ハイデガーにおける哲学と人間、芸術と人間 ——「芸術作品の根源」を中心に(卒業論文)第2章

2-1 神殿作品における「歴史」の贈与


 第2部の冒頭でハイデガーは、前章の考察について振り返る(25)。「芸術は芸術作品において現実的に存在する」という事態が、芸術作品の根源としての「芸術」を求める洞察のうちで、作品を考察する理由であった。その「現実性」という事態について反省した結果得られた洞察が作品存在のうちには「物的なもの」があるということだったが、この「物的なもの」への接近は失敗したのだった。ハイデガーによれば、それは「作品の物的な下部構造の問いとともに、われわれが作品をむりやり先取りし、この先取りによって作品の作品存在への通路をわれわれ自身に対して遮断するから」(25)だという。現実にある作品を分析していくことのうちでは、我々はそれを作品として先取りしてしまっていた。この先取りという事態は、本稿で見た「根源学」のプロジェクトと類比的に考えられる。ハイデガーが問題にしているのは、芸術作品が考えられる時には、色眼鏡がかけられてしまっていることなのだ——例えば、「美術商」は芸術作品を値段の観点から見るだろう。ここでは如何なる観点からも切り離して芸術作品を見るということをハイデガーは要求している。
 ハイデガーの要求はさらに厳しい。古代や中世のありようを残している建築芸術を我々が訪れることによっても連関から芸術作品を断ち切ることはできないのだ。彼によれば、そこでは「世界は崩壊してしまっている」(26)。どうしてだろうか。そこでは、作品そのものはあくまで「[歴史的に]過ぎ去ってしまったもの」(27)として、「対象」(27)として立っているからだ。そこで作品との連関を作っているのは作品の前に現れる我々である。しかし、そこまで厳格に、「あらゆる連関の外にあるとき、」——ここでは対象として我々に現れるということも除かれなければならない——「作品はなお作品であり続けるのだろうか」(27)。
 しかし、これを考察する方法が、もし「作品存在」という、今検討したいものの側から考察するということだったら、そこには、「存在」から「現存在」に向けて問うことにも似た困難があるだろう。ハイデガーはここではもう一度芸術作品を検討する。その際我々の足掛かりになるのは先に予示された「真理の一つの生起」が芸術作品の本質であるという事柄である。ここではその事柄を純粋に考えるために、「何ものも描写していない」(27)建築作品をハイデガーは考察対象として取り上げる。ハイデガーが「真理」という語で指示しているのは、先のゴッホの絵画でもそうであったようにそれが表象することの正しさではなかったからである。
 神殿は、それが神殿であることによって神が現前する場を開く。そこでなされていることは「この区域を聖なる区域として展開し、境界画定すること」(27)とも言えるだろう。しかし、そこで起きていることは、それだけではない。神殿を建立するということにある人間存在にたいする意味をハイデガーは以下のように記す。

神殿作品は、誕生と死、災難と天恵、勝利と屈辱、忍耐と退廃——が、人間本質にとってその命運という形態を獲得するあの諸命令と諸連関との統一をはじめて接合し、同時にその統一をそれ自身の周りに収集する。これらの開いた諸連関を支配する広がりこそが、この歴史的な民族の世界である。この世界から、そしてこの世界の内で、この民族ははじめて自分自身へと立ち返り、彼らの使命を完遂するに至るのである。
Das Tempel werk fügt erst und sammelt zugleich die Einheit jener Bahnen und Bezüge um sich, in denen Geburt und Tod, Unheil und Segen, Sieg und Schmach, Ausharren und Verfall — dem Menschenwesen die Gestalt seines Geschickes gewinnen. Die waltende Weite dieser offenen Bezüge ist die Welt dieses geschichtlichen Volkes. Aus ihr und in ihr kommt es erst auf sich selbst zum Vollbringen seiner Bestimmung zurück. (27, 28)

