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大怪作のあとしまつ(『大怪獣のあとしまつ』感想)

※この記事には映画を『大怪獣のあとしまつ』に関するネタバレがあります。
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映画自体が緊急事態!?

 コロナ禍です。『大怪獣のあとしまつ』が命懸けで観に行く映画かと言われれば、けっしてそうではありません。「大怪獣とオミクロン 戦ったらどっちが強いの?」と無垢で残酷な子供に言われたら、金銀マスクならぬ般若面の形相で「黙って家に籠もってろ」と頭を撫でます。正直に言葉で答えてよいのなら、映画の内容がもはや緊急事態宣言だと言ってしまいかねないからです。

 封切り初日の午後。ぼくだけの狭い世界、Twitterタイムラインで、この『大怪獣のあとしまつ』に関しての酷評が花咲きました。

 その段階での知識は予告編だけでしたので、ぼくの中で『大怪獣のあとしまつ』は、怪獣が倒された後の死骸を誰がどのように片付けるかで揉める映画、でした。
 松竹✕東映という異例のタッグで、監督は三木聡(著名人の敬称略。以下同様)。三木監督作品はデビュー作『イン・ザ・プール』だけでなく、ヒットドラマの『時効警察』も観ていますが、とりたてて特撮を駆使した巨大な何かを描く映画の専門というわけではありません。どちらかというと人物のシュールな言動を畳み掛けることで視聴者の(狭い視野から来る)野暮な突っ込みを無効化しながら「この映像作品内の世界ではそういうことなんだろうな」と思わせてくれる不思議な視聴後感を得る映像作品が多い印象です。

 かたや、ぼくの愛してやまないタイムラインの面々は、ウルトラマンや仮面ライダーや牙狼やハイスクールヒーローズやガールガンレディといった特撮アクション番組を毎週毎日のように摂取し、劇場版が公開されたとなればネタバレを踏むのを避けてスマホを伏せつつ最速上映に赴き、過去作が配信されるともなれば地上波一回限りの放映とは違うというのにプレミアム公開時きっかりに実況を始める猛者たちです。

 なぁに、酷評なんざ、いつものことでしょう。ぼくは思いました。

 きっと、特撮畑ではない監督が撮った作品を、ああでもないこうでもない、怪獣はこうあるべきだ、事件は会議室で起こってるんじゃない、考証がおかしい、合成がなっとらん…それこそ「刑事ドラマであんなふうにマグナムを撃ったら肘腕がイカれる」レベルの話を、怪獣ファンタジーに対してさもリアリティが無いとばかりに大げさにしているんでしょう。

……ところが書き込みの噴出はとどまるところを知らず、どうやらいつものことでもなさそうです。

 それに最近のTwitterは「ホーム」という面白い機能がついています。新しい投稿を優先的に表示する「最新」表示という状態から、設定で「ホーム」表示に切り替えると、自動的にぼくの趣味嗜好を汲み取って、面白そうな、フォローしてもいないツイッタラーの投稿やらいいね!の傾向から抽出してきた知らん人の投稿やらをバンバン吸収することができます。(←迂遠なTwitterディスり。いい加減Twitter社はデフォルト設定を最新表示にし、勝手にホーム表示へと解除されないように改善しろ!)
 その機能によって表示された見知らぬ映画愛好家のツイートにも、なんというか、底しれぬ怒りが溢れていました。

 荒れ狂う海を見て、これから船を出そうという漁師はいません。でも、どのナショナル・ジオグラフィックを見ても、カニ漁に限ってはベーリング海の荒波なのです。

 いざ逝かん、カニ漁へ。皆が怒り狂ってやまない『大怪獣のあとしまつ』を観て、クソミソであると貶し、擦って擦って擦りまくり、しっちゃかめっちゃかな戦いの海を牙で漕ぎ、悲しみの海は愛で漕ぎ、最速でコスパのいいインターネットの悪いオタクならではのムーブをかましてやるぜ! 船を出せ! ヨーソロー!

