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妄想短編日記 歯医者さんと菊さん

※「うそをつく精神というのが、ものを書く精神、とくに笑いをつくり出す精神を生み出すための準備活動として、非常に有効だ」(1)という別役実さんの教えに従い、日常で目にしたものから妄想したこと(ウソ)を日記にしてみる

(1)  別役実のコント教室 29頁より

殺風景な歯科医院の入り口にパイプ椅子が二つ。そこに白衣を着た人と中年と思われる女性。診察しているように見えるが場所が場所。そんな光景を目にし妄想日記第1号を書くことにする。


 朝、いつも通りに駅へと急ぐ。
 人通りの少ない路地にいつも通り、あの歯医者さんが立っている。もちろんここでいう「歯医者さん」は歯科「医師」のことではない。私は歯科「医院」のこともそう読んでいるだけだ。いつも通り閑散としたもの寂しい「歯医者さん」だった。
 だが、いつも通りとは言えない光景が目に飛び込んできた。

 閉まったシャッターの前、何かがごそごそとしていた。向かいの家が影になってよく見えない。目を凝らすと、余計にわからなくなった。
 白衣を着た歯医者さんとおばさん、がいた。
 診察をしているようだ。休院日に診察?もしや、休院日を別の日と勘違いしたおばさんに緊急対応?歯医者さんも大変だ。わざわざ来たからって追い返すことができなかったのだろう。だが違った。

 歯医者さんはワクワクしていた。

 おばさんの名前は菊さん。
 初めてこの歯医者さんに診察に来たのは半年ほど前。
 一目惚れだったという。歯医者さんは長年歯にしか興味がなく、女性とお付き合いしたことなんて全くなかった。だから、上手く声をかけられない。歯医者さんとしてなら饒舌なのに。なぜ、歯医者と患者の立場で出会ってしまったのかと愚痴を吐くのだった。

 「だったら歯科医師という立場を利用すれば?」
 と冗談混じりで言った私な言葉に、間髪入れずに
 「それだ!」
 と鼻息荒い歯医者さん。診察後、休院日に診察という名のデートの約束をした。なぜ休院日に診察なのか、彼自身も記憶がない。なんせデートのお誘いなんて初めて。歯医者さんとしてなのかいち男としてなのかだとか、頭が真っ白でなんにも覚えていないのだ。ただ、少し戸惑った菊さんの表情と「はぁ。」と納得したかしてないか微妙な返事の声だけは覚えていた。

 今日で4回目の診察デート。歯医者さんは今も診察のテイでやってるみたいだ。お話するのは診察中のみ。診察が終わればさようなら。口をいじるんだからほとんど会話できないと冗談混じりに愚痴をこぼす彼の口元には笑みが浮かんでいた。

 歯医者さん。菊さん気づいてますよ、たぶん。


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