 このフレーズを解釈するために、「歴史的な民族の世界」という語を考えよう。ハイデガーは『存在と時間』において、「歴史」という語の実存的意味を検討している。通常なされている理解における「歴史」の語義をハイデガーは「実存しつつある現存在の時間のうちで生ずる種別的な生起のことであって、しかもその際、相互共存在のうちで「過去となって」いながら、同時に「伝承されて」いて、さらに影響を及ぼしつつある生起」(GA2, 501)の強調されたものとまとめている。なるほど、「歴史」というものが生まれるためには、時間のうちで「過去」という種別化がなされる必要がある。しかし、そうした種別化における過去のうちで、——「日本の歴史」と言ったとき、それが「日本」という領域で起きた全ての出来事を指すわけではないように、——通常は全てが歴史なのではない。その中で、相互共存在、すなわち世界を「他者と共にしている」(GA2, 118)現存在、のうちで過去として認められ、伝承され、現在や未来に対して影響しているもの(ハイデガーは「我々は歴史から逃れられない(Man kann sich der Geschichte nicht entziehen)」という言い方を検討している(GA2, 500))こそが、「歴史」なのである。
 さらにハイデガーは、歴史と現存在との連関を分析する。博物館にある事物は歴史的なものであるが、ハイデガーはこの事物が歴史的になったのを、この事物の変化として考えようとする。それらはかつては「特定の使用道具」(GA2, 503)(芸術作品であっても、この文脈では鑑賞のための道具として語りうるだろう)であったのに対し、今は「使用されていない」(Ibid.)という違いがある。しかし、その違いは、相続品を我々が歴史的であると見なすことから根本的なものではないとされる。ここで過去のものとなっているのは、かつての現存在が、その道具を用いる時に、依拠していた連関、「世界(Welt)」(Ibid.)なのである。ハイデガーはこのことから「第一次的に歴史的なもの」(GA2, 504)はそうした「世界」にあった現存在であり、我々が普段歴史的なものとしてみなす、ものや出来事は「第二次的に歴史的」(Ibid.)であるとする。
 しかし、このことは一見我々の考え方と符合しないものである。というのも、我々が「歴史からは逃れられない」というとき普通念頭に置いてるのは、「ある親族の元に生まれたこと」など自らの環境を取り巻く様々な状態であるが、それが第二次的な歴史になってしまうからである。第一次的に歴史的なものが現存在の側だとするのならば、そうしたことにはならないのではないか。ハイデガーが「本来的歴史性(eigentliche Geschichtlichkeit)」(GA2, 511)と「非本来的歴史性(uneigentlichen Geschichtlichkeit)」(GA2, 512)の区別によって考察しようとするのはこのことである。 
 「非本来的歴史性」というのは、先に見たような環境を歴史と見做して、それに引っ張られながら生きていくという我々のありようである。それに対し「本来的歴史性」という語でハイデガーが意味するものは、ハイデガーの「現存在」に関する様々な議論を踏まえてのみ初めて検討しうるものであるが、以下では渡邊(1999)の整理に従って確認する。現存在にとって、本質的なことは、おのれ自身が世界に存在して、そして死ぬことによって存在しなくなるということである。その事実を見つめるとき、我々はいかにあるべきかという「運命(Schicksal)」をまずは死から獲得しようとするが、しかし、死というものは、我々にあって現実的なものではなく可能性にとどまる以上、「何も出てこない」(注31)。従って、我々が引き戻されるのは「被投性」、すなわちこの世界の中に存在してしまっているという事態である。この事態を見つめることによって我々は己自身の無力とともに、我々を取り巻く世界内存在しているということの他の様々なものの偶然性を明察するのだ。この明察を与えるものこそが「運命」であり「本来的な歴史」なのだ。
 しかし、そうした「運命」とは我々が世界において一人であるのではない共存在である以上、他者との関係によって規定されている側面を持つ。そうした側面をハイデガーが「共同運命(Geshick)」(注32)と呼ぶ。そうした運命を共にする存在が「民族(Volk)」(GA2, 508)という語で語られる(注33)。
 我々が『存在と時間』を検討したのは、神殿作品についてのハイデガーの文章を理解するためであった。『存在と時間』において論じられているのは、「本来的には」「民族」のうちにあって「運命」を生きているという現存在のありようであった。一方で、先の引用に見られる神殿作品はそうしたありようを我々に対して与えるものであるということができるだろう。それが提示するのは、様々な(第二次的に)歴史的な、過去にあって起きた事態ではない。そうではなく、「誕生と死、災難と天恵、勝利と屈辱、忍耐と退廃」という、それによって初めて様々な事態が意味を持つ(あるいは第二次的に歴史化されうる)ような事態を「はじめて」与えるというのだ(注34)。
 この節の冒頭でハイデガーが掲げた問題は、作品の作品存在に関して、それが、我々との連関の外でも作品であるのかだった。このことについて、ハイデガーは答えを明示的には書いていないのだが、しかし、我々はそれに対して回答を与えることができるだろう。そこにおいて初めて運命が生起するものとしての作品は、本来、むしろ我々を我々として世界内存在させるものなのであり、その限りで、連関の外においても作品なのである。次節においては、ハイデガーの議論を追いつつ、作品のそうした連関の外にあって、我々を根拠づける限りでの作品の動向を考察する。

31. 渡邊(1999、339頁)。

32. 「運命」「共同運命」の語の区別は『存在と時間』に独特のものであることが、ハイデガー(1971、593頁)の訳註において指摘されている。

33. このように議論を追ったときに、「歴史」や「民族」といったものが——のちに見る「世界」「大地」などと同様に——、我々の普段そうであると考えているものと必ずしも一致する概念でないことは理解されよう。「誕生と死」の意味が「日本人」ゆえに一意に定められているというような極めて極端な立場をハイデガーがとっていたと見なす必要はないのである。それゆえ、Figal(2017 S. 46)のような、他の国々や歴史的文脈においても芸術作品が理解されうるという事実は批判として必ずしも十分ではない。また、作品の存在が成立させる「民族」が「共存在」のことではないかという議論は、その筋道は異なるものの、瀧(2017)5-7頁でもなされている。

34. なお、関口(1989)は、この挙げられている8つの語句がそれぞれ対概念と結ばれていることについて、『形而上学入門』との関連で読解している。この著作の該当箇所においてハイデガーはヘラクレイトスの「ロゴス(λόγος)」概念を解釈している。「ロゴス」は「生起する全て、すなわち、存在することに至る全てのものが」「則ってそこに立つ」「存続する集めること」(GA40, 136)として理解されるが、「自身の意見Eigen-sinn」(GA40, 139)に固執する人間たちはそれを傾聴することがないとされる。そこで聞かれないこととは「生の中に踏み入るものはなんであれ、同時に死ぬことをも始めている」(GA40, 140)というような対立するもの同士が連関しあっているという事態であり、——我々はしばしば直面している事態の裏側を考えない——、これこそが「命運」である。