 勇んで出かけた映画館。目の前に現れたのは、大怪獣の死骸ではなく「大怪作の成れの果て」でした。 

解像度の高い描写

 この映画、とことん「画が保つ」作りです。後にコキ下ろしますが閣僚会議のシーンを除いて微に入り細に入り、とにかくきちんとしています。冒頭、怪獣はナレ死します。その後で、怪獣は市街を蹂躙した後に謎の光によって死に至らしめられたことが伝えられます。
 だからこそ、死骸が河川に横たわっている。人間の英知で倒せる存在なら、昭和の怪獣映画でおなじみかつパシフィック・リム2でも採用された由緒正しき「富士の裾野への誘導」などをしていたはずなのですが、不慮の事故よろしく迷惑極まりない場所に、ご丁寧に片足を高く挙げて絶命なさっている。
 映画の作法的な話ではあるのですが、この死骸が映画のすべての中心であるということが一目瞭然ですし、そこを頂点として裾野へ向かって解像度が下がっていくというのであれば、構造としてもドラマとしてもまったく問題がありません。
 つまり、怪獣の死骸とその対処に関わる部分の解像度が高ければ、突撃取材するユーチューバーの描写が雑だろうが、人物同士の恋愛があろうが、食堂の看板娘として二階堂ふみを無駄遣いしようが、ぶっちゃけかまわない。
 冒頭10分程度をみると、それがよくできていて、観終わった後からすると「いや、導入、めっちゃしっかりしてたじゃん。何で……」と困惑してしまうほどのクオリティです。

 学校に集まった若者たちのシーンで、教室の黒板に表される出征を送る会にバッテンがしてあり「ただのクラス会」と直されていたり、有事にはスマホから流れていたであろう不穏な非常警報をギャグに使ってかつての同級生を驚かせたり、空中要塞を思わせる重厚なシルエットの「弐番艦」はすでに「弐」ということで、壱番艦は怪獣を前に散ったのだろうなと想起させたり、マシンディケイダー特務部隊専用バイクが走るときに周囲の車に避けるようなアナウンスが流れる、総理大臣が窓から窺う夜景が所々停電で暗闇になっている等、とにかく解像度の高さが端々に行き届き、よい効果を与えています。
 観客に原子力発電所の事故や新型コロナウィルス蔓延という未曾有の災害体験があることを前提に、それらを想起させる映像も挟み込まれており、1カット1カットが本当に丁寧に、これが非常事態であり非日常であることをグッと伝えてくるのです。

 ああ、予告編であったとおり、ここに政治家たちの思惑や我田引水合戦が加わり、怪獣に『希望』というトンチキな名前がつけられたりする面白さが重ねられていくのだろうな。
 元号発表のようなそのシーンは、現実のカリカチュアを混ぜて笑いを誘うということだろうし、事前の酷評に反して案外面白い映画なのでは、という気にさせてくれます。
 30年ほど前に『ウルトラマン研究序説』や『空想科学読本』で本に穴が空くほど読んだ「合理的な屁理屈」の、まさにド直球で映像化じゃないですか。
 もちろん、倒した怪獣のその後の扱いについては、これまでもウルトラシリーズで何度か見てはいるのですが、お約束じゃない世界&特撮畑ではない監督から映像がお出しされたというのは、新機軸。映画好きとしては僥倖といえます。

……ひょっとして、これ単に特撮オタクが毛嫌いしている「ドラマ系邦画」なだけで、そのうちディテールから何から評価されるやつやん。事前に目にした悪評は、愛してやまない特撮を畑違いの監督に荒らされたというオタク特有の被害妄想がもたらした風評では?

 心の中の「オタクの中でも俺だけは違う、俺だけは理解できる」病が首をもたげます。

 けれど、そこから数分後には、そんな「希望」は打ち砕かれてしまうのです。

陰謀論に縋りたくなる閣僚会議

 この映画には、引き合いに出されてしまうのを避け得ない、2つの作品があります。それは『シン・ゴジラ』と『シン・ウルトラマン』です。前者は2016年公開の大ヒット怪獣映画。後者はまだ公開されていませんが誰もが知るヒーロー特撮作品のリメイクです。

『シン・ゴジラ』ではゴジラを巡って、責任をなるべく取りたくないだけでなく忖度とメンツで丁々発止する政治家たちの姿が描かれます。総理大臣が国民感情に阿って「上陸しない」と言い切ってしまったそばからゴジラが上陸したり、手順通りに御用学者を呼びつけるも結局要領を得なかったり、「総理、ご決断を。総理!」のシーンだったり、セリフ回しが堅ければ堅いほど、有事の際に人というのはこんなにも滑稽になれるものかと思わせてくれます。現実の政治家はもっとつまらない判断をする上にみっともない姿を晒しそうではありますが、それはまた別の話。

