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質?量?オマエはどう思う? 


行動マインド

そういったものを変化させていく上で

邪魔な感情

がある事に気づいた


『妙なこだわり』


これが行動を重ねる中で

邪魔をしてくる事がものすごく多い


完璧主義の少しズレたものを

想像してもらうといいかと思う


『クオリティが低いならやらなくても変わらない』

『納得いかないものなら納得いくまでとことん仕上げたい』


仕事をしている方ならわかると思うが

そんな考えでは仕事にならない

仮にそれで仕事ができたとして

年に1個や2個の仕事ができればいい方だろう

そんな数で仕事や生活が回る人はごく少数


しかも価値観は毎日のように変わり

完璧だと思ったものは

完成した頃には

また完璧とは程遠いものとなる

永遠に完成は来ない


だからよく言われるのは

「質は後からついてくる」

「まずは質より量」

そう考えると

妥協とは人生の中で確実に必要なもの

ということになる


でも本当にそうか?と最近は思う


例えばこの自分語りを

少なからず読んでくれる人がいる

なら完璧ではなくても



『その時の自分の持てる最大の能力を発揮すべき』



と俺は考える


なぜか?

余力を持ち行動したとしても

伸びしろが果たして

あると言えるのか?

手を抜いた事実は

生涯残り続けるのに

そこに成長などありはしないと考える


文章を読んでもらう

何かをしてもらう

話を聞いてもらう

商品を買ってもらう

全てにおいて相手ありきの対人関係


そして

時間は命と同じ


誰にとっても

平等で

そして

確実に限りのあるもの


対人関係とは

相手の時間を少なからず奪う行為

である以上

そこに手抜きは許されない



を頂いて

手抜きを対価として提供する

こう考えると

俺の考えを理解しやすいと思う


クオリティが低いならやらない

なんていうのは自分の意地だけの問題



やらなきゃいけない事を

やらないはあり得ない


ちっぽけな自分を受け入れて

その現在の自分の

最大限を発揮するしかない


そもそも

成果物に対しての

好みや最低ラインは人それぞれ


自分が完璧だと思ったものが

万人に受け入れられる保証など

どこにもない



だがそれは

手を抜くという行為の言い訳にはならない


質より量の本質は

今の自分にできる最大の質

量をこなす事で

質をも少しづつ向上させる

ということではないのか?


でなければ

相手にも

そして

能力を出し切らなかった自分自身に対しても

これ以上無いほど失礼な行為

俺の文章はまだ拙い

伝えたい事の半分も伝えきれていない

でも伝えようと本気で書いている

そこに手抜きは一切ない



今の自分の

最高のパフォーマンスを発揮して

学び

そしてそれをアップデートし続ける


この姿勢は

今後何を始めるにしても

継続していくつもりだ

5年後、10年後

「今とは全然ちげぇなー
この時の俺マジ下手くそすぎw」

なんて言えるためにも

今のちっぽけな自分を受け入れ

改善を繰り返す



まだまだ俺にもオマエにも

伸びしろしかないんだから


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