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シナモン香る『福耳パン』【ヘルシンキ紀行:前編】

朝6時のストックホルム・アーランダ空港。こんな早い時間に空港にいるのは、不機嫌そうな手荷物検査官か、早朝深夜便の多い格安航空の利用者ぐらいだ。

空港のコンビニでクロワッサンとパン・オ・ショコラ、そしてコーヒーをテイクアウトする。コーヒーの味は褒められたものではないが、パンはどちらとも悪くない味だ。皮はパリッとしており、バターの香りが口を満たす。スーパーでもコンビニでも美味いパンを食べられるのは、ヨーロッパの素晴らしいところだ(イギリスを除く:ヒースロー空港のサンドウィッチはスポンジと紙を食ってるようだった)。

北欧が誇るLCC・ノルウィージャン航空、ヘルシンキ行きのゲートはターミナルの一番奥。慣れたものだ。実はアーランダ空港が僕の人生で一番使っている空港かもしれない。

ヘルシンキまではたった45分のフライトだ。曇天のストックホルムを飛び立った赤の機体は、同じく曇天のヘルシンキの空を切り裂いて降下していく。眼下には、湖と森、ところどころに赤い屋根の家が見える。典型的な北欧の景観だ。

ヘルシンキ・ヴァンター空港を訪れるのはこれで2回目である。どこかのタイミングで乗り継ぎで使ったはずなのだが、すっかり忘れてしまった。ストックホルム・アーランダ空港と比べると相当小さいということに気が付く。

出口の岩の上に座ってるよ、とメッセージ。どの出口だろうとふと思ったが、ヴァンター空港の出口はひとつしかないようだ。極めてシンプルである。免税店を通り過ぎ、荷物受け取りをスルーしてゲートを抜ける。日本庭園のように、出口の外には岩が無造作に並べられている。見回すと、ひとつの背の高い岩の上に見覚えのある顔がいた。驚かせてやろう、と思って走って飛びついた。
「コウヘイ!来たのね!ポラーからの生還おめでとう」
「ついにまた会えて嬉しいよ、エリサ。変わってないね!」

北極圏の旅を終え、休む間もなくヘルシンキに来たのは他でもなく親友のエリサに会うためだ。彼女はフェールラーベンポラー2020のチームメイト。パンデミックの影響で2020年チームがキャンセルになってからも連絡を取り合い、2022年の夏に初めてラップランドで会ったのだ。

二年前 pc: Elisa Nordman

「あの日々からもう二年も経つなんて、信じられないね」
「そうね。あなたも面白そうなところに移住しちゃったりしてるし」
犬ぞり旅を成し得なかった2020年チームを、フェールラーベンが二年前にトレッキングイベントに招いてくれたのだ。日の沈まないラップランドを一週間かけて共に歩いた10人は一生の友達になった。今回こうして2024年チームとして犬ぞり旅を終え、せっかく北欧にいるのだからその時の友達に会いに行こう。そう思ってヘルシンキに飛んだのだった。
「今日はどうする?」
「私に任せといて。フィンランド観光のベストシーズンとは言えないけど、できるだけのツアーを企画しといたわ」

空港ロビーのすぐ外に停めてある彼女の車に乗り込む。シュコダの小さなハッチバックだ。エリサがシフト・バーを怠りなく操作し、シュコダは気持ちよさそうに加速する。小さなマニュアル・シフトの欧州車って本当に素敵だ。乗ってるだけでにこにこしてしまう。

「今日はからっと晴れる予報だったんだけどね」
申し訳なさそうに彼女がいう。ヘルシンキ郊外の街・ヴァンターの空は厚い雲で覆われている。
「春の北欧って感じだね。僕は好きだよ」
「まずすぐ近くに私の生まれ育った街があるからそこを覗いて、最近気になってた古本屋に行こうと思うの」
「これ以上ないプランだ」