 そして『シン・ウルトラマン』は、未公開ですからその予告編映像をもって比較されるというものではありません。『シン・ゴジラ』をもって「怪獣映画」という、人によっては子供向けと切り捨ててしまうジャンルをヒット作品にまで高めた庵野秀明氏企画脚本による期待の新作。かつ、四半世紀にも渡る紆余曲折の風呂敷を畳みきった『シン・エヴァンゲリオン』の庵野秀明氏企画脚本による期待の新作。しかも、監督は「平成ガメラシリーズ」の樋口真嗣監督です。
 ということで「まだ見ぬ期待の虚像」とこの『大怪獣のあとしまつ』はラストのオチがある故に、比べられてしまうのです。
 あまりにハードルが高い。

 こういった背景もあり、閣僚会議のシーンで『シン・ゴジラ』を想起されるのは仕方ない。

 上映開始からしばらくの間は、脳内で「おれのかんがえたさいきょうの怪獣事後処理映画」が構築されます。

 政治家が出てきて「大怪獣のあとしまつ」を押し付け合うのであれば、まず自衛隊(国防軍や特務隊という架空の組織が割り当てられています)をどう動かす、地方自治体の首長はどこまで何を呑む、環境省は、厚生労働省は、国土交通省は、そしてその財源の確保に財務省は国債発行について首を縦に振るのか……。

「シン・ゴジラ後」の作品として描かれる、すでに怪獣が死んでいるため脅威は去った状態での、責任のなすりつけあい。新型コロナウィルス対策で露呈した「とにかく日本はお金がないし、かといってお金を刷りたくもないし、何もかも後手後手で政府による対策もイマイチ」という現実を見てしまったこともあいまって、一層のトンチキなやり取りが想像されます。

 早くそのシーンが観たい! 主人公やヒロインに何か過去がありそうだぞ。緊急招集がかかったようだから、いよいよ怪獣の死骸が国民生活に影響を及ぼし始めたに違いない……。見ていくうちにどんどん期待が高まります。

 どんな作戦が展開されるんだろう?
 これまで『パシフィック・リム』を筆頭とした怪獣映画やウルトラシリーズで描かれ、前述の書籍たちでも語られた、怪獣を組成する有害物質の処理、腐敗、ガスによる大気汚染、発生する謎のウィルス、河川の下流へ広がる環境問題、SF要因で遺伝子に影響を受けはじめるネズミやカラス、一攫千金を目論むアウトローたちによる遺骸の略奪、野次馬ユーチューバーによる極秘情報ダダ漏れ……。これらをどうするかという対策の集大成が始まるに違いない。

 総理大臣が出てきた! なにやら意味深な「デウス・エクス・マキナ」と書かれたメモ。これは真相を知っていながらも国家再興のために策をめぐらす名宰相の予感!?

 いよいよ閣僚会議です! 軽妙洒脱な会話劇、来る!

……けれど、これまでの解像度の高い描写、とりわけ素晴らしい特撮と美術、そして豪華俳優陣による演技の数々に支えられながらもスクリーンに投影されたのは……。

 次のような、失笑すら躊躇してしまうほどの、シュール・ギャグとは言い難いシーンの連続でした。

  • 腐敗臭はウンコかゲロか、うん、銀杏の臭いということにしよう。

  • 蓮舫議員と小池都知事を足して二で割ったような女性大臣が怪獣の死骸に登って安全性を訴え、足を滑らせて怪獣の傷口に頭から突っ込む。

  • 漢字ともハングルともとれない字と謎の言語で、怪獣の起源を主張したり、有害とわかるや国際非難を始める隣国。言語が母音から始まったり伸ばしたりが顕著だったので、逆さ言葉かなと思ったらやはりローマ字書きの逆読みだった。(パンフレットの小ネタ欄に小さく書いてあった)

  • いちいちセリフが下品な閣僚。官房長官がセリフを言うたびにカメラの前に出てくる不要な演出。政治家批判を戯画化するには場違いなモノマネ風味の表現。

  • キノコまみれとなったユーチューバーの股間に「どうして違うキノコがついてるの?」と女性環境大臣に言わせ、その報告を受けた総理大臣が同じことを言う。さらにその写真をヒロインが手で隠しながら報告などする。

  • 『パシフィック・リム』の主演女優を「怪獣退治の専門家」という二つ名のついた役で起用しつつ、つまらない天丼ギャグ(しかも少し時間があいたので天丼とわかりづらい)で出番が終わる。

  • 倒れてる怪獣の口に川の水が流れ込み、肛門から噴出されて虹が出る。

……枚挙に暇が無いというのはこのことで、「Not for me」というお行儀の良い言葉も裸足で逃げ出します。おれは一体何を観せられているんだ?

