に、相手の上顎の真ん中あたりに舌を突き付けるのが、ディープキスです」

そんなキスがこの世にあるのだと、衝撃を受けました。木村拓哉が月9のドラマで披露していた深いキスの内部では、実はそうしたことが行われていたのかと驚愕しました。そのアンサーはベストアンサーに選ばれていたので、信憑性も高いように思われました。大人の世界をまた一つ知ってしまったな、という感慨に耽りました。ベッドの上で寝ながら、枕を使ってそのディープキスの舌使いの練習をしました。小学校のパソコンの授業でのブラウザトップページはYahoo!きっずでした。あのころYahoo!きっずの一人であった私は、このようにYahoo!知恵袋で大人になっていったのでした。

 翌日の朝。非常に晴れていました。自分でも信じられなかったのですが、当日になって起きてみると、全くえっちをする気がありませんでした。完全に0でした。「え、マジですんの?」と思いました。というか、「え、マジですんの?」と独り言ちていました。「え、マジですんの?」と口にした後に広がる静寂を掻き消すために「え、マジですんの?」ともう一度口にしたりもしましたが、やってくるのはやはり静寂だけでした。中学二年生の私の頭であっても「本当はしたいけど、ただビビッてるだけなのでは?」という可能性も十分に考えられましたので、「本当はしたいけど、ただビビッてるだけなのでは?」と、これも口に出して確認してみましたが、ビビッてるからできないというわけではないなと思いました。えっちしたくないという感情が、自然物のようにただそこにあるだけでした。とりあえず時間が過ぎるのを待つことにしましたが、何もせず時間が過ぎるのを待つこともできず、時おり「え、マジですんの?」と口に出しながら時が過ぎるのを待ちました。

「ゴム持ってる?」

正午近くになると、美咲ちゃんからメールが届きました。「持ってないよ」と返すと、「pregnancy」と、ダイ二ングメッセージのように英単語が一つだけ送られてきました。「pregnancy」は大学受験レベルの英単語であり中学二年生の私は全く意味が取れなかったので、携帯電話の英和辞典ですぐに調べました。「妊娠」と出てきました。私は美咲ちゃんの意図を理解しました。「ゴム買おうよ」と送りました。「どこで?」と美咲ちゃん。「無印でいいじゃん」と返しました。西友の一階の中心には、無印良品がテナントされていました。

 約束の午後二時に近づいてきたので、西友まで自転車を走らせました。太陽の日の光も、風が運ぶ海の匂いも、何もかもが感じられませんでした。護送車に乗せられているような気分で自転車を漕ぎました。自分の足で自転車を漕いでいるのに「護送車に乗せられているような気分」だなんて比喩としておかしいわけですが、そんな比喩にリアリティを感じるほど、えっちしたくなさすぎて自分の体の感覚というものがほとんどありませんでした。私の足を動かしていたのは私の意志ではなく、私の無意志に他なりませんでした。
 西友に到着しました。駐輪場に自転車を止め、中に入りました。無印良品の手前のところで待っていると「どこ?」と美咲ちゃんからメールが来ました。「無印の前にいるよ」。美咲ちゃんがやってきました。私服姿でした。情報が入ってこないので、初めて見る美咲ちゃんの私服姿に感想も浮かんできませんでした。一方で、美咲ちゃんは笑っていました。非常に笑っていました。私の服についていた「LLLLLLLL」と描かれた縦長の透明のシールがツボに入ったようでした。私は親がユニクロで買ってきた服を着てきただけでした。私は「LLLLLLLL」と描かれた縦長の透明のシールが服の装飾の一つであると信じて疑っておりませんでした。ユニクロの売り場であらゆる服に「LLLLLLLL」とシールがついているのを見ればそれがサイズを表現するシールなのだと察することはできたかもしれませんが、親が買ってきたユニクロの服が家に一着だけある状況で、それがサイズを表現するシールであるということを理解するのは、私にとって非常に困難なことでした。

「ゴム買った?」

美咲ちゃんは私の服についていた透明のシールを剥がすと、照れを隠すような笑みでそう言ってきました。「買ってないよ」と返すと、「え、買ってきてよ」と言われました。その瞬間の美咲ちゃんの表情を見て、美咲ちゃんはゴムを自分で買いたくないのだなと思いました。チャンスだと思いました。「買ってきてよ」とゴネました。本当にしたくありませんでした。「やだよ、買ってきてよ」と言われました。チャンスだと思いました。「買ってきてよ、俺もやだよ」と、さらにゴネました。本当にしたくありませんでした。美咲ちゃんは「じゃあいいよ、もう」と、唾を吐きかけてこないのが不自然なほどに私のことを蔑んだ表情で言ってきたので、私は「うん、俺ももういいよ」と言いました。自分でも驚くほどに、震えた小さな声が発されました。「帰る」という言葉を残し、美咲ちゃんが背中を向けて駐輪場のほうへ歩いてゆきました。自宅の方角へ自転車を漕いでゆく美咲ちゃんの背中を、西友の店内からガラス越しに眺めました。これが、美咲ちゃんとの最後の会話となりました。

 そんな中学二年生のころの苦い記憶が蘇ってきたのは、社会人になって、無印良品のコンセプトページを見る機会があったことでした。

 無印良品はブランドではありません。無印良品は個性や流行を商品にはせず、商標の人気を価格に反映させません。無印良品は地球規模の消費の未来を見とおす視点から商品を生み出してきました。それは「これがいい」「これでなくてはいけない」というような強い嗜好性を誘う商品づくりではありません。無印良品が目指しているのは「これがいい」ではなく「これでいい」という理性的な満足感をお客さまに持っていただくこと。つまり「が」ではなく「で」なのです。
 しかしながら「で」にもレベルがあります。無印良品はこの「で」のレベルをできるだけ高い水準に掲げることを目指します。「が」には微かなエゴイズムや不協和が含まれますが「で」には抑制や譲歩を含んだ理性が働いています。一方で「で」の中には、あきらめや小さな不満足が含まれるかもしれません。従って「で」のレベルを上げるということは、このあきらめや小さな不満足を払拭していくことなのです。そういう「で」の次元を創造し、明晰で自信に満ちた「これでいい」を実現すること。それが無印良品のヴィジョンです。
(https://www.muji.net/message/future.html)


このコンセプトページの文章を読んだとき、中学二年生のころの記憶が、一瞬で蘇りました。

「無印でいいじゃん」

美咲ちゃんから「ゴムどこで買うの?」と聞かれたとき、私はそのように返信をしていました。無印良品のコンセプトページには『無印良品が目指しているのは「これがいい」ではなく「これでいい」』とありますが、あのときに私が美咲ちゃんへ送った「無印でいいじゃん」という言葉は、まさに、無印良品のコンセプトの中心に位置する、無印良品の消費者としてお手本のような言葉でした。
 あのころは必死に、ただただ自由に、自分の気持ちのままに生きているだけだと信じて疑っておりませんでしたが、子供のころの私は、自分が思っているよりも大人がつくっている世界の上で生きていたのだと、生かされていたのだと、痛感させられました。こういったことに大人になってから気づき、それまでとは異なった色彩で自分の子どものころの記憶を思い出すという瞬間が、人生には往々にして訪れます。

 ただ、中学二年生のころの私は「無印でいいじゃん」と言いながらも、最終的にゴネまくって無印良品のコンドームを買うことができませんでした。当時の無印良品の力よりも、中学二年生のころの私の「えっちしたくないぞ」という気持ちのほうが、よっぽど強かったということなのではないでしょうか。


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