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私にとって大切なこと〜受洗を決意した理由

先日お世話になっている高齢のかたから

「そういうことは亡くなった家族が泣くよ」

と言われてびっくりしました。 どうもそのかたは私が外で自由に働いたり老若男女(特に男性)と交流することが、妻や母、女性として良くないと考えての発言でした。

「もっと自分と向き合うべき」

とまで言われましたが「亡くなった家族」を引き合いに出されたのは衝撃的でした。

家族を亡くす辛さは亡くした人にしかわかりません。

しかも「亡くなった家族が今どう考えているか」なんて家族すらわからないのに、相手を説き伏せるために使うのはどうなのでしょう。

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家族を亡くしたり人生に困ったりすると、ご先祖が、とか、ありえないスピリチュアルな話とか、宗教お誘いとか

色々な人がわざわざコンタクトしてきて、ご意見してくれます。

また泣いていても楽しくしていても「そういう行為は故人が〜」といわれ、悩んできました。

亡くなった家族=ご先祖は、生きてる家族を延々と監督するのだろうか?

自分を責め続けて、仏壇に向かっても誰も赦してはくれない。身体も壊して寝込みました。しかも誰もこんな苦しい話を聞いたり助けてもくれない

いよいよ追い詰められたときに

日頃から合唱団で聞いていたキリスト教の話や、知人に連れて行かれた教会で「あなたの罪は赦された」という牧師先生の話を聞いて、

私は家族の縁が薄く悲しい思い出ばかりだけど、

神様が愛してくださるなら、イエス様が罪を被ってくださり私たちを救うとおっしゃるなら

これからは神様の愛のなかで幸せに生きていきたい

と決めたのです。

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私を導いた合唱団の先生や牧師先生は、

神様がいかに私を愛しているか

私が困難ななかでいかに神様に呼ばれたか

神様が亡くなった家族を側に呼び寄せどんなに大事にしてくださるか

という話をされます。

亡くなった家族が泣いたり怒ったり、ましてや祟ったりしません。

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受洗を決めて牧師先生にお願いした帰り道

海を見ていたら

突然雷が落ちたように、あたりが真っ白になり、光の中に天使が三人現れて「バプテスマおめでとう!」と笑いました。

一瞬ですが不思議な出来事でした。

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これからの人生は、人のためになるように、なんらかのお力になれるように、との意思を固くしています。(そのために勉強しているし)

そして閉じこもり家族の世話だけをするしかなかった人生をいったんおしまいにして、誰かの何かという役割からも自由になり

私が私として

やりたい勉強し、旅をし、見聞を広めていきたいのです。

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私の牧師先生は「私は大好きなイエス様のように生きたい」と話されます。 

私は神様に愛されるような生き方をしたい

それを大切に生きていきたいと思います。

イースターを楽しみに今日も生きていきます。





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