 ギャグが苦しいというのもありますが、組織や人物の設定も変です。

  • 主要人物の3人、昔の言葉で言えば「ドリカム」なんだけれども、アラタが失踪した後でアマネと結婚してるユキノ、何でそうしたのかまったくわからない。足を怪我させてしまったことへの責任というのは劇中で語られても、友人としての介助は結婚しなくてもできようものだし、政治的野心にあふれて近づいているにしては環境大臣の部下どまり。アラタが戻ってきて色目使うくらいなら、結婚せずにあてのない帰還を待ってりゃよかったのでは。

  • アマネが3年前の事故により義足になっているが、「(1)ふつうに歩けているシーン→(2)脚を大怪我した回想→(3)ふつうに歩けてるシーン→(4)金属探知機によりハイテク義足だと明かすシーン」の順で出されるため、(3)のあたりで足が悪くなさそうなことから別人(たとえば宇宙人)と入れ替わってる? という邪推が生まれてノイズになる。回想の前に義足のことを出さなかったの、何でだ。

  • 国防軍と特務隊という2つの組織を設定した理由がよくわからない。エヴァでいう戦略自衛隊とネルフみたいなことをやりたかった? と想像するには特務隊に組織としての陰謀が無く、アラタが何らかの特別な存在であるという考えからアマネが独断専行するのを作劇的にやりやすくするためのご都合に見えた。

  • 地方自治体の管轄ではないかというセリフはあるのに、地方自治体が絡まないし、その首長も出てこない。シン・ゴジラでも都知事、副知事は数カットながら印象的な働きをしていたが、政治劇をギャグにするなら政府と知事のプロレスは入れるべき時事ネタかと。

  • アラタ&ユキノの密会に使われた謎の料理屋と、そこの主人と通じていたアマネ。単なる下世話な浮気調査に見えた。

  • 立ち入り禁止区域に指定された村に帰れなくなったと食堂の女のボヤくのを聞いて、次のシーンでは爆破作戦を命懸けでやることを決心してしまっているブルース。これはブルースの性格を表しているからこそ、それがいいと考えることもできるが、感情のスイッチが切り替わる際はもっとわかりやすく(そういう場面を積み重ねる等)してほしい。動機が浅く見える。

  • 怪獣に接近するシーンではマスクや防護ゴーグルをつけてほしいが、これだと俳優の顔が隠れてしまうから、しないのだよな。(ふと思い出す『七つの会議』でのボルト破砕実験シーンでゴーグルつけてなくてヒヤヒヤしたやつ)

  • 冒頭のシーン以降、急にボケ老人風の頼りない振る舞いで最後まで(エンドロール後まで!)その調子で貫いてしまう総理大臣。閣僚たちも一癖も二癖もありそうなわりに、裏ですごい作戦を手配していたとか、国民のために一肌脱いでいたとかが一切ない。クソギャグを言うだけ。

 先ほど「裾野は解像度が低くても問題ない」と書きましたが、キャラクターが魅力的だったのはブルースくらいで、それはオダギリジョーが上手かったからだと思います。上手いというのはオダギリジョーの演技のみではなくて(俳優の演技は棒読みスナイパーちゃん以外ほとんど全員上手い)、制作としての掘り下げが至らない部分を、演技が補って余りあるくらいだったというところ。

 映画を観終わった直後、ぼくは「これは制作中にスポンサー等の横槍が入ったに違いない」とオタクにありがちな陰謀論を考えました。そんなわけはないことは、後でわかるのですが……。自分の観た作品があまりにも残念な不可解さに包まれていた場合、あらぬ擁護をして精神を保ちたくなるものです。

 ぼくの邪推はこうでした。最初はシリアス一辺倒な脚本で、解像度の高い災害後の描写と、淡々とした怪獣処理のすったもんだ政治劇を描くだけで、十分に現実社会のカリカチュアとパロディへの笑いに包まれる作品になっていたものを、中途で『シン・ウルトラマン』の特報映像を観た映画に関わる一部の人々が焦り始め、最終的に横やりが入って監督の望まぬ作品になってしまったのではないかと。