ヘルシンキ郊外は不思議な雰囲気を持っている。北欧らしい洗練されたアーバン・デザインのなかに、そこはかとない共産主義の影響を感じさせる。どの国でも郊外の集合団地はそんなものなのかもしれないが。
「あのアパートに家族で住んでいたわ。今は近くに大通りができて少しにぎやかになったけど、昔は湖と森と海しかなかったわ」
「フィンランドそのものだね」
「今は曇りで沈んで見えがちだけど、夏の晴れた日にビーチに行くのは最高よ。友達と自転車でよく海まで出かけたわ」
そんな光景を想像するだけで心が和む。幼い頃の思い出だというビーチには、まだ少し氷が張っていた。四月とは言え、ここはフィンランドなのだ。

エリサがまたシュコダを飛ばし、たどり着いたのは丘の上のファームハウス。扉を開けると、大きな窓が太陽光をめいいっぱい取り込んだ開放的なダイニングが迎える。農家レストランのようだ。

古本屋はどちらですか、とエリサが店員に聞き、その二階の部屋に案内される。古本屋というより民家の本棚を覗かせてもらうようなかたちだ。不思議なセレクションで、外国人向けの日本の大学入試センター試験の参考書などもある。ふと見覚えのある背を見つけ手に取ると、今読んでいる『ゴールデン・スプルース』だった。
「それは何?」
「僕が今読んでる本だよ。ハイダグワイの神話的な木の謎をめぐるノンフィクションなんだ」
「へえ。あなたの投稿もブログもいつも翻訳して読んでるけど、毎日面白そうな生活をしてるわね。クラフト・ビールからなんでハイダグワイに行き当たったんだっけ?」

エリサと会った二年前、僕は岩手県の遠野市でビール作りに携わっていた。彼女もそのことを覚えていたようで、なぜ僕がカナダにいたり、今の生活と仕事をしているかを長々と語った。彼女なら長ったらしい説明でも嫌な顔をせずに聞いてくれる、という信頼感もあった。

「これ、買うわ」僕が話終わると、エリサは『ゴールデン・スプルース』を愛おしそうに持ち上げる。
「あなたのいる場所についてもっと知りたくなった。今なら一緒に読み進められるし」

ファームハウスを出ると、少し晴れ間が出てきている。昼ごはんにしよう、ということでポルヴォーという街に向かう。フィンランドの中でも最も古い街の一つだ。石畳の通りの両側にパステルカラーの楽しい家々が並んでいる。センスのいいティーショップや雑貨店が並び、夏のハイシーズンなら観光客でごった返しているのだろうが、四月の風の強い日にはそうはいかないようだ。

ここにしよう、とエリサが指さしたのはビザ屋。窓側の席に通され、ランチのピザセットを注文する。ボリューム満点かつ色彩豊かなサラダバー、ライ麦パンの食べ放題、トッピングを選べるピザと食後のキャロットケーキまでついてきて11ユーロ。北欧での外食だと考えると破格中の破格だ。

トナカイ肉をトッピングしたピザは、香ばしいガーリックソースが食欲を誘い、トナカイ肉と散りばめられたオリーブがぱりっと薄い生地の上で美しく纏め上げられている。食後に出されたコーヒーもちゃんと美味しい。北欧で外食をして、ここまで心地よい体験をできたのは初めてかもしれない。(いつも量が少ないかべらぼうに高い)

火照った顔に春の肌寒い風が気持ちいい。ポルヴォーの街を観光客気分で少し散策する。気になっていたティーショップで香り高いハーブティーをひとパック詰めてもらう。

「じゃ、我が家のキャビンに行こうか」
車に戻り、ヘルシンキ郊外へ走ることにする。エリサの家族のサマー・キャビンがあるらしい。
「その前にフィンランドのシナモンロールを買っていこう」

コーヒーをことあるごとに飲み、シナモン味やニョッキ味の効いた甘いパンを食べるというのは、北欧諸国すべてに共通した文化である。シナモンロールの世界も広く、国ごとにそれぞれ異なったスタイルをもっている。
「フィンランドのものはなんていうの?」
「コルヴァプスティ。フィンランド語で『耳を引っ叩いた』みたいな意味かな」
「耳?何か背景があるの?」
「かたちをみれば分かるよ」

首都ヘルシンキといえども街自体は本当に小さく、20分も走らないうちになだらかな丘陵地帯に抜ける。いかにも歴史のありそうなパン屋に入ると、シナモンやイーストのうっとりする香りを胸いっぱいに吸い込んだ。閉店5分前で、シナモンロールはひとつだけ残っている。みると、本当に福耳のような形をしている。