2-2 贈与の根拠としての「大地」


 我々に対し、命運や、昼の明るさ、動物・植物といったものの意味を初めて与える芸術作品のこの働きを、我々が居住するための「根拠」を与えているということもできるだろう。ハイデガーはこうした芸術作品が与える「根拠」を「大地」(28)と名づけ、その性質を「保蔵するものとして、立ち現れるもののうちで、その本質を発揮する」(28)と表現する。
 ここでの「保蔵する(bergen)」という語に注目しよう。1ー4で見た道具の信頼性の議論においてもこの動詞は用いられている。そこでは信頼性は「単純な世界にそれが保蔵されていること(Geborgenheit)」(20)を与えると言われている。先に見た議論では道具の信頼性とは、道具の、我々に対し道具をその内部に含む連関(有用性)を世界に与えることの、根拠となる物であった。大地が根拠を与えるのは有用性に対してではないのだが、「保蔵」というありようについては平行的に理解できるだろう。すなわち、それは、我々に対して、様々な意味を与えるという仕方で、その立ち現れる意味として本質を発揮しながらも、なお、そうした事態を下支えするものとして、その全体は浮かび上がってこないような仕方で、ある、という事態である。
 こうした大地のありようを検討するために、次にハイデガーが考えるのは「作品は作品素材から制作される([Werk] sei aus [Werkstoff] hergestellt)」(31)という言い方である。ここでの「制作する(herstellen)」という語は、her(こちらへ)stellen(立てる)とも読むことができるのだが、なぜ、この「制作」と言う事態がこう名づけられるのかというのが、ハイデガーの問題である(32)。
 制作という事態の中における「作品素材」(32)のありように注目すると、そこでは道具の制作とは違ったことが起きているという。ハイデガーによれば、道具は、それを作るための素材を、有用性に向けて「役にたて」「使いはたし」「抵抗をなくす」(32)限りで、良いものとして作られる。このような事態については『存在と時間』のうちに的確な表現がある。道具の制作において意味づけられた世界では「自然はわずかに事物的にしか存在していないものでも、自然力でも」(GA2, 95)ない。「森は造林であり、山は石切場であり、川は水力であり、風は「帆にはらむ」風なのである。」(GA2, 95)一方、作品の制作の場合では事情は異なる。そこではかえって「素材を現れてくる(hervorkommen)ようにさせる」(32)ことがまず起きているのだ。ハイデガーはこれを、神殿において岩が現れている例で説明している(注35)。
 こうして現れるときの岩は、道具の中で「消滅してしまった」(32)素材とは異なって、我々に、堅牢さや色彩、肌触りなどさまざまな仕方で現れるであろう。そうした仕方で現れるときの岩は、しかし常に我々の「侵入を拒む」(33)とハイデガーはいう。このことは、先の道具の例と比べてみればわかるだろう。銅が「資源」として出会われるのに対し、銅像は我々に対して、そのように出会うことを拒む強度を持つのである——このことは「忠犬ハチ公像」が戦争末期に溶かされたという事実に対する我々の「哀しみ」にも現れているだろう、我々にとってはそれは本来溶かし得ないものなのである(注36)。素材のこのような性質をハイデガーは「自らを閉ざすこと(Sichverschließende)」と呼び、それこそが「大地」の根拠としての堅牢さを支えていると論じる(33)。
 節の内容をまとめよう。芸術作品のうちにある、我々が世界内存在するための運命を与えるものとしての「大地」については、「保蔵するもの」という性質があったのだった。それは、我々に「運命」として現れながらもその全体像をあらわにすることはないというありようのことだったが、なぜそのようなことが起きるかというと、その違いは道具と芸術作品の制作の違いにあるのだった。道具と異なり、芸術作品のうちで素材が持つ「自らを閉ざすこと」というありようが、それに対応している。

35. このことの極端な表現は無音のうちで素材としての音が初めて現れさせるジョン・ケージ《4分33秒》や立方体のまま剥き出しに置かれていることのうちに鉄を初めて現れさせるリチャード・セラ《チャーリー・チャップリンのためのベルリン・ブロック》のうちに見られるだろう。こうした作品に関しては、むしろ、のちに触れることとなる「闘争」があるとすれば「世界」はどのように作品に現れてきているのかを考えることが重要に思える。

36. 戦争の中にあって、そのような「ありえないこと」が起きてしまった原因は、ハイデガーの技術論におけるGe-stell——森一郎はこれを「総駆り立て体制」と訳す(ハイデガー(2019))——、すなわち人間を含めた全てのものを資源化してしまう、現代における技術のありようについての概念の検討から分析ができると考えられるが、ここでは詳述しない。

2-3 芸術作品における「闘争」


 作品のうちで起きていることの全体像を見るには、しかし、その素材の側にある大地というありようのみを捉えるのみではいけない。作品の中の動向のうちには、「運命」を生じさせるような、さまざまな意味の開示も起きていた。ハイデガーはこのようにして開示されるものを「世界(Welt)」(30)と呼ぶ(注37)。作品における「大地」「世界」という二つのありようは、一方は我々に対して閉ざされており、一方は我々に対して開けるという仕方で異なっているが、ここには、相補的な関係があることが容易に指摘できるだろう。大地は「世界」を保蔵するという仕方で「安ら」わせながら、そのようにして現れる世界のうちにおいてのみ、自らの堅牢さを「浮き立たせる」のだ(35)。このような、開閉という対立を持ちながら、「一方が他方をそれらの本質の自己主張へと高める」ありようを、ハイデガーは「闘争(Streit)」と表現する(35)(注38)。
 そうである限り、二つの動向を統一するものとしての作品は、大地と世界とを絶えず闘わせなければならないとハイデガーは言う(36)。このことは、不完全な作品を想像してみればわかりやすいだろう。ハイデガーは「鎮静化し、同時に調停する」ことを作品としてあってはならないこととしているが、例えば、大地の勝利として闘いを鎮静化させたならば、それは、素材の堅牢さをそのまま示すことになる。例えば石を大自然の中に置くことはこの一例になるだろうが、それは芸術作品としてみなされないだろう。それゆえ、そこには我々が世界を見出す契機も存在しない。ここでは大地も世界も提示されない。あるいは世界の勝利というものがあるとすれば、それは素材をもはや消滅させることであって、これは道具を制作することと一致するだろう。しかし、道具に直接遭遇することからは、世界開示的な機能も生まれてこない——先に「靴」の信頼性を見出すことができたのが、道具に対して間接的に遭遇することによってだったことを思い出すべきである——。

