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バスケ人生から一転 テレビ業界を目指した理由

初めまして。
この社員マガジンの話がきてから約1ヶ月半が経ち、焦りながらこの原稿を作成しています。さんま御殿担当の土井です。

思い返せばバスケしかやってこなかった人生。将来の夢は高校の教員になってバスケ部の顧問をする事でした。
ありきたりですが、そんな僕が全く関係のないテレビ業界に入った訳を話そうと思います。

僕の生い立ちとバスケ人生の始まり(北海道・静岡編)

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まずは簡単に僕の生い立ちから説明しますと、『北海道札幌生まれ→静岡→東京育ち』となります。
ここで大体「北海道生まれなんだ!北海道のどこ?海鮮美味しいでしょ!」など質問されますが、北海道には2歳までしかおらず全く分かりません。シオンの忘年会のときの余興「出身地チーム対決」でもしっかり東京組に分けられていました(笑)
静岡では2歳から7歳(小学2年生)の5年間を過ごしました。記憶もかなり残っており、大学生の頃には車で一人で静岡に行き懐かしい場所巡りをしました。小学校1年生でバスケットボールに興味を持ち地元のクラブチームに所属しました。ここから僕の人生はほとんどバスケまみれとなっていきます。

僕の生い立ちとバスケ人生の始まり(東京編)

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東京に引っ越してきた日の事はよく覚えています。
僕の8歳の誕生日の日に静岡を出発し東京に来ました。青春映画でよくある、走り出す車の後ろを追いかける友達。まさにそれを体験しました。出発する僕らの車をクラブチームのみんなが追いかけてきてくれ、その時に車で流れていたのは「ケツメイシ」の「さくら」でした。もう号泣。今思い出しても泣けてきます。
そんなこんなで東京に来て、学校では静岡弁のなまりが気に食わなかったのか、クラスでの自己紹介で「前の学校では一番足が速かったです」という発言をしてしまったからか、いじめにもあいました。
小3ながらも 東京こえぇ…と思ったことを覚えています。

東京でもバスケを始めることになり、母の友人の紹介で全国トップ3になった事もある強豪クラブチームに所属しました。小学校5年生には全国大会に出場しました。日々がむしゃらにやっていたので正直あまり覚えていません。
高校には僕の偏差値じゃ入れない頭の良い高校にバスケ推薦で入学。案の定勉強について行くのは大変でした。
バスケの方は絶好調でしたが、そんな事より人生で最初で最後の坊主を体験したのでその写真を載せておきます。

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大学からバスケ推薦の話を頂きましたが、断った方がかっこいいというなんともダサい考えで断り、保健体育の教員になりたい夢を叶える為、日本体育大学に入学しました。

大学入学ではしゃぎまくり

入学式で同い年の白井健三さんや高梨沙羅さんが挨拶をしていて感動。白井くんとは学科が違いましたが共通の友人がおり3人で2度程食堂でご飯を食べました。僕の事覚えてくれてるかな…

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日体大名物、「エッサッサ」「集団行動」ももちろん経験。
なんでもそうですが、真剣にやったからこその感動があり、良い経験をしました。
20歳を超えて白パン一丁で駆け回るのはこの時が最初で最後でしょう。

長期休みには髪の毛を染めちゃったり、バイクの免許を取得してツーリングしたり、1週間旅行と称し大阪・広島・福島と1府2県に行ったりと、とにかくやりたい事をやりまくっていました。

怪我からの引退

大学2年の夏、バスケの決勝戦 序盤で着地に失敗し、右足首の靭帯断裂と腓骨骨折。足首が向いちゃいけない方向に向いていて、痛いよりヤベェの気持ちが強かったです。ちなみに試合には勝ったそうです。
長野遠征だったため、応急処置だけしてもらい車で東京まで帰りました。

東京に戻りすぐさま病院へ行くと手術が決まり3週間の入院生活が始まりました。
これは当たり前のことなのか、骨折や靭帯断裂は怪我をした時よりも手術後の方がめちゃめちゃに痛かったです。「子供産めるな」って思うくらい痛かった。2日半は一睡もできず常に汗だくでもがいていました。

怪我復帰後も思うような動きができなかった為、僕の真剣なバスケはここで引退しました。
その後はサークルやクラブチームで楽しくバスケをし、コロナ前までバスケは週1で行っていました。

心機一転 教員を目指して

大学2年生の冬から教員になるための勉強を始めました。学習指導要領に教育基本法。ほんとよくやったなと思います。教育実習にも行き生徒から「土井先生」と呼ばれる度嬉しかったです。
大学3年の夏にアルバイトを探していたら、テレビ関係の求人があり、純粋にテレビ局の中に入りたいという興味本位で参加しました。テレ朝のでっかい会議室に飲み物とお菓子を並べていくという作業を7時間くらいやってました。バイト中に廊下ですれ違う人のほとんどが、疲れ切っていて仕事に追われているように見え、それがかっこいいと思いました。テレビ業界に興味を抱き始めたのがこの頃からです。

進路を決めなければいけない時に叔父に相談した所、「やれる仕事より、やりたい仕事を選んだら?」と言われ、今思えば大した事は言ってないようにも思えますが、当時の僕はその言葉に感化され、教員試験はやめてテレビ業界の就活を始めました。

シオン入社へ

テレビ局から制作会社。就活は結構ガチ勢でした。
シオンの就活では、ある選考の際に面接官と学生で一緒に食事をしたことが一番記憶にあります。僕らの班には冨田さんがおり、作った焼そばを美味しそうに食べる冨田さんの笑顔は今でも忘れません。

シオンに入社してからは全てが初めての体験で、辛かった時期もあれば楽しい瞬間もありました。
やっぱり成功よりも失敗をよく覚えているもので、考えてたらちょっと落ち込んできました…そんな時の秘訣は、先輩の昔やらかした話を聞く。これに限ります。
あの先輩も昔はこんな失敗してたんだ〜と思うと自分だけじゃない気がして楽になります。これはおすすめ。

学生の頃思っていたような地獄の日々ではなく、優しい?先輩に助けてもらいながら楽しく続けている気がします。

自分が仕事をしているところの写真がほとんどなく、唯一あった写真は美術品で出た警察衣装のサイズ確認をしている写真でした。

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ADってどんな仕事してるの?と聞かれた時は大体この写真を見せてこんな仕事してますと答えます。

面白い番組を自分で編集し作りたいと思い、この業界に入りましたが、まだまだ覚えることはたくさんあり、毎日が勉強です。
あの偉大なイギリスの劇作家、ウィリアム・シェイクスピア先生の言葉
「It’s necessary to walk slowly first to climb a steep hill.」
「険しい丘に登るためには、最初にゆっくり歩くことが必要である」を胸に自分のペースで一歩一歩進んでいこうと思います。

長らく話してきましたが、これまでの24年間、仲間に恵まれたなと感じました。

現状に納得せず向上心を持って日々頑張りたいです。

株式会社シオン
アシスタントディレクター
土井 皓太

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