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色彩に関する諸問題について【開催要項】

明日から三日、個展を開催する。個展が終わった次の日に、僕はささやかな荷物をまとめて、この街を去る。

図らずも、今回のイベントは僕の東京生活の集大成ということになる。


そんなイベントを、僕は”A WILD COLOR CHASE”と命名した。

直訳すると、「野生の色を追え」「のら色を探せ」にでもなるのだろうか。


英語の言い回しに、”A wild goose chase”というものがある。

これも直訳すると、「野生のガチョウを追う」となる。これが転じて、無駄骨を折ること、骨折り損、と日本語では訳される。

野生のガチョウをひっ捕まえるのはたいそう骨の折れる仕事ではあるものの、苦労に見合った対価が得られない、ということからきている。

野生のガチョウではなくクジャクを追いかけたことはある。なかなかに大変だった。


その表現を少しオマージュし、”A WILD COLOR CHASE”と、この展示を呼ぶことにした。

何故か。一つの疑問をーーひとまずは僕自身に対して、そしてあなたに対してーー提示したかったからだ。


色彩を追うことは、はたして無駄な営みなのだろうか?


ここで、件の題名について書くことをもって、開催要項としようと思う。


***


大人になるということは、優先順位を持つということだ。

いや、もっと正確に書くのならば、「大人になるということは、まともな優先順位を持つこと」「大人になるということは、優先順位によりシビアになること」かもしれない。

これは、ある程度の実感と重さを持って存在するテーゼである。


自分自身の趣味・嗜好から、内的に優先順位を作り出すこともあれば、そもそも周りの人間や社会が外的に順位付けする場合もある。どちらにせよ、僕らは有象無象のものごとに対して、自身のものさしを用いて、自身のプリンシパルに照らして、いささか大人ぶった顔をしてプライオリティを付与していくことになる。一定ラインの若さを超えると、ほうっておけば人生は大橋ジャンクションのように立体的に込み入っていく。否が応でもある優先順位に従ってまともにーー少なくとも、まともに見えるようにーー生き方を洗練・再構成していかねばならない。


僕たちにはみんな平等に1日24時間という、地球の運動に則った単位での時間が与えられているが、その進み方・進ませ方は決して平等ではない。ここで僕のような人間が再度指摘する必要もないとは思うが、人には人の価値基準があり、得意不得意があり、成功がある。


一つ例を挙げよう。

競争が好きで、誰かと競い合うことで自分を高めることのできる人がいる。それに対して、競争というものを好まず、ひたすらに自己の内的世界を豊かにせんとする人がいる。もちろんこの複雑な世界を簡単に割り切ってしまえるほどの二元論者ではないが、この二者のあいだでは流れる時間の粒度・密度・空気感は全くの別物である。なぜなら、ある事象に対して付与される優先順位が、その人のコミットの度合いや投資する時間的資本を大きく左右するからだ。


大学を卒業する、というフェーズにおいて、僕の周りの小社会ではまるでイングリッシュ・プレミア・リーグの4位争いのように、音を立てて優先順位が移り変わっていった。ある程度の数の友人は「社会人」という看板を手に入れ、納税者としてめでたく日本社会の構成員として認められてゆく。そのフェーズにおいて、彼らのもつプリンシパルも不可避的に変容していく。簡単に言えば、気軽に中華を囲んで無心で食べるということも、飲みながら過去の美しい思い出を懐古することも、三茶で借りたレンタカーを数時間当てもなく走らせることも、難しくなるということだ。


僕らのような自由業者ーーまたは学生気分屋、社会不適合者、ニート?ーーは、周囲のプライオリティの変容を敏感に感じ取る人種である。意外に思われることも多いが、僕を含めて皆うっすらとした不安を抱えて生きている。そんな周囲の優先順位のパラダイム・シフトの煽りを受け、孤独を抱えながらこう思う。


僕のもつ優先順位は、プリンシパルはなんなんだ?


***


本題に戻そう。

色彩という言葉を使ったのは、僕の座右の銘ーー少なくとも、重要な意味を持つ一節ーーとしてこっそりと掲げているある文が、色というものについて僕に本質的な示唆をもたらしてくれたからだ。


Um zu begreifen, daß der Himmel überall blau ist, braucht man nicht um die Welt zu reisen.
いずこにても空は青い、と知るためなら、世界を旅する必要はない。

『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』ゲーテ


スペイン語やイタリア語をはじめとするイタリック語派が口説くための言語だとすると、ドイツ語は雄弁に物語るための言語だとつくづく感じる。

単純に受け取ると、質実剛健な官僚であり、詩人でもあったゲーテが旅・好奇心というものを礼賛している一節である。


色は「違い」を鮮明に、時に残酷なまでにヴィジュアライズする。使われ方によって持つ意味を大きく異にする媒体だ。色が「違い」を映し出すからこそ、色が同じだということはある種、普遍な世界観を追認するものになりうる。空は青。雲は白。土は茶色。肌は褐色。そこに歪みも、誤差も存在しない。なんて安心なんだ。


同じ色通し、仲良しこよしを探そうとする僕たちに、ゲーテはこう投げかける。

「僕たちは住む現実は色彩豊かなはずで、空の向こうには果てしない宇宙が広がっているはずで、世界はもっと広いはずなのだ。それなのになぜ君は、わざわざ同じもの探しをして安心しようとするのだ?そもそも、すべてを見たこともないのになぜどこでも空が青いと、雲が白いと思っているのか?」


僕はメタファーとしての「色彩」を追求したい。このメタファーは、「ネタ」ともなりうるし、「宇宙」ともなりうる。「未知」でもいいかもしれないし、「違い」といえるかもしれない。


正直に書くならば、”A WILD COLOR CHASE”の題名は、僕自身に投げかける疑問ではない。反語表現とでも言おうか。


色彩を追う営みは、けっして無駄骨を折ることではない。

色彩を追う営みは、未知を、違いを、宇宙を追う営みは、根源的に譲れないプリンシパルであり、れっきとした僕自身の最優先事項なのだ。


***


設営がなんとか終わったのは前日の22:30。あとは、いつも通り店の鍵を開けて、エスプレッソマシンに電源を通すだけだ。

雨が弱くなった隅田川をまた走る。東京スカイツリーの上半分は雲に覆われている。

こんな日付が変わりそうな時間でもある程度の数のランナーとすれ違うから、本当に東京のランニング人口の多さには驚かされる。


きっとどのランナーも、とある理由があって、とある優先順位に基づいて、とある目的地に向かって黙々と足を進めるのだ。なかば半自動のマシンのように。

すでに書いたが、僕らにはそれぞれ独自のプリンシパルがある。ゴールがある。帰るべき場所がある。向かうべき目的地がある。


ナイキのかかとを鳴らして走るランナーとすれ違う。軽く会釈する。彼は彼の目的地に向かって、淡々と両足を動かしていく。


僕の目的地?

もちろん、東北だ。


***

siroao.

池尻大橋で、個展をしています。どなたでもお気軽にお越しくださいね。
・日時
4/16(sat) 13:30-19:00
4/18(mon) 11:00-19:00
4/19(tue) 11:00-18:00
・場所
BPM(東急田園都市線 池尻大橋駅 南口 徒歩30秒)

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