37. ここでの「世界」と、先に確認したような『存在と時間』における「世界」との間の異同については瀧(2017)に指摘がある。瀧によれば、『存在と時間』のうちではあった「有意義性」から「世界」を語る観点はなくなったものの、「現存在をも含めた存在者の一切がそのうちで現われることになる「場」とでも言うべきもの」が扱われている点では共通している(2頁)。

38. なお、ここでハイデガーが「闘争」を「不一致」や「不和」といった「撹乱」「破壊」から区別していること(35)は失敗している芸術作品を考えるヒントにもなろう。失敗した芸術作品においては片方がもう片方の「本性を剥き出しさせる」ことがないために、素材が素材としてのありようを失ったり、素材がその剥き出しであることのために作品に統一した世界を与えることに失敗していたりするのだ。


2-4 ハイデガーにおける「真理」概念


 前章において、作品の二つの動向とその統一が論じられた。それによってハイデガーが与えた規定は作品を「世界」と「大地」との「闘争」と見なすものである。この更新された概念規定を基に、ハイデガーは第1部末尾において示されていた芸術作品の規定、「真理の生起」における「真理」とは何であるかに接近しようとする(36)。
 「真理」の本質は「真正性」や「本質」とは区別されなければならないことをまずハイデガーは指摘する(36, 37)。というのは、「真正性」としてこれを考えると、「真正性」こそが「真」であることの根拠となっている一方で「真」に存在することが「真正性」の根拠となってしまい、空虚な「堂々巡り」(36)になってしまうからである。また「本質」について考えると、あらゆるものに共通する類概念としての「本質」は、あらゆるものが「真理においてそれである」(37)ところのものを指し示しているのであるから、「真理」を前提とした時に語ることのできるものにすぎない。加えてハイデガーが「真理」の本質として退けるのは「認識と事柄の一致」である(38)。真理概念として長く哲学が受け入れてきたこの概念は、実のところ単独では使い物にならないのである。なぜか。事柄が「隠れなく」現れるという契機がそこには不可欠だからである。そうでなければ、我々は誤った認識や陳述を単に「今」現れているものと同一であるからといって真理と見做してしまいかねないだろう。
 ハイデガーがこのようにして受け入れる真理概念はギリシアにおいて真理を意味した「アレーテイアάλήθεια」(隠れなさ)である。この概念で指し示しているものは、それが(認識と対置されるべき)事柄に関して言われているものである以上、我々の側から獲得されるものではない。我々はむしろそれと遭遇することによって、初めて認識との整合を云々できるのだという他ないが、しかし、そのようなものといかに遭遇するのだろうかと、ハイデガーは問う(39)。
 そもそも「隠れなさ」とは如何なるものであろうか。まず我々が「存在するもの全てを荒削りに捉える」(39)仕方をハイデガーは以下のように記述する。

物が存在し、そして人間が、贈り物が、犠牲が存在する。動物と植物とが存在し、道具と作品とが存在する。存在者は存在のうちに立っている。隠された運命は、存在を貫いて、神的なものと神への叛逆の間で決定的なものとなっている。存在者についての多くを人は認識することができない。わずかのもののみが認識されうる。認識されたものもおおよそのものにとどまり、よく認識されたものも安全でないものにとどまる。あまりに容易にそう思われるが、存在者は決して我々の作ったものでも、表象に過ぎないものでもない。
Die Dinge sind und die Menschen, Geschenke und Opfer sind, Tier und Pflanze sind, Zeug und Werk sind. Das Seiende steht im Sein. Durch das Sein geht ein verhülltes Verhängnis, das zwischen das Gotthafte und das Widergöttliche verhängt ist. Vieles am Seienden vermag der Mensch nicht zu bewältigen. Weniges nur wird erkannt. Das Bekannte bleibt ein Ungefähres, das Gemeisterte ein Unsicheres. Niemals ist das Seiende, wie es allzuleicht seiheinen möchte, unser Gemächte oder gar nur unsere Vorstellung.(39)

 しかし、ハイデガーによれば、さらに別のものが、「存在するものを超えて」「周囲を取り囲んで」「生起する」(39, 40)。ハイデガーはそれを「明け開け(Lichtung)」(40)と呼ぶ。そして、その「明け開いている中央」が、「すべての存在者の周囲を囲む」(40)というのだ。
 ひとまずハイデガーの言を追おう。「明け開け」とは、ハイデガーのいうには「我々以外の存在者」や「我々がそれであるような存在者へ」と出会わせる条件を与えるものであると同時に、存在者を存在者たらしめるものである(40)。その点で、それは「隠れなさ」の条件である(40)。
 一方でまた、ハイデガーはそれを「隠れること」の条件であるともいう(40)。

存在者は、見かけの上では極めて些細な一つのことを別として、我々に身を任せることを拒む。この一つのことというのにたやすく出くわすのは、存在者についてわずかに言えることが、それは存在する、ということに限られる時である。拒むこととしての「隠れること」は、まずそして単に認識のそのつどの限界であるのではない。それはむしろ、明け開かれたものの明け開けの原初である。しかし、隠れることは同時に、もちろんこれと別の方式によってであるが、明け開かれたものの内部にも存在する。存在者が存在者の前面に躍り出る。一方が他方を覆い隠し、前者が後者を暗くし、わずかなものが多くのものを塞ぎ、ばらばらのものがすべてのものを否認する。ここでは隠れることは前述した簡単な拒むことではない。むしろここでは存在者は確かに現出はするが、存在者がそれであるのとは異なってである。
Seiendes versagt sich uns bis auf jenes Eine und dem Anschein nach Geringste, das wir am ehesten treffen, wenn wir vom Seienden nur noch sagen können, daß es sei. Die Verbergung als Versagen ist nicht erst und nur die jedesmalige Grenze der Erkenntnis, sondern der Anfang der Lichtung des Gelichteten. Aber Verbergung ist zugleich auch, freilich von anderer Art, innerhalb des Gelichteten. Seiendes schiebt sich vor Seiendes, das eine verschleiert das andere, jenes verdunkelt dieses, weniges verbaut vieles, vereinzeltes verleugnet alles. Hier ist das Verbergen nicht jenes einfache Versagen, sondern: das Seiende erscheint zwar, aber es gibt sich anders, als es ist. (40)