「これではシン・ウルトラマンには勝てんし、よく考えてみればシン・ゴジラの政治劇の焼き直しだ。なにかいい方法はないか……おお、笑える要素があるなら徹頭徹尾スラップスティックコメディにしてしまうってのはどうだ! ギャグに置き換えられるところはないか? 重厚な会議のシーンは差し替えだ。予算? もうあの格調高い会議室のロケ地を押さえられない? なら地下の秘密会議室ということでチープなセットで構わん、スケジュールの合う俳優だけ集めてドタバタを撮り直せ! シン・ゴジラもあそこが一番面白かったからな。それにキノコ。キノコといえばチ●ポだからな。チ●ポでいこうチ●ポで。環境大臣が怪獣の割れ目ちゃんに突っ込むところもナンセンスな感じで頼むよ」

……みたいなことがあったのではないかと。邪推もここまでくれば立派なものですが。 

 そんな陰謀論に縋りたくなるくらい、閣僚会議のシーンをはじめ、もろもろのギャグはひどかったです。一部、閣僚がいなくて俳優の数が少ないところもあったじゃないですか。もちろん、暗躍をしそうな感じで別行動をとっていたメンバーがいたという理由はあるのですが、全然そんなことなくて、別撮りにしたのは単なる収録の都合にしか見えなかったんですよね……。
 そういうオタク的な着眼点をフル稼働させてしまうほど、どうにもならない要素が上映時間のうちに次々と立ち現れては消えていったんです。

特撮と美術の素晴らしさ

 救いがあるとしたら前述したように特撮と美術の素晴らしさです。怪獣の襲撃が確かにあった。その名残となった国防軍も、戦いを繰り広げたからこそああいう機材をもって現地に指令所を立てて駐留しているのだというのが伝わってきた。ブルースを始めとした発破屋もそう。ダムにレーザーでマーキングして段取りしていく。ダムの決壊により上流から迫ってくる濁流のCGに、人類の明日が懸かった一縷の望みを見いだせました。
 人間の叡智の結集と、命を顧みずに挑む人々の姿は、怪獣映画に限らず息を飲んで見守ってしまうシーンです。
 ブルースからアラタに託されたARゴーグルが、今風のビジュアルを伴って怪獣の突貫箇所を明示する。冒頭にて強固であると表現されていた怪獣の皮膚が、終盤、決死の作業で貫かれ、爆砕ボルトが弾け、腐敗ガスが勢いよく飛び出して腐敗ガスを成層圏まで追いやる気流を作る……。

 特撮まわりに関しては、ほんとうに観たかった「作戦」がそこにあります。これは紛れもないこの作品の素晴らしい点です。

 できることなら、もっと閣僚会議のギャグシーンを削って、2つ3つ「期待と緊張がありつつ、作戦失敗の影響で事態がより悪い方へ傾く」様を映し出してほしかった。

 なぜなら、どれだけ状況が悪化しようとも、ラストのオチで「デウス・エクス・マキナ」によって事態が片付くことはこの作品の既定路線だからです。

ラストのオチについて(ネタバレ要注意)

 ネタバレします。結局、ハヤタ隊員ならぬアラタ隊員は、ウルトラマンに等しい光の巨人だったわけですよ。

 序盤で「デウス・エクス・マキナ」の単語が出た時点で、予想は容易でした。選ばれし「者」という言葉で、登場人物のうち誰かがキーだということもわかり、ご丁寧に回想シーンでは宇宙から飛来する青い光にアラタは衝突して消息を絶っていたことをビジュアルにしてくれています。

 アマネが接触する思わせぶりな学者は、光の存在を告げては引っ込み、光の形がよく知るものであるとまわりくどく言い、直後に「体の形」をスキャンする演出から、光が人体すなわち「光の巨人」であったことがわかります。

 ということで、ネタバレを書いてしまったので、そこを気にせずに『大怪獣のあとしまつ』のログラインを書くと、こうなります。

「ウルトラマンが定義されない世界で、光の巨人が怪獣を打ち倒し、人類が死骸の処理に手こずって、人間態の彼が奔走する羽目になり、再び光の巨人に変身して最終処理を担う物語」と。

