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読書感想:「いい子のあくび」を読んで思ったこと

高瀬隼子さんの「いい子のあくび」を読んだ。
(※以下、本の内容を含みます。)


割に合わないと感じることを、見過ごしたり受け入れることができない主人公の直子が、ある日、スマホを見ながら自転車に乗ってふらふらこちらへ向かってくる中学生に対して、「ぶつかったる」という気持ちを抱く場面から始まる。

自分が少し端へよければ、ぶつからずに、傷を負わずに済むと分かっている。だけど、直子はよけることを選ばない。なぜなら、自分は何も悪くないと思うから。自転車に乗りながら、もしくは歩きながら、スマホの画面を見つめ続け、前から人が来ると分かっているのに、みんながよけてくれるのが当たり前だと思っている人がいる。そんな人のために、私が”よけてあげる”なんて、おかしい。割に合わない。

直子は自分が先に気づいてやったこと、よけたこと、ぶつかったこと、割に合わないと感じた出来事を手帳にメモして忘れない。ずっとずっと覚えて、時々見返して、それは割に合わせるために行動するときのエネルギーになっているのかな。

読んでいて、身に覚えのある感情だ、と思ったときに少しの心の痛みが伴う。
私が道を歩いていると、歩道なのに自転車2台が横並びで向こうからやってくるとき。それは大抵が学生で、歩道であろうが何だろうが、歩行者がいようがいまいが、1列になることなんて絶対にしない。
そういうとき、なんで私がよけなきゃなんないの、と思って、思っているうちに自転車と接触寸前になったことがある。
自転車が過ぎ去ったあとに残る、苛立ちと”なんで私が”という気持ち。悪いのは向こうなのに、なぜ、私だけが気づき行動することを求められるのか。

生きていると本当に”優しい人”に出会うことがあるけれど、その優しい人はそんなこと思ったりしないのかな。
”よけること”を、無意識的に当たり前に、何とも思わずにやってのける人の気持ちを知りたい。

直子は自分自身が”いい子”で居ることに過剰にこだわり、場所や人によって相手が求めるしぐさや言葉を巧みに選び取る。
恋人の大地といる時、望海といる時、圭さんといる時、そのどれもがちがうわたし(直子)だと、本書で表現されているけれど、そのとき、いつの日か読んだ平野啓一郎の分人の話を思いだした。

どの人にとっても同じ”わたし”というのはやっぱりありえないよなと思う。
私も、この人とならこういう話題がいいかも、とか、こういう事言うのは好きじゃないよね、とかいろいろ考えてる。
そうすると、本当の自分ってなに?ってふと思うけど、そんな確信的なものは結局のところ無いのかも。
いろんな人と会う、ひとりでいる、それぞれの場面で表れる、全部がまるごと本当の自分。


読んでいて、直子の気持ちを分かりたくないのに、分かると思ってしまうから、痛い。不穏な空気を終始まとっているけれど、すこし救われた気持ちにもなるから不思議。

自分のなかでまとまりきらないあれこれを、とりあえずざっと並べてみました。

他の人の感想も読んでみたいな。

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