 さらにハイデガーは後者の「隠れること」を「偽装すること(Verstellen)」であるという(40)。この二重の「隠れること」を我々は区別できない。このことをハイデガーは「隠れることはみずからをみずから自身で隠し偽装する」(41)と表現する。そのようなありようをしている「明け開け」こそが、「隠れなさ」としての真理である(41)。
  さて、ここではどのようなことが言われているのだろうか。そもそも問題になっていたのは「隠れなさ」としての真理がなにものであるのかだった。それは我々が存在者に出会うことの前提として、考えられていた。なるほどだとすれば「存在するもの全てを荒削りに捉える」仕方では捉えられないものがそれであるはずである。このようにして指示される(それ自体は、我々に対して存在者として出会われないながらも、「存在者の側から想起するならば、存在者より一層存在する」(40 傍点引用者))「明け開け」の、「隠れなさ」の条件であるとまとめられた事柄はこのようにして理解できる。
 「隠れること」の条件だということについてはどうだろう。ハイデガーが一つ目の「隠れること」として指示している事柄は、存在者に対して我々が「存在する」としか言えないということであった。いかにして、存在者一般の「存在する」ということがあるのかという問いは、ハイデガーの思索が終始問うたものであるが(注39)、その事態が指されているということができるだろう。存在者をさらなる存在者に解体するのではない仕方で「存在する」という事態を問うことを(注40)、「隠れなさ」は「拒む」のであり、そのようにして「拒む」ことのなされた上で「明け開け」が現れるのだ。
 二番目の「隠れること」は、ハイデガー自身が出している例から考えることができる。ハイデガーは「偽装すること」のゆえに「我々が存在者を見間違えたり思い違えたり」「道に迷ったり違反したり、そのうえに測り損なったり」するのだという(40)。そうした事柄が起きるとき、我々は例えば、信号機が存在するにもかかわらず存在しないと考えたり、縄が存在するにもかかわらずヘビが存在すると考えたりするだろう(なにも存在しないにも関わらず存在すると考えるというのは考え難いだろう(注41))。存在者を見落とすという事態のためには、存在者はすでに「明け開け」のうちにある必要がある。それゆえこの「隠れること」は「明け開け」の内部で起きるということができるだろう。また、見間違えている限りでの我々の側からすれば、確かに「存在する」ということがそれ以上何ものか見えないことと同じような「見えなさ」がそこにはあり、二つの「隠れること」は見分けがつかないものであろう——ハイデガーが前者を「認識のその都度の限界であるのではない」とわざわざ言っているのは、認識と事柄との一致としての「真理」とこれとの「見分けのつかなさ」を表現しているものと考えられる——。
 本文に戻ろう。ハイデガーは、我々が普段「隠れなさ」のみに関わっているときには「居心地の良さ」があるという(41)。このことは、信仰すなわち神の存在を究極的なものと認めることで全てを「隠れなさ」のもとにおくことの与える安心のような仕方で考えることができるだろう。それに対して、「隠れること」が示すのは、「安全なものは根本においては安全ではない。すなわち、不気味である」という事態である(41)(注42)。しかし、この不気味さは、先に「明け開け」についてみたときにそうであったように、真理というものに必然的に付き纏うものである。真理は常に「隠れること」を伴っていることをハイデガーは「真理は常に非真理である」とも表現する(41)。
 また、「明け開け」として真理が現れるときには、「隠れなさ」と「隠れること」という事態がともに起きるはずである。ハイデガーはこのことを「対立する根源闘争(Gegeneinander des ursprünglichen Streites)」と表現する。先に見たようにハイデガーは「闘争」を、それぞれが相手の本質を自己主張することとして理解していた。ここで「根源闘争」と言われているのは、「隠れなさ」が(「明け開け」を前提とする以上)「隠れること」によって支えられていること、それに対して、そのように「明け開け」における「隠れなさ」としてのみ「隠れること」が主張されうるということとしてまた理解することができる。

39. 例えば(GA2, 367)。

40. ハイデガーの哲学史への批判の主要な論点の一つに、従来の形而上学が「存在者の存在者性」を問題にしていたこと、それゆえ形而上学が自己原因としての神を扱う神学に辿り着いてしまうことというのがある。(GA9, 378, 379)など。

41. 幻聴や幻視といった例をハイデガーがどう考えるのかは不明だが、それらについてはそれを引き起こす観念があり、それが「偽装され」たとは言えるだろう。

42. 小田部(2009)は、この「安全なもの」「安全ではないもの」と『存在と時間』における「居心地の良さZuhause-sein」「居心地の悪さUn-zuhause」との連関について指摘している。「居心地の悪さ」は我々のうちで「不安Angst」というあり方をとるが、それは『存在と時間』においては我々が「存在」に向き合う契機として考えられていた(GA2, 242)。いま安全なものの「根本」として捉えられているのが、先の「明け開け」の議論で見たように存在者の「存在」という根本事態であったことは、この平行性の理解のために役立つだろう。

2-5 芸術作品における「美」としての「真理」


 前節で見た「根源闘争」としての「真理」と、「闘争」という芸術作品の動向のうちには明らかに平行性があるだろう。ハイデガーが次に見るのはこのことである。しかし、ハイデガーは真っ先に留保をつけようとする(注43)。