 おそらくこれは、特撮ヒーロー作品の「ヒーローって結局ご都合じゃん」という様式美を笑いとするために「この映画はもろもろを逆手にとってはいますが、ラストではもう一捻りして様式美を再現したんですよ、それまで右往左往した人の営みってちっぽけで滑稽ですよね」という味つけです。これについては特に異を唱える気はありません。なぜなら、鑑賞前にぼくはこういう予想をしています。

「首都消失方式」というのは、80年代の映画『首都消失』(原作は小松左京の小説)の結末のことです。東京が物理法則を無視した雲状の壁に覆われて首都機能が失われてしまった世界で、臨時政府と外圧の問題で対処に歪みが生まれ、この壁をどうするかで人が奔走し、壁の内側と外側に裂かれた人間同士のドラマがあるという物語。
 最終的に、雲状の壁は無くなるのですが、人類の科学が勝ったのか、通りすがりの台風が連れ去ったのか、わからないんですね。まさに嵐のようなデウス・エクス・マキナ。待てよ、映画版『首都消失』はあんまり必然的じゃない恋愛描写もあったり、なんか通じるものがあるな……。

 とまれ、こういう予想をしていたのは、『大怪獣のあとしまつ』の主題は「そこじゃない」というのはわかりきっていたからなんですよね。どうやって怪獣を処理しきったかが重要じゃなく、さっきのログラインで言えば「人類が死骸の処理に手こずって」のところに比重が置かれている。
 ぶっちゃけ、ラストは渡り鳥の大群が日本に立ち寄って死骸を食い尽くして去っていき、後日談で主人公は博物館でその骨を磨いている、とかのベタなやつでもかまわないというか…。

 それくらいに構えていると、光の巨人に「なんで最初から怪獣を処分するところまでやってくれなかったの?」と聞くところまではしないでおくか、という気になります。

 さて、その疑問については、参考資料を置いておきます。

なぜアラタが選ばれたのか、そしてなぜ彼がもっと早く変身しなかったのか、その理由は誰にもわからない。

『大怪獣のあとしまつ』パンフレットより

……え、公式のパンフレットでこれ!?

この作品は何に対して真摯だったのか

 特撮オタクとしては、「クソ映画がきたぞー! 石もて追い詰めろ〜!」とやるのもいいんでしょうが、なまじっか特撮も国防軍や特務隊の美術も良かったので、振り上げた拳の下ろしどころに困ります。下品な閣僚会議ギャグがとにかく最低というわかりやすい失点はあっても、それが監督の味なのだと言われてしまえば、あとはなぜこんなにガッカリしているかを説明するのが、ちょっとむずかしい。

 ごく普通の特撮やら何やらに造詣があるわけではない人たちに、特撮オタクたるこのぼくの煮えきらない気持ちを共有、強要するコストが高いんです。それを尽くそうとすると1万字くらいかかってしまう(この記事です)

 俳優の演技もとてもいいんです。ラストの山田涼介による立ち上がりから変身までのシークエンス、めっちゃよかったですよ。土屋太鳳もよくわからない浮気設定に巻き込まれているところと染谷将太の股間キノコを隠しながら説明するところは演技の問題じゃなく演出の問題なので。バイクを駆るところ、カッコいいし。そして、オダギリジョーは前述したとおり、演出されきらない各種設定を埋めて余りある演技。

 名バイプレイヤーも集結していて、つまんないギャグをさせられているということを差し引いたら残るものが無い中で、それでもきっちりやるのがプロなんだって思わせられました。

 菊地凛子があの役をOKしたのもすごい。ふせえりが蓮舫と小池百合子を足して二で割った女性政治家モノマネを徹頭徹尾やっているのも冷静になってみるとすごい。

……だからこそ、観ろとも言えないが、観に行く人を止めるに至らない。でもこれ、ハッキリ言って壊滅的に駄作なんですよ。映像に観るところがあるだけ中途半端。

 監督・脚本のあり方にケチをつけようにも、例えばぼくが過去にめちゃめちゃ怒りを覚えた作品の『GODZILLA 怪獣惑星』通称アニゴジのときは、監督が2人いて、片方の監督に過去作を一切見せていないとか、エビデンスなく声優のファン層が拓けたとか公式が開き直るのにムカついたんですが、『大怪獣のあとしまつ』は監督のアプローチが真っ直ぐなんですよ。