もう少し車を走らせて川を越え、小さな集落の隅にある森に入る。一階建てのキャビンが見えてくる。
「父親が27歳の時に建てたのよ。『ハンター・ハウス』って私たちは呼んでるわ」
ハンター・ハウスは丸太を積み重ねたログハウス調のキャビンだ。すぐ横に物置の小屋、子供が遊ぶ用だったのだろう小さな家もある。目の前の木々の奥には耕作地が広がっており、サギが地面を執拗に突いている。小さな畑もある。とても静かなところだ
「首都からすぐだけど、ここはもうオフ・グリッドなの。水も電気もないわ」

キャビンの中には手作りであろう家具が並んでいる。切り出した一枚板のテーブル、大きなベッド、なにかの毛皮、可愛らしいキッチン。そこかしこにレトロな小物が置かれ、空間にアクセントをもたらしている。ここはフィンランド、もちろんサウナもついている。

エリサが魔法瓶で先ほど買ったお茶を淹れてくれる。テーカップで香箱を開いたときのような麗しいアロマが花開く。『コルヴァプスティ』をはんぶんこして食べる。上にかけられたザラメ砂糖ともっちり生地の食感がたのしい。

「フィンランドではこんなキャビンをどの家族ももってるの?」
「みんなって訳ではないけど、珍しくはないわ。いい隠れ家でしょ?」
スウェーデンに住んでいた時もそうだが、北欧のひとびとの多くが年から少し離れた木立の中や湖のほとりにサマーハウスをもっていて、週末やバケーションを過ごす。ヘルシンキの都会生活なんて東京のそれと比べれば田舎暮らしに等しいだろうが、森の民族であるフィンランド人にとってはそんな地方都市からもエスケープ場所が必要なのだ。

森の中にあるミツバチの巣箱を手入れし、バルコニーでしばし太陽を楽しむ。遠くに見えるサウナ小屋の煙突が煙を吐き出した。金曜の美しい夕暮れである。これ以上サウナを楽しむに適した時間はないだろう。

「で、どうだった?犬ぞりの方は」
「願ったり叶ったりだったよ。君もいればもっと良かったんだけど」
同じ2020年チームとして選出されるもキャンセルにあった僕たちだが、僕は今年のチームで、そしてエリサも去年のチームで再度選出・参加している。年度は違えど同じ極地の旅をくぐり抜けた仲間として話がはずむ。このギアはもらえなかった、あの坂道は大変だった、かのスタッフの近況はどうか…。フェールラーベンポラーから帰還して一週間も経っていない。ヘルシンキ郊外のキャビンで夕陽を楽しみながら、ラップランドでの冷たい日々に想いを馳せる。

「いつか、の話だけど」彼女がぼそりと呟く。「あのときの、2020年のメンバーで犬ぞり旅をできたらいいね」
2年前にあった面々の顔が浮かぶ。笑い転げながら夏の北極圏を歩いたのも、今こうして僕がここにいるのも、とある公募犬ぞりチームをめぐるいろいろな奇跡と偶然の産物である。不思議なものだ。
「そうだな。きっと楽しいものになるよ」
最初にハスキーのケンネルをコネをゲットした方が計画する、という約束を交わす。

陽が傾いてきた。そろそろヘルシンキに戻ろう。帰り道でクラフトビールのブルワリーとスーパーに寄ることにする。ここよ、とエリサが車を停めたのはガラス張りの大きな建物。
「あなた、ブルワーでしょ?ここには連れてこようと思ってたの」
まるでルーブル美術館のガラスのピラミッドのような出で立ちだが、ここはブルワリー。天井がいやに高く、全面ガラスということもあって突き抜けた開放感がある。ポップなアートが空間を彩り、掘り下げて床をさらに低くした奥のスペースには巨大な醸造施設が広がっている。ヘルシンキのローカルたちがビールと食事に舌鼓を打っている。美しい店だ、と呟いてしまう。

タップにつながっているビア・リストを見て目を見開いてしまう。クラフト・ビールといえば日本もアメリカもカナダもペールエールやIPAが看板メニューとして掲げられていることが多いが、このブルワリーのセレクションは半分以上がノルディック・サワー。明日は森のサウナに行く予定なので、そこに持っていくためのビールを選ぶ。テイスティングもさせてくれるようなので試す。