[…]世界は単に明け開けに対応した開けたところなのではないし、大地も隠れることに対応した閉鎖されたところなのではない。むしろ世界は、あらゆる決定が従っている本質的な諸命令に道を開くことの明け開けなのである。しかしあらゆる決定は、克服不可能なもの、隠されたもの、動揺させるものの上に自らを建てる。さもなければ、それは全く決定などではない。大地は単に閉ざされたところなのではなく、それは自らを閉ざしているものとして立ち現れるものである。
[…][D]ie Welt ist nicht einfach das Offene, was der Lichtung, die Erde ist nicht das Verschlossene, was der Verbergung entspricht. Vielmehr ist die Welt die Lichtung der Bahnen der wesentlichen Weisungen, in die sich alles Entscheiden fügt. Jede Entscheidung aber gründet sich auf ein Nichtbewältigtes, Verborgenes, Beirrendes, sonst wäre sie nie Entscheidung. Die Erde ist nicht einfach das Verschlossene, sondern das, was als Sichverschließendes aufgeht.(42)

 「真理」における「明け開け」がそのうちで隠れなく示すのは存在者であった。それに対して、「世界」の「明け開け」が示すものは、先の神殿の分析では「歴史的な民族の世界」(28)とされていた。ここの「あらゆる決定が従っている本質的な諸命令」というのもまさしく同じ事柄を、すなわち「運命」を指しているということができるだろう。したがって、単なる「明け開け」とは異なって存在者の一種である「運命」を「世界」は示すものであるといえる。しかし、我々が運命というものを正視することになるのは、それが抗い難く、神秘的で、衝撃的なときに限られるだろう。そうした類のものに基づかない限り、運命に従わされた「決定」は起きないのである。「運命」に対して、その根拠を与えるのが「大地」である。「大地」もこの点で、「隠れなさ」と違っていなければならない。「隠れなさ」は我々に現れないままでもその前に存在者を与える——それゆえしばしば「忘却」される——、のに対し、「大地」は、「運命」を我々に与えるための強度として、堅牢さを保ちながら、立ち現れる必要がある。
 しかし、依然として残るこの平行性は「真理」と「大地」「世界」との間に特別な関係性を生み出している。「真理」が「大地」「世界」の条件となるのは、「真理」の上ではじめて何ものかが存在者として現れうるということから、特別なことではない。しかし、闘争において「世界」と「大地」とが本質を明らかにすること、その事態のうちで特に「大地」が「隠れること」を確かに伴って、それでも立ち現れるというのは、「真理」にとって類い稀な事態を起こす。そこで「真理」はその剥き出しの姿を生起させるのだ。こうした関係をハイデガーは次のように要約する。

一つの世界を打ち建て、大地を現出させるのは、闘争を引き受けるものとしての作品である。その闘争とは、そのうちで、全体としての存在者の隠れなさ、すなわち真理が闘いとられるものである。
Aufstellend eine Welt und herstellend die Erde ist das Werk die Bestreitung jenes Streites, in dem die Unverborgenheit des Seienden im Ganzen, die Wahrheit, erstritten wird. (42)

 作品の動向を正確に捉えるには「全体の」という語を強調することが重要である。作品の「大地」の堅牢さ(そのうちには、抗い難さ、神秘、衝撃が含まれる)は、たんに作品に表象されているもののみを映すのではない。それは、存在者全体の根底にある「隠れること」を「暗示」するのだ。
 ハイデガーはこのようにしてある大地の堅牢さの上に美を見出す。というのは、「自らを隠す存在は、そこで明るみに出される(gelichtet)」のであり、そのようにしてある「光(Licht)が作品における輝き(Scheinen)」、それこそが「美(Schöne)」だからだ(43)。そのため「美は一つの方法であり、そこで真理は隠れなさとしてある」(42)と語られる。この道を逆に辿れば、美は、そこにおいて、我々を動揺させ、存在者全体の「存在する」ということにある「隠れること」を暗示するものであるということになる(注44)。美しいものを前にして「私はこのために生きていたのかもしれない」と思う経験を考えれば、このことは真に美しいものを前にして我々が経験する事態をまことに示しているとも言えるだろう。しかしそのうちに大地の堅牢さが契機としてあることを思索によって新たに暗示した点で、言葉遊び以上の意義がある。

43. 関口(1989、57頁)は、「根源闘争」が「芸術作品の根源」においては「世界」と「大地」との間で争われる、としておりまったく平行的に扱っているが、以下見るように、正確には平行的ではないだろう。