 ほんとうに面白い作品を作ろうとしてセンスの古いギャグで滑って、ほんとうにいい映像を作ろうとしていい映像を作ってしまっている。

 これらの記事を読んでしまうと、さっきのアニゴジなら「監督に過去作を見せてないとか初手からアホか? 声優のファンが劇場に足を運んだ? 何開き直ってんだ? 頭に何か湧いてんのか?」なんですが、『大怪獣のあとしまつ』は「あのぅ、ウルトラシリーズで怪獣の事後処理をテーマにしたショートエピソードいくつかあるんスけど参考資料レベルでも観てないんスか……?」とか「ゴッド・ファーザーの、ベッドに馬の首を突っ込んだ部下が大変だったろうなって、そのシーンは何年も前にEA開発のゲーム版で再現されてるんスけど、周囲にそこまでフォローしてる人いなかったんスか……?」ってなんか言えないんですよね、言える距離にもないので、ここに書いたけど。

 まあでも「つまんない下ネタやらギャグやらヒロインの浮気みたいな設定、ドン滑ってる上に当世のコンプラ意識にも合ってないって誰か止めなかったんスか」とは言えるな……。
 止めて止まるものじゃないのが監督の作家性、ってことなのかもですが。

 こうやって『大怪獣のあとしまつ』がなんでこんな駄作になってしまっているのか、考えれば考えるほど、思いを綴れば綴るほど、あれだけ擦り倒してコケにしてやりたかった上映前の気概がどこかへ行ってしまい、ただただ不幸だ、みたいな感想に変化していくんです。

……何が不幸って、そりゃ脚本と演出に起因するので、やっぱ監督マターじゃねーか、ってことにはなるんですが。

「あとしまつモノ」ジャンルがあるならば

 あとしまつという観点で言うと、有名な動画があります。約50年前にオレゴン州で行われたクジラ死骸の爆破処理ニュースを編集したものです。「クジラの死骸をほうっておくと大爆発するというデマ」に転用されたこともあるので、知っている人も多いのではないでしょうか。

 浜辺に横たわる巨躯はガスで膨らみ始め腐臭を漂わせるようになったため、爆破のプロがやってきてドカーン!とやるわけです。ところが肉片がすさまじい勢いで飛び散り、近隣の駐車場に停めてあった自動車へと落下して破壊するなど、一帯に汚物を撒き散らして失敗に終わります。「やったか!?(やってないフラグ)」の極致で、最終的にブルドーザーで片付けている。最初からそれでやれよ。

 下品な閣僚会議もなく、言葉もわからなく、特撮や美術が優れているわけでもなく、演技の上手い俳優がいるわけでもなく、ただただクジラの死骸が爆破されて迷惑被る市民がいて、デウス・エクス・マキナ(ブルドーザー)が淡々とエンディングを飾って、シュールで面白い。

 この動画は物語ではありませんので、もし創作映画に「あとしまつモノ」というジャンルがあるとしたら、骨組みを変え、肉付けをし、血を巡らせることで、もっともっと面白くできて然りなのです。

 劇中人物がしたかった解体処理の逆、言うなれば肉付け処理をすることで、映画としての可能性がもっと高まるジャンルなのです。「デウス・エクス・マキナ」が、作劇にとって「都合の良い神」ならば、この肉付け処理は「苦労を重ねる人類の叡智」のはずです。

 巨大動物の爆破処理映像を超えて、物語としての『大怪獣のあとしまつ』にあったものは何で、無かったものは何なのか。
 それを考え始めると、おかしな方向に尖ったトゲトゲのついた、とんでもなく無駄なものが多かったのだなと、シンプルにわかります。さながら劇中の怪獣「希望」におけるキノコ状の突起のように……

まとめ:駄作というより大怪作

 さて、1万2千字にわたって書き連ねてきたのですが、とにかく吐き出した、という感じです。『スパイダーマンNWH』の感想よりも長文になるとは思いませんでした。まとめに入ります。

 批判としては逃げなのですが、駄作というには惜しいほど良いところがあるので、これは「大怪作」ということにしておこう、と思います。

 後年この映画を振り返る機会があるかどうかは分かりませんが、その時はおそらく、新しい「あとしまつモノ」映画を観た時ではなく、下世話なギャグが苦しい作品に出会ったときなのだろうとは思います。
 そう。今回久々に『電人ザボーガー』を思い出したように……。

……頭痛がするのでもう寝ます。映画ってほんっとにいいもんですね。

(了)


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