『アディクテッド・トゥ・ネルソン』はヘイジー・IPA。その名の通りネルソン・ソーヴィンというニュージーランド産のホップをこれでもかと効かせた逸品だ。ネルソンの白ワインのようなフルーティさとふくよかなボディが舌の上で踊る。
『チェコ・プリーズ!』チェコのピルスナースタイル。のどごしの良いいわゆるピルスナーだと思って大きく口に含むと、むせるほどのスモーキーさで目が醒める。ここまで挑戦的に燻製麦芽をつぎこんだピスルナーは初めてで、思わずにこにこしてしまう出来である。
そして、『ネイキッド・サウナ・サワー』である。ブルワリー自慢のノルディック・サワー・スタイルの一杯。サワーは日本で輸入のものをいくつか飲んだことがあったが、どれも褒められたものではなくいい思い出がない。しかしタップ・リストの頂点に君臨する液体がグラスに注がれていくのを見ると、期待に胸が高鳴った。そして、その液体は僕の期待に怠りなく答えてくれた。
搾りたてのマンゴー・ジュースを彷彿とさせる優しいハグのような舌触り、棘のない酸味を程よいドライさも相まって、文字通りサウナから水風呂に飛び込んだ後に素っ裸でグビグビいきたいビールだ。醸造スタッフに話を聞くと、イーストを入れた後の発酵管理が肝だという。様々な試行錯誤があったことだろう。脱帽である。

やはりビールは楽しい。美しいロケーションと楽しそうな人々に囲まれ、そして大切な友人と嗜む一杯に勝るものはない。仰天するビールたちに目をひんむく僕を見てエリサも楽しそうだ。買うものを決めてレジに向かい、エリサが店員とフィンランド語で短い会話を交わす。そして彼女が頭を抱える。
「時計を見て」エリサに言われて左腕に目をやる。午後9時3分。「フィンランドのバカ!」
店員もすまなそうにしている。フィンランドでは、9時以降に持ち帰り用のお酒は売れないんだよ、と教えてくれる。3分ぐらいいいじゃないか、とお願いしようと思って、やめた。ここはカナダではなく、フィンランドだ。ここにはルールというものがあり、北欧においてお酒を扱うルールは特に大切に扱われる。また明日サウナに行く前に買おう、と話して店を後にする。

帰り道でスーパーに寄り、晩御飯と明日の朝食の買い出しをする。今夜はきのこのリゾットにしよう。ヘルシンキのダウンタウンは本当に静かで、一番大きなスクエアという場所にも人はまばらだった。あとスウェーデンに比べると、極端に移民が少ない。中東からの移民を受け入れすぎたことでスウェーデン社会は社会保障システムが不具合を起こし、治安も悪化して混沌の中にある。それに対して、ヘルシンキは未だ寡黙なフィンランド人が占めているようだ。治安も相当良い。

エリサのアパートは中心部から徒歩圏内。それでも夜はとっても静かだ。
「このアパートのオーナーがレトロなものの趣味で、内装も一昔前のままなの」階段をあがり、エリサが鍵を取り出す。「その分家賃も安いのよ」
彼女の部屋はいわゆるワンルームだ。ただ、古いヨーロッパの建築によく見られるように天井がすごく高い。窓が大きく取られていることもあり、その寸法よりも数倍広く感じられる。コンパクト・シンプル・合理的。そのなかに遊び心も見て取れる。彼女自身がデザイナーということもあるかもしれないが、よくこんな整然としたご機嫌スペースを作ったものだなと感心する。

シャワーを借りて熱い湯をたっぷり浴びる。シャワーカーテンがマリメッコなのに気づいて少し嬉しくなる。シャワールームから出るとエリサがリゾットを作ってくれていた。きのこの出汁が効いている。滋味深さが疲れた体に沁みる。おいしい。

食事を終え、パソコンで写真を見せる。エリサも去年のフェールラーベンポラーの写真を見せてくれる。そうこうしている間にどっと一日の疲れが押し寄せ、貸してもらったソファーベッドの上で眠りに落ちた。

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