44. このように「真理」との関係で「美」を考えるハイデガーが、従来の「美学」における「美」をどのように理解したかについては小林(1998)。

2-6 「真理」を問題とする哲学と芸術


 この章では、「作品存在」の動向がまず問題となった(2−1、2−2、2−3)。しかし、その問題は、第1章の議論においても予示されていた「真理」との関係で論じられた。2−4では「真理」が単独に論じられたが、2−5、2−6では、「作品存在」におけるそれのありようが問題になった。一方で、本稿は『芸術作品の根源』の読解を行いつつも、その中での「芸術作品」と「哲学」との関係を見据えようとしていた。そのために、本節では「真理」との繋がりから関係を扱うとともに、その関係を、1−7、1−8で見た「形式的暗示」の議論とも繋げつつ論じることを目指す。なお、これを考えるために、以下では1947年に発表された論文「『ヒューマニズム』について」を参照する。というのは、これは哲学者ジャン・ボーフレ(Jean Beaufret, 1907-1982)に1946年に宛てられた書簡がもとになった書物だが、そこでハイデガーが、自らの哲学が誤解されてきたとして、そのほかの哲学と区別する形で思想を概括的に語っているからである。
 論文のうちで、ハイデガーは、自らのかつて示した命題と、ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartle, 1905-1980)の実存主義の命題とを比較している。ハイデガーの命題は、「現存在の「本質」は現存在の実存のうちにある(Das >Wesen< des Daseins liegt in seiner Existenz)」(GA9, 325)であり、サルトルの命題は「実存(essentia)は本質(existentia)に先立つ」(GA9, 328)である。ハイデガーは自らの命題の「現存在」という語に対して、注意を促している。その語は伝統的には「現実的なものの現実性(Wirklichkeit des Wirklichen)」(GA9, 325)を表すために用いられていたが、彼が『存在と時間』で意味していたのは「人間が、「現」すなわち存在の明け開けである([Mensch] [ist] das »Da«, das heißt die Lichtung des Seins)」(Ibid.)ことであるというのだ。この表現の意味は、先に見た『存在と時間』の引用「[現存在においては]存在が「逆行的もしくは先行的に関係づけられている」とその解釈と合わせることで理解できるだろう。つまり、「現存在」とは、単に現実的に存在している人間なのではなく、「存在」がその根底となっているとともに、存在への問いに向けられているものとしての「人間」なのだ。一方、サルトルの命題にあっては「実存」「本質」という語は、伝統的に使われていた意味、すなわち「現実性(Wirklichkeit)」(Ibid.)「可能性(Möglichkeit)」(Ibid.)という意味を持ったままである。それゆえ、「「実存主義」の主要命題は『存在と時間』のうちの先の命題とは[…]何も共通するところを持たない」(GA9, 329)とされる。
 このような差異は、サルトルが自身の命題に基づいて打ち立てたとされる「ヒューマニズム」に対する評価とも結びついている。「ヒューマニズム」について、ハイデガーはまず、それが一般的には「人間が人間的なものであるようにそして非人間的「インヒューマン〔人でなし〕」、すなわち、その本質から外れたものではないように、と心掛け気遣うこと」」(GA9, 319)であるということを確認している。ヒューマニズム一般のこのような規定に対し、各々のヒューマニズムは、その「人間の本質」を規定する必要がある。そして、その規定は「すでに確立されていなんらかの解釈に視座を据えている」(GA9, 321)必要があるだろう。ハイデガーが「ヒューマニズム」に関して最も問題視するのは、そうした解釈を生み出す「形而上学」(Ibid.)である。
 諸解釈を生み出す形而上学について、ハイデガーが真っ先に指摘するのは、それらが「人間を理性的動物(animal rationale)と見なす」という点である(GA9, 322)。ハイデガーはこの語をギリシア語のゾーオン・ロゴン・エコン(ロゴスを持った生き物)のラテン語訳とみなすが——ハイデガーにおいてギリシア語のラテン語訳はしばしば「諸悪の根源」とされる——、例えばそのローマにおけるヒューマニズムは、ギリシア人たちの教養を学校で学び、野蛮な状態から抜け出すことであった(GA9, 320)。このような形而上学の規定についてハイデガーはそれを「偽ではないものの制約されたもの」(GA9, 321)と考えている。そうした規定が制約され考えられていないものとは、規定がそれによって与えられるような「根源」としての「存在」(GA9, 323)である。それゆえにヒューマニズムを最も強い意味で敢行するためにも、考えられるべきは、人間の人間性ではなく「存在の真理に由来する人間の歴史的本質」である(GA9, 343)とされる。
 しかし、そうした事柄は、いかにして考えることができるのだろうか。その思索の性格をハイデガーは「存在への追想的思索」(GA9, 358)と特徴づけるが、注目すべきなのは、そこでそうした思索が「理論的でもなければ、実践的でもない」(Ibid.)とされることである。このことは今考えられるべきものが「根源」であるということと関係している。思索が「追想」的でなのは、それが、すでに我々が直面してしまっている「存在」に関して問題にするからである。しかし「存在」が先行しているのは、我々に対してだけではない。当然のことではあるが、我々がその上で立てることになる「理論」「実践」というものすらそれに先行されているのだ。ハイデガーはこのことを「存在へと身を開きーそこへと出立ちながら、存在へと帰属する限りにおいてのみ、存在そのものの方から、人間にとって法律と規律とならざるをえないような諸々の指令の割り当てが起こってくることができる」(GA9, 360,361)と語る。それゆえ、「存在」について思索するとは、理論や実践といったものを中断し、それの前提となっている事態、すなわち「存在の真理」について思いを巡らすことであると言えるだろう。したがって、思索の第一の掟とは「真理の運命としての存在について語ることの運命に従っているさま(Schicklichkeit)」であり、この、形而上学がその上に立つ存在を見据えた観点から、諸事象について、(「『ヒューマニズム』について」翻訳者の渡邊二郎の解説での言を借りれば)「複眼的な批判主義」(ハイデッガー(1997)392頁)に立つのがハイデガーの哲学の性格である。
 ところで、こうした哲学のために、芸術作品はいかなる貢献をなしうるのだろうか。この著作においては詩作は、哲学と同じ問題に同じ仕方で向き合っているとものと語られる。ハイデガーはこのことを述べるに際して、アリストテレス『詩学』で語られている事柄として、「詩作は存在者についての調査よりも、いっそう真である」(GA9, 363)と言うテーゼを挙げている。このテーゼは、ここまで見てきた「芸術作品の根源」における議論とも対応するものであろう。ハイデガーが作品において示されるものとしていた「真理」とは、そもそも「存在者についての調査」が与えるものとは全く異なる類の「真理」であった。それは、我々に対して「大地」と「世界」の「闘争」を描き出し、その上に「真理」の「根源闘争」の事態を重ねさせることによって、「歴史的な民族としての使命」を示すようなものとしての「真理」だったのである。
 しかしここまででは、芸術作品と哲学とは、共通の問題に向き合っているとしか言えないだろう。なお一層芸術作品の性格を考えるために重要なのは、小論「生けるランボー」におけるハイデガーがランボーの書簡から取り上げ問題にしている「詩は先立つものであろう([La Poésie] sera en avant!」(GA13, 225)という一節である(注45)。これは先に見た、思索が「存在への追想的思索」であることと対をなしている。我々が直面している事柄に関して反省的に思考するのが思索であるとするならば、先立つものとしての詩は、そもそも我々が何に直面しているのかを示すものだと言うことができるだろう。それは、第2章を通して検討されたような「美」のようにして我々に示されるのであり、その契機を通じて、追想されるべきものが追想されるべきものとして、自らを際立たせる暗示することに、芸術作品の哲学に対する意義を見出すことができる(注46)。

45. ハイデッガー(1977)の訳者渡邊二郎の解説によれば、この小論においても言及されているルネ・シャール(René Char 1907-1988)とのフランスにおける交流においてすでにシャールが同様のことを語っていたとされる。また、ハイデガーはその指摘を「思索と詩作との相違のすべて」とボーフレに対して語っていたとされている。

46. 一方で、ハイデガーの枠組みで「芸術作品」「哲学」を捉えたときに、哲学が芸術作品にたいしてなしうることは、芸術作品において「美」として示されているものは実のところ何であるのか、あるいは「芸術作品」が自身をそれとして我々に示すところの由来(=「根源」)とは何であるのか、を追想的に見定めさせることであると言うことができるだろう。この指摘は渡邊(1998、215頁)によってなされている。また、こうした美の先行性は、プラトンの『パイドロス』250dにおける、最も鮮明な知覚に現れ知性を導く仕方で輝くものとしての美という特徴づけを思い出させるが、ハイデガーはこのことを念頭においていたと思われる。「真理についてのプラトンの教説」において、ハイデガーはプラトンにおいて真理概念が二義的なものとなったことを指摘しているが、批判されるべき認識と事物の一致としての真理が『国家』の洞窟の比喩から生まれたとともに、真理の隠れなさと美との対応が『パイドロス』のこの箇所によって語られていることを指摘している(GA9, 231, 232)。加えて『現象学の根本問題』において、ハイデガーが哲学の根本姿勢を、生の傾向のうちに自らを解き放つものとしてプラトンのエロスであると語っていたこと(GA58, 263)も、この二者の関係を単にハイデガーはプラトンを批判したと捉えないために考える必要のある事柄であると言えるだろう。

参考文献


一次資料
ハイデガーの著作からの引用は、全集版(:Heidegger, Martin, Gesamtausgabe, Frankfurt am Main:Vittorio Klostermann,1975ff.).を用い、以下の略号と頁数を表記して指示した。挙げた邦訳を参照しつつも適宜改訳した。
GA2: Sein und Zeit
——ハイデガー『存在と時間』(『世界の名著』62)原佑・渡邊二郎(訳)、中央公論社、1971年。
GA5: Holzwege
——ハイデッガー、マルティン『杣道』茅野良男・ブロッカルト、ハンス(訳)、創文社、1988年。
——ハイデッガー、マルティン『芸術作品の根源』関口浩(訳)、平凡社ライブラリー、2008年。
GA7:Vorträge und Aufsätze
——ハイデガー、マルティン「技術とは何だろうか」『技術とは何だろうか 三つの講演』森一郎(編訳)、講談社学術文庫、2019年。
GA9: Wegmarken
——ハイデッガー、マルティン『道標』辻村公一・ブッナー、ハルトムート(訳)、創文社、1985年。
——ハイデッガー、マルティン『「ヒューマニズム」について パリのジャン・ボーフレに宛てた書簡』渡邊二郎(訳)、ちくま学芸文庫、1997年。
GA13: Aus der Erfahrung des Denkens
GA16: Reden und andere Zeugnisse eines Lebensweges
——ハイデッガー、マルティン『放下』辻村公一(訳)、理想社、1963年、5-31頁。
GA40: Einführung in die Metaphysik
——ハイデッガー、マルティン『形而上学入門』川原栄峰(訳)、平凡社ライブラリー、1994年。
GA56/57: Zur Bestimmung der Philosophie
——ハイデッガー、マルティン『哲学の使命について』北川東子・ヴァインマイアー、エルマー(訳)、創文社、1993年。
GA58: Grundprobleme der Phänomenologie
——ハイデッガー、マルティン『現象学の根本問題』虫明茂・池田喬・シュテンガー、ゲオルク(訳)、創文社、2010年。二次資料
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——フィガール、ギュンター「「建築作品は、ギリシアの神殿は、何も模写しない」―建築についての考察 ハイデガーとの関連で―」『Heidegger-Forum』貫井隆・酒詰悠太(訳)、 第十一号、ハイデガー・フォーラム、2017年、56-70頁。
池田喬「事実性の解釈学 初期フライブルク期という「道」」、秋富克也・安部浩・古荘真敬・森一郎編『ハイデガー読本』法政大学出版局、2014年、17-26頁。
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https://www.law.nihon-u.ac.jp/publication/doc/treatise/98/06.pdf(2020年10月29日アクセス)
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森一郎「ハイデガーにおける形式的暗示について」、『ハイデガーと哲学の可能性 世界・時間・政治』法政大学出版局、2018a年、3-23頁。
森一郎「哲学的言説のパフォーマティブな性格について」、『ハイデガーと哲学の可能性 世界・時間・政治』法政大学出版局、2018b年、85-100頁。
渡邊二郎『ハイデッガーの実存思想』、勁草書房、1985年(新装版)。
渡邊二郎『芸術の哲学』、ちくま学芸文庫、1998年。
渡邊二郎『歴史の哲学』、講談社学術文庫、